幕間 三年前の大雨の夜、君の孤独に触れた日
―それは、今から三年前。
俺が王都の片隅にある古文書館で、見習い司書として働き始めて間もない頃の、激しい大雨の夜のことだった。
「うわぁ、すごい雨だな……。早く帰って、あったかいスープでも作ろうか。」
バケツをひっくり返したような豪雨の中、俺は古文書館の重い木製の扉をパチリと閉め、戸締まりを終えた。
使い古した一本の傘を差し、水溜まりを避けるようにおっとりとした歩調で、薄暗い王都の裏路地を歩き始める。
(冷えるなぁ)
雨の音が世界を塗りつぶしたかのように、周囲は静まり返っていた。
だが、とある薄暗い十字路に差し掛かった瞬間。
俺の生まれつきの特異体質――自称「人外観察センサー」が、ピリピリと奇妙なシグナルを感知した。
(ん……? なんだろう、この感覚)
肌を刺すような、冷たくて重々しい空気。
普通の人間なら、恐怖で本能的に足がすくむような、圧倒的な「魔力の嵐」が路地の奥から吹き荒れてきている。
(魔力暴走?)
物理的な風ではない。
精神をガリガリと削るような、強大で、そしてどこか迷子の子どものように悲痛な魔力だ。
(誰かが、すごく苦しんでいるみたいだ。……ちょっと見てみよう。)
普通の人なら絶対に回れ右をして逃げ出す光景だろう。
けれど、昔から珍しい生き物や精霊に好かれやすかった俺は、特に恐怖を抱くこともなく、吸い寄せられるように暗い路地裏の奥へと足を進めていた。
ゴミ捨て場の陰、冷たい泥水が溜まった地面に、その『誰か』はうずくまっていた。
「う、うう……来るな……! 私に触れれば、噛み殺すぞ……!」
低く、地を這うような獣の唸り声。
そこにいたのは、一人の女性だった。
けれど、その姿は明らかに人間の枠を外れかけている。
泥にまみれた美しいプラチナブロンドの髪。
その隙間から覗く白い頬には、夜空の星のように輝く硬い鱗がびっしりと浮かび上がっている。
さらに、衣服を破って背中からは漆黒の翼が半分生えかけ、地面を抉る左手は鋭い竜の爪へと変貌しかけていた。
(わあ、すごい……。綺麗な鱗。でも、すごく辛そうだ。)
彼女の周囲には、暴走した魔力による凄まじい衝撃波――のちに知ったことだが、並の人間なら即死するほどの「龍圧」がバチバチと放たれていた。
けれど、俺は、不思議とそういう人外の力を受け流すのが得意だった。
「あ、危ないなぁ」と思いながら、風圧をのれんをくぐるようにおっとりといなしながら、俺はトコトコと彼女の目の前まで歩み寄る。
そして、自分が差していた傘を、そっと彼女の上に差し掛けた。
バチバチと鳴り響いていた激しい雨の音が、布一枚を隔てて少しだけ静かになる。
「な……貴様、人間……!? なぜ、この姿を見て逃げない……! 私は、竜の化け物だぞ……!」
彼女は琥珀色の瞳を血走らせ、鋭い牙を剥いて俺を睨みつけてきた。
今にも噛み殺されそうな距離。
けれど、俺には彼女が獰猛な怪物ではなく、傷ついて怯えきった小さな子犬のように見えていた。
「化け物だなんてとんでもない。こんなに綺麗な髪と鱗をしているんですから。」
俺は本気でそう思った。
だから、迷わずに手を伸ばした。
泥まみれで、夜色の鋭い鱗に覆われた、熱く硬い彼女の左手を――俺の頼りない両手で、そっと包み込む。
「うわぁ、凄い熱だ。……痛いですか? 大丈夫ですか?」
彼女の身体は、凍える雨の中で信じられないほど熱く燃えていた。
怯える彼女を少しでも安心させたくて、俺はなるべく声を優しく潜める。
「熱くて苦しいなら冷たいお水、飲みますか? 大丈夫ですよ。俺、ここにいますからね。」
俺は腰の鞄から、自分の水筒を取り出して彼女の乾いた唇にそっと近づけた。
さらに、寒さにガタガタと震える彼女の細い肩を見て放っておけなくなり、自分が着ていた安物の上着を脱いで、そっと羽織らせてあげる。
「あ……」
その瞬間、彼女の動きがピタリと止まった。
(…?)
俺の両手から伝わる体温に驚いたのか、それとも水筒の冷たい水が心地よかったのか。
彼女の鋭い琥珀色の瞳から、すうっと刺々しい敵意が消えていく。
すると不思議なことに、あれほど周囲で激しく渦巻いていた魔力の嵐が、嘘のようにふっと凪いでいったのだ。
(あ、熱が引いてきた。よかった……)
ホッとしたのも束の間、彼女はトロンとした目になり、俺の胸にすり寄るように頭を預けてきた。
くんくん、と俺の衣服の匂いを深く吸い込んでいる。
頭の上に生えた竜の耳が、嬉しそうにピコピコと小さく動いているのが見えて、俺は思わず「可愛いなぁ」と頬を緩めた。
俺はそのまま彼女の体温が落ち着くまで、大雨の冷たさも忘れて、ただ静かにその手を握り続けていたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。
古文書館の軒下で目が覚めると、すっかり雨は上がっていた。
驚いたことに、彼女の呪いは完全に解け、身体は傷一つない美しい人間の女性の姿に戻っていた。
「あ、おはようございます。体調、良くなりましたか?」
上着を彼女に貸したせいで、俺は少し風邪をひいてしまい、おっとりと鼻をすすりながら微笑みかける。
(落ち着いて良かった。それにしても綺麗な人だなぁ。)
俺が呑気にそんなことを考えていると、彼女は俺の顔をじっと見つめてきた。
その琥珀色の瞳の奥に、昨夜の怯えはもうどこにもない。
代わりに、まるで世界で一番大切な宝物を見つめるような、ものすごく熱くて、深くて、ちょっと圧倒されるほどの強い光が宿っていた。
当時の俺は、まさかこの数秒後に「この男を生涯かけて溺愛し、全力で囲い、世界一幸せにしよう」と彼女が心に深く誓っただなんて、これっぽっちも気づいていなかったのだった。




