第34話 シエラ・ハイゼット
騒乱から数日後。
トアが寝室で深い眠りについている時間。
ヴァルハイト公爵邸の最奥に位置する、アルテリゼの執務室に、二人の獣人族が呼び出されていた。
「――失礼いたします、閣下。お呼びにより参上いたしました。」
重厚な黒檀の扉を開け、一礼して入室したのは、帝国近衛騎士団副官兼魔導師であるバルト・ハイゼット。
その背後には、彼の妹であり、拉致事件で救出された後、公爵邸の片隅で目立たぬよう働いている新米メイドのシエラ・ハイゼットが、緊張に身を固くして控えていた。
室内は、重苦しい沈黙と、肌を刺すような鋭い魔力のプレッシャーに満ちていた。
デスクの前に佇むアルテリゼは、窓外の庭園を冷徹な眼差しで見つめていたが、二人の入室に気づくと、ゆっくりと振り返った。
軍服に身を包んだ彼女の美貌には、色濃い疲労と、それ以上に、触れれば指が切れそうなほどの圧倒的な覇気が漂っている。
まさに、帝国最強の女傑と謳われる公爵そのものの姿であった。
「……来たか、バルト。なかへ入れ。シエラもだ。」
アルテリゼの低く凛とした声が室内に響く。
バルトの灰色髪の獣耳が、本能的な警戒でピクリと動いた。
隣に立つシエラは、小柄な身体をさらに小さくするようにして俯いている。
その姿は、どこからどう見ても、戦闘能力など皆無の、ひ弱で臆病な給仕係の少女そのものだった。
アルテリゼはデスクの前に歩み出ると、まっすぐにシエラを見つめた。
「シエラ。お前に、他言無用の極秘任務を命じる。」
「は……はいっ、閣下。私のような者にできることであれば、何なりと……」
蚊の鳴くような声で応じるシエラを見て、バルトは内心で冷や汗を流していた。
(閣下、まさかシエラを……。いや、だが……)
バルトの予感は、次のアルテリゼの言葉によって現実のものとなる。
「今日この瞬間より、お前をトアの『専属護衛騎士』に任命する。同時に、周囲にはこれまで通り『トアの身の回りを世話する新米メイド』として振る舞え。つまり、メイドを隠れみのとした、トアの影の守護者となれ。」
「――っ!?」
シエラが驚きのあまり弾かれたように顔を上げた。
その瞳が大きく見開かれる。
隣のバルトもまた、驚愕に目を見張り、思わず一歩前へと踏み出していた。
「か、閣下! お言葉ですが、シエラをトア様の護衛に!? 確かにシエラは我がハイゼット家の血を引く獣人族ですが、騎士団の訓練も受けておらぬ未熟者です。トア様の身辺警護という大任、あまりにも荷が重すぎます! もし護衛をつけられるのであれば、私が騎士団から最も腕の立つ男たちを――」
バルトが必死に異議を唱えるのも無理はなかった。
兄として妹を危険に晒したくないという気持ちもあったが、それ以上に、現在のアルテリゼにとってトアがどれほどかけがえのない存在であるかを知り尽くしているからだ。
トアの護衛に不手際があれば、それこそハイゼット家の破滅を意味しかねない。
しかし、アルテリゼはバルトの言葉を冷ややかに遮った。
「黙れ、バルト。私が何も考えずに選んだと思うか?」
アルテリゼの放った一瞥に、バルトは喉を詰まらせ、一歩退いた。
「騎士団の男どもをトアの側に置くわけにいかない。トアは繊細だ。あの拉致事件の恐怖が癒えぬ今、むさ苦しい騎士が常に影のように付き従えば、それだけでトアの心に余計な負担をかける。……それに、私は私以外の人間が、トアの私室や身辺に四六時中張り付くなど、到底容認できん。」
(……本音が漏れていますよ、閣下。要するに凄まじい独占欲ですね。)
バルトは心の中でそう突っ込んだが、もちろん口に出せるはずもない。
胃のあたりがキリキリと痛み出すのを自覚しながら、バルトは黙って次の言葉を待った。
アルテリゼは再びシエラに視線を戻し、その声音をわずかに和らげた。
「シエラ。お前が獣人族の中でも特異な『隠密』の加護を持っていることは知っている。魔力の気配を完全に絶ち、敵の背後に音もなく忍び寄るその才。 影としての素質は騎士団の誰よりも高い。そして……その華奢な見た目からは想像もつかない、一撃で猛獣の首をへし折るほどの怪力。……違うか?」
シエラは小さく息を呑んだ。
自分が隠し持っていた、獣人族としての真の実力。
普段はただのドジでひ弱なメイドを演じることで、周囲の目を欺いていた。
それを、この公爵邸の、そして帝国軍のトップである女傑は見抜いていたのだ。
「……さすがはアルテリゼ閣下。すべて、お見通しだったのですね?」
先ほどまでの怯えた少女のトーンが、完全に消えていた。
シエラの声は低く、落ち着きを払い、その瞳からは「弱者」の偽装が完全に剥ぎ取られていた。
彼女の灰色の獣耳が、すっと警戒態勢へと切り替わる。
「お前のその『見た目の脆弱さ』こそが、最大の武器だ。」
アルテリゼは力強く頷いた。
