第31話 皇子の訪問と昏き深淵の融解
トアが昏睡状態に陥ってから、丸一日が経過しようとしていた。
名医たちが万策尽き、公爵邸の空気が完全に凍りついていたその時、部屋の扉が音もなく開かれた。
「――酷い有様ですね、アルテリゼ公爵。帝国の最強が、そのような平民一人のために、随分と哀れな顔をしている。」
現れたのは、第二皇子レオンハルトだった。
彼は王宮でのルードヴィヒの断罪を終え、まるで最初からこの結果を知っていたかのような、傲慢で完璧な微笑みを浮かべて立っていた。
「……何をしに来た、レオンハルト皇子。」
私は立ち上がり、地獄の底から響くような声で唸った。
私の全身から立ち上る底なしの殺意の魔力に、レオンハルトの背後に控える『黒曜騎士団』の護衛たちが一斉に身構える。
「貴方を救いに来たのですよ。正確には、貴方の最愛の婚約者をね?」
レオンハルトは護衛を手で制すると、懐から一本の、不気味なほど透明な液体が満たされた小瓶を取り出した。
「それは……」
「我が黒曜騎士団が、独自のルートで入手した秘薬です。古代の暗殺ギルドが遺した『竜血の睡魔』――その精神混濁と昏睡の後遺症を、完全に内側から解きほぐすためだけに私が準備した、唯一の特効薬ですよ。」
レオンハルトは小瓶を指先で弄びながら、冷酷な勝者としての目を私に向けた。
「名医たちがどれほど高位の治癒魔術を唱えようとも、その混濁した脳の迷宮を解き明かすことはできない。トア殿を救えるのは、この薬だけだ。
……どうです? これを差し上げてもいい。ただし――トア殿が目覚めた暁には、貴方と近衛騎士団のすべてを、我が派閥へと組み込んでもらいたい。……彼を救えるのは、この私だけだ。」
究極の選択だった。
レオンハルトの提案は、逆らえばトアの命はないという暗黙の脅迫であり、ルードヴィヒの陰謀すらも利用して自分を軍門に降らせようとする、血も涙もない完璧な交渉。
私は悔しさに奥歯を噛み締め、竜の爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握った。
トアを政治の道具として弄び、その命を天秤にかけるこの皇子を、今すぐ肉片にしてやりたいという衝動が激しく渦巻く。
だが――私の目の前には、今にも消え入りそうなトアの呼吸があった。
私のプライドなど、彼の命に比べれば一銭の価値もない。
「……その薬を、寄こせ。」
私は声を絞り出すようにして言った。
「賢明な判断です、公爵。」
レオンハルトは満足げに微笑むと、小瓶をベッドの脇のテーブルへと置いた。
「トア殿が目覚めた後、良い返事を期待していますよ?」
皇子が冷酷な気配を残して部屋を去った後、私は震える手でその小瓶を取り上げ、名医たちに成分を確かめさせた。
罠の可能性を警戒したが、医師たちは「間違いありません……! 精神の解毒に特化した、伝説の術式が込められた秘薬です!」と目を見開いた。
私はトアの身体を少しだけ抱き起こし、その青白い唇の隙間から、レオンハルトの準備した透明な特特効薬を、ゆっくりと、一滴ずつ流し込んでいった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薬液が喉を通り抜けた瞬間、トアの脳に、劇的な変化が巻き起こった。
(……あ、暗闇が……溶けていく……?)
トアの精神は、自身の脳内の最も深い場所――神経毒の霧によって完全に機能が停止していた巨大な『書庫』の中にいた。
これまで、どれほど中和術式を組もうとしても、精神を混濁させる迷宮に阻まれ、出力が肉体の限界を超えて消滅してしまっていた。
しかし、レオンハルトの準備した特効薬の成分が体内に染み渡った瞬間、脳細胞を縛り付けていた歪んだ呪式の網が、内側からパキパキと音を立てて融解し始めたのだ。
(……霧が晴れていく。……これなら、データベースの全領域を再起動できる。……体内に残留している『竜血の睡魔』の触媒を完全に中和する術式……構築、完了。……出力、開始……!)
トアの脳内中枢が、怪物的な速度で回転を始める。
特効薬という最後のピースを手に入れた彼の『頭脳』は、一瞬にして体内のすべての毒素を完璧に分解し、麻痺していた神経の伝達経路を力技で繋ぎ直していった。
そして――。
「……ん、……」
ベッドの上で、トアの瞳が、ゆっくりと、静かに開いた。
「トア……!? トア、目覚めたのか……っ!?」
ベッドの脇で、一歩も動かずに彼の手を握り続けていた私の視界に、あの愛しい琥珀色の光が飛び込んできた。
嬉しさと安堵のあまり、アルテリゼの頭の上の「竜の耳」がピキピキと震え、軍服の裾からは太い「竜の尻尾」が、――ポンッ、パタパタパタパタパタ!!!と、公爵邸の絨毯を激しく、狂ったように叩き始めた。
「おはようございます、リゼさん。……お待たせしてしまって、すみません。」
トアはまだ少し不自由な腕を伸ばし、泣きじゃくりながら自分に抱きついてくる私の身体を、あの底なしの温かい包容力で、優しく、確かに抱きしめてくれた。
「トア、トア……っ! 怖かった、貴方がこのまま目覚めないのではないかと、私は……っ」
「大丈夫ですよ、リゼさん。僕はちゃんと、ここに帰ってきましたから。」
満身創痍の絶望の果てに、トアの驚異的な『頭脳』と、差し出された秘薬の力によって、私たちはついに奇跡の目覚めを迎えた。
しかし、トアの瞳の奥には、目覚めた瞬間から、この一連の事件の裏に隠された「もう一つの歪み」を完璧に見通す、鋭い知性の光がすでに灯り始めていた――。




