第32話 食卓の諧調、脳裏を奔る微差
第一皇子ルードヴィヒが永久幽閉に処されてから数日。
帝都は表向きの平穏を取り戻し、アルテリゼ公爵邸のダイニングキッチンには、再び温かくて優しいスープの香りが立ち込めていた。
トアがじっくりと煮込んだ根菜と干し肉のスープ。
高級な食材こそ使われていないが、素材の旨味が丁寧に引き出された家庭料理がテーブルに並ぶ。
そこにはトアとリゼ、 バルトと、無事に救出された妹のシエラの姿があった。
「トア様、本当に、身体の芯まで優しさが染み渡ります……っ」
バルトは大粒の涙をスープに落とさないよう必死に堪えながら、夢中でスプーンを口に運んでいた。
シエラも「美味しい!」と嬉しそうにライ麦パンをかじっている。
「感謝する、トア。君の作った料理は……やはり、世界で一番の宝物だ。」
リゼは姿勢を正し、本当に幸せそうな顔でスープを口に運んでいた。
その頭上では、夜色の耳がピコピコと跳ね、軍服の裾からは太い竜の尻尾が床を優しくパタパタと叩いている。
しかし、そんな温かい食卓の中で、トアは静かにスープを見つめながら、自身の脳内データベース――その『頭脳』をフル稼働させていた。
レオンハルトが差し出した、あの『特効薬』。
あれを口にして以来、彼の頭脳は完全に明晰さを取り戻し、同時にある「強烈な違和感」を弾き出していた。
「……バルトさん。少し、お聞きしたいことがあるんです。」
トアの穏やかな、しかしどこか芯のある声に、バルトがスプーンを止めて顔を上げた。
「は、はい。何でしょうか、トア様?」
「俺が国境の手前で馬車ごと転移させられた後……リゼさんは、どうやってあのガラルディアの地下牢獄の正確な座標を特定したのですか?」
「それは……」
バルトが視線をリゼへと向けた。
リゼがスープの器を置き、大真面目な顔で答える。
「ああ、それなら国境で絶望していた私の前に、第二皇子直属の『黒曜騎士団』の最速班が突然現れたのだ。彼らが独自の探知魔術によって、不法な空間転移の残痕から座標を割り出したと言って、書状を私に突きつけてきた。なぜ彼らがそこまで正確に追跡できたのかは分からんが、結果としてトアを救えたのだから、私は彼らに一つ借りができたな。」
リゼはそう言って、再び満足そうにスープを口に運んだ。
だが、トアの頭脳は、その一言から恐ろしいほどの速度でパズルのピースを組み換え、一つの「冷徹な結論」へと辿り着いていた。
(……おかしい。黒曜騎士団の独自の探知魔術? そんなはずはない。)
トアの瞳の奥で、鋭い知性の光が明滅する。
(ガラルディアの暗殺部隊が使ったのは、数百年前の古代語を応用した高位転移スクロールだ。しかも接続の呪式が3箇所も間違っていた。あの不完全な歪み――『微差』から発生した魔力波形は、特異すぎて、事前の予備知識や受信環境がなければ、その場で一瞬にして正確な座標へと逆探知することなど、いくら黒曜騎士団でも物理的に不可能なはずだ。)
さらに、トアの脳内データベースは、レオンハルトが持ってきたあの『特効薬』の成分データを解析していた。
(あの特効薬もそうだ。数百年前の暗殺ギルドが秘匿していた禁薬『竜血の睡魔』の呪刻を、なぜ、何の関係もないはずの第二皇子が、あのタイミングで、完璧な配合比率の特効薬として『準備』できていたんだ? ――答えは一つしかない。)
古文書館の書記官として、数々の歴史の裏に隠された陰謀や、古代の文豪たちが遺した『ミステリー(推理小説)』の全データベースをその頭脳に叩き込んできたトア。
彼にとって、この状況はまさに、完璧に仕組まれた「二重の罠」の構造そのものだった。
そして何より、トアの胸を締め付けたのは、その解答が指し示す「ある人物の影」だった。
(あの特効薬の驚異的な精度…… 僕を殺さずに『精神の迷宮から引き戻す』ことだけを目的に作られた、あのあまりにも優しすぎる配合。……あれを作れる人間を、僕は一人しか知らない。)
トアの脳裏に、数年前、薄暗い古文書館の片隅で、身分を隠して「レオ」と名乗っていた一人の青年との記憶が鮮やかによみがえる。