「敵はお前をただの無力なメイドと侮る。その油断こそが、トアを守るための最大の隙となる。トアの側に寄り添い、彼に威圧感を与えず、かつ、有事の際にはその身を挺して敵を屠る。この任務をこなせるのは、公爵邸広しといえど、お前しかいないのだ。」
アルテリゼの言葉は、整然としていた。
しかし、その奥にあるのは、トアを絶対に失いたくないという、狂気にも似た深い執着と愛情だった。
「ですが、閣下」
シエラは真摯な眼差しでアルテリゼを見つめ返した。
「私は、トア様とまだちゃんとお話ししたこともございません。あの方は……ルードヴィヒ皇子の陰謀を裏から打ち砕いた、恐るべき策略家であると、使用人たちの間では噂されております。そのようなお方の側に、私のような者が仕えて、本当にお役に立てるのでしょうか?」
シエラにとって、トアは雲の上の存在であり、同時に「王都を裏から揺るがした謎の青年」という、畏怖の対象でもあった。
自分がその隣に並ぶ資格があるのか、純粋な疑問だった。
その言葉を聞いた瞬間、アルテリゼの表情が、これまでにないほど劇的に軟化した。
冷徹な大公の顔が消え、そこにはただの、愛する男性を誇りに思う一人の女性の顔があった。
「ふっ……。噂など、当てにならんものだな。」
アルテリゼは愛おしそうに目を細め、口元に微かな笑みを浮かべた。
「トアは、お前たちが思っているような恐ろしい人間ではない。むしろ、その逆だ。お人好しで、傷つきやすくて、他人のために自分を犠牲にすることばかり考える、馬鹿げたほど優しい男だ。……今朝もな、まだ身体が動きにくいはずなのに、私が厨房を覗いたら、私の大好きなラム肉の煮込みの仕込みをしようとしていてな。手が思うように動かないというのに、一生懸命に包丁を握っていた。私が慌てて止めると、寂しそうに眉を下げて『リゼさんの喜ぶ顔が見たかったから』などと言うのだ。あいつは、本当に……私を狂わせるのが上手い。」
「はぁ……」
シエラは呆気に取られたようにアルテリゼのノロケ話を聞いていた。
あの戦場で敵を震え上がらせる「死神」とまで呼ばれたアルテリゼ閣下が、トアの話をしている時は、まるで恋する普通の乙女……いや、惚れ込んだ男を宝物のように語る男前な家長の顔になっている。
シエラは隣のバルトに視線を送ると、バルトは「いつものことだ、諦めろ」と言わんばかりに、死んだ魚のような目で天井を見上げていた。
副官であるバルトは、日常的にこの「トア様尊い」という閣下の惚気攻撃の直撃を受けているため、すでに精神的な耐性がついていた。
アルテリゼはコホンと短く咳払いを一つして、再びキリリとした顔に戻った。
「とにかく、トアは素晴らしい男だ。お前も、側にいればすぐにわかる。あいつが焼く菓子は絶品だし、淹れるお茶はどんな高級な茶葉よりも心を落ち着かせる。……だからこそ、私が守らねばならない。あの優しい笑顔を、二度と曇らせてはならないのだ。」
アルテリゼの拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。
「シエラ。お前に頼みたいのは、単なる物理的な警護だけではない。トアは、自分の不自由な右手や、過去の事件について、一人で抱え込みがちなところがある。私には心配をかけまいと弱音を隠す。だが、同世代のお前になら、あるいはふとした拍子に溢すかもしれない。メイドとして彼の生活を支え、友人として彼の心を癒やし、そして騎士として彼の命を守れ。……私の代わりに、あいつの細かい隙間を埋めてくれ。できるか?」
凛々しい公爵の、しかし一人の女性としての、切実な懇願。
シエラはその言葉の重みを、しっかりと受け止めた。
アルテリゼがこれほどまでに一人の男性を愛し、その安全を願っている。
その想いの深さに、胸が熱くなった。
そして同時に、それほどまでに冷徹な大公を優しく変え、狂わせる「トア」という青年への、純粋な好奇心と、守りたいという庇護欲が、彼女の心の中に小さな灯火となって灯った。
シエラはスカートの裾を上品に持ち上げ、完璧な一礼をしてみせた。
それはメイドの礼であり、同時に、心の中で誓った騎士の礼でもあった。
「――御意に。アルテリゼ閣下。このシエラ・ハイゼット、命に代えましても、トア様をお守りいたします。普段は少しおっとりしたメイドとして、トア様の美味しいお菓子を美味しくいただく係になりますが、万が一の際は、トア様に近づく羽虫を一匹残らず叩き潰して御覧に入れます。」
「ふっ、頼もしいな。お前のその気概、気に入った。」
アルテリゼは満足そうに口元を吊り上げた。
「おい、シエラ。言葉遣い……。いや、叩き潰すのはいいが、トア様の前で野蛮な真似はするなよ? トア様は本当に心優しいお方だ。お前が凶暴なところを見せて驚かせてしまったら、それこそ閣下の雷が落ちるぞ。」