お互いに本を読み、歴史を語り、時にはトアの作った不器用なお茶菓子を「美味い」と不愛想に食べていた、トアの数少ない大切な『友人』。
(……レオ。君だったんだね。いや、レオンハルト殿下――)
トアはふっと、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべた。
しかしその胸には、友のあまりにも冷徹な、けれどどこか自分を生かそうとした歪んだ執念に対する、複雑な痛みが走っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
思考の霧は晴れ、恐るべき陰謀の全貌を看破したトアだったが、彼の肉体には、あの悪夢のような拉致の深い代償が刻まれた。
「……トア?」
リゼがふと、手元のスープから顔を上げた。
トアの様子が奇妙だったからだ。
トアは穏やかな笑みを浮かべたまま、ピタリと動きを止めていた。
その手にはスプーンが握られたままで、スープの温かい湯気が彼の顔を優しく包んでいる。
「トア様……?」
バルトが声をかけるが、返事はない。
次の瞬間、トアの手からスプーンが滑り落ち、カチャリと静かな音を立てて皿の縁を叩いた。
トアの身体が、糸の切れた人形のように、ゆっくりと前方に傾いていく。
「トア――ッ!!」
リゼが凄まじい速さで身を乗り出し、机に突っ伏す寸前のトアの細い身体をその強靭な腕で抱きとめた。
トアの瞳は完全に閉じられ、その呼吸は深く、静かだった。
まるで、つい先ほどまで普通に会話していたことが嘘のように、深い深い眠りの底へと落ちてしまっている。
命こそ助かったものの、脆弱な肉体に対して、伝説の禁薬『竜血の睡魔』と複数の強力な神経毒を過剰に打ち込まれ、さらには魔力封じの鉄枷を嵌められたまま空間転移の過酷な負荷を浴びた影響は、あまりにも重かった。
トアの脳細胞と精神の防衛本能には、治癒魔術やレオンハルトの特効薬でも完全に消し去ることのできない、「何の前触れもなく突発的に深い昏睡状態へと陥る」という深刻な神経の後遺症が残ってしまっていたのだ。四肢にも神経を侵した毒による麻痺が残り、トアは車椅子なしでは生活できなくなった。
「そんな……。傷も毒も、もう完全に消えたはずなのに……」
バルトが血の気の引いた顔で立ち尽くし、シエラも不安そうにリゼの軍服の裾を握りしめる。
リゼは、胸の中で生き人形のように静まり返ったトアを、壊れ物を扱うように愛おしそうに、きつく抱きしめた。
彼女の琥珀色の瞳には、隠しきれない悲痛な怒りと、それ以上の深い溺愛の光が宿っていた。
「医師が言っていた……。肉体は癒えても、過剰な薬物と転移の負荷によって、彼の脳は疲弊しきっている。精神が自己防衛のために、何の前触れもなく突然すべての機能を停止させ、深い昏睡の殻に閉じこもってしまうのだと。」
数分、あるいは数時間。
トアがいつ目覚めるのか、それは誰にも分からない。
リゼはトアをそっと横たえ、彼の穏やかな寝顔を見つめながら、自身の頭上の「竜の耳」を悔しさに強張らせ、軍服の裾から覗く太い「竜の尻尾」を、トアを起こさないよう静かに、しかしぎりぎりと怒りを堪えるようにうねらせた。
「トア……貴方にこんな消えぬ傷を負わせた者を、私は決して許さない。君が眠っている間、君のこの無防備な身体は、私が、私の命に代えても生涯守り続ける。」
やがて、数分が経過した頃。
「……ん……。あ、すみません、リゼさん。また、寝てしまいましたか?」
トアの瞳が何事もなかったかのように開き、彼は少し眠そうに微笑んだ。
傷つけられ、不自由な爆弾を抱える身体になってもなお、彼の『頭脳』はリゼへの愛のために完全に研ぎ澄まされていた。
「大丈夫だ、トア。私がい時でも、君を抱きとめるからね。……さあ、話を聞こう。貴方は、あの薬の何に気づいたんだ?」
トアはリゼの手の温もりに支えられながら、再びその卓越した知性を輝かせ始めた。