バルトがハラハラしながら横から口を挟む。
「分かっています、兄様。トア様の前では、私はただの『可愛いシエラちゃん』です。トア様を驚かせるようなことはいたしません。むしろ、あのおいたわしいトア様を全力でお癒やしする所存です!」
シエラは茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
その感情の切り替えの早さは、まさに一流の隠密のそれであった。
「バルト」
アルテリゼが副官を呼ぶ。
「はっ!」
「シエラがトアの警護に集中できるよう、公爵邸内のメイドのシフトや、雑務の調整はお前が裏で行え。シエラに過度な重労働が課せられて、トアの護衛に支障が出ることのないようにな。……それから、今回の任命は、他の使用人、ひいては皇太子のレオンハルトにも極秘だ。知っているのは、ここにいる我々三人だけだと思え。」
「承知いたしました。シエラのサポートおよび情報統制、このバルトが完璧にこなしてみせます。……これでまた、私の睡眠時間と胃壁が削られることになりそうですが」
バルトはわざとらしくため息をついたが、その表情には、主君からの絶対的な信頼に対する喜びが滲んでいた。
「苦労をかけるな、バルト。お前が愛用している特注の胃薬の予算は、公爵家の経費からいくらでも出してやる。」
「ありがたき幸せに存じます、閣下!」
バルトの冗談交じりの返答に、室内の重苦しい空気は完全に霧散していた。
「よし、話は以上だ。シエラ、トアは間もなく目を覚ますだろう。早速だが、今日からトアの寝室の前に控え、彼が目覚めた際の手伝いをしてやってくれ。トアには、私が『新しくお前の専属メイドをつけた』と伝えておく。護衛であることは、トアにも伏せておけ。あいつは自分が守られる立場であることを気に病む性質だからな。余計な気遣いをさせたくない。」
「かしこまりました。それでは、早速トア様のもとへ向かいます。」
シエラはもう一度深く一礼すると、音もなく執務室を退室していった。
その足取りは軽く、しかし確かな覚悟に満ちていた。
室内に残されたアルテリゼとバルト。
アルテリゼは再び窓の外、トアが大切に手入れしている庭園を見つめ、静かに呟いた。
「バルト。私は、トアがこの帝国で、世界で一番幸せであるべきだと思っている。」
「……はい。閣下のそのお気持ちは、日頃の行動から痛いほど伝わっております。」
「あいつの不自由な体を、私が一生支える。あいつが笑って暮らせるなら、私は軍の激務も、貴族どもの陰湿な権力闘争も、いくらでも耐えてみせる。だが……私一人の目では、軍務の最中など、どうしても届かない隙ができる。そこを、シエラに埋めてほしいのだ。」
バルトは、主君の背中を見つめた。
かつて「氷の女公爵」と恐れられ、戦いの中にしか居場所がなかったはずのアルテリゼが、トアという一人の青年と出会ったことで、これほどまでに人間らしく、そして「誰かを守るために」さらに強くなった。
「ご安心ください、閣下。シエラは私の自慢の妹です。見た目はあのように頼りなく見えますが、ハイゼットの血を最も濃く継いだ、一騎当千の戦士。トア様の影として、これ以上ない適任者です。閣下はどうぞ、安心してトア様を存分に甘やかして差し上げてください。」
「フッ……。言われずとも、そのつもりだ。あいつを世界一甘やかすのは、私の特権だからな?」
アルテリゼはそう言うと、デスクの上の書類を猛烈な勢いで整理し始めた。
「今日の書類仕事はここまでにする。私はトアの寝室へ戻る。バルト、残りの軍本部への連絡と書類の決裁は任せたぞ。」
「えっ!? 閣下、お待ちください! まだ重要な軍事予算の決裁が三件ほど残って――」
「任せた。トアが私を待っている。」
アルテリゼはバルトの抗議を聞く耳持たず、軍服の外套を翻し、風のような速さで執務室を出て行ってしまった。トアの元へ一秒でも早く戻りたいという、その凄まじい執念に、バルトはただただ呆然とするしかなかった。
「……はぁ。本当に、トア様のことになるとこれだ。我が主ながら、凄まじい男前っぷりと、凄まじい過保護さですね。よし……まずは執務室の引き出しから、特効薬の胃薬を飲むとしよう……」
バルトは頭を抱えながらも、どこか嬉しそうに微笑み、主君の後始末をするためにペンを執るのだった。
一方、公爵邸の長い廊下を歩くシエラは、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
(トア様……。あのアルテリゼ閣下がそこまで愛して、狂おしいほどに守ろうとする、馬鹿げたほど優しいお方。一体、どんな素敵な方なのかしら)
これから始まる、新しい日常。
メイドの衣装に身を包んだ「最強の護衛騎士」は、まだ見ぬ主人の笑顔を思い浮かべながら、トアの待つ寝室へと、静かに歩みを進めていくのだった。




