第27話 獣耳の慟哭、拭えぬ大罪
空間がねじ切れるような狂暴な浮遊感の後、強烈な重力がトアの身体を叩きつけた。
「う……っ、がはっ……!」
激しい衝撃に、トアの口元から再び血が溢れ出る。
転移させられた先は、冷徹な石造りの壁に囲まれた、ガラルディア王国領内の一画にある地下牢獄だった。
湿った苔と鉄錆の臭いが立ち込め、天井の隙間からわずかに差し込む月光だけが、暗闇を青白く照らしている。
人間の脆弱な肉体にとって、超高位転移の負荷はあまりにも大きすぎた。
体内で暴れ回る禁薬『竜血の睡魔』と数種類の神経毒が、中和術式を組もうとするトアの思考中枢を執拗に掻き乱す。
魔力封じの鉄枷が嵌められた細い腕は完全に感覚を失い、衣服を引きちぎられた肌には、冷たい石床の拒絶するような寒気が容赦なく突き刺さっていた。
「おい、死んじゃいねえだろうな。ルードヴィヒの旦那に引き渡すまでは、絶対に生かしておけよ。」
引き連れてきた暗殺兵たちが、牢の外で格子戸を乱暴に閉め、重々しい錠前を下ろす。
カチャン、という金属音が地下特有の不気味な反響を伴って響き渡り、やがて彼らの足音は遠ざかっていった。
静寂が戻った牢獄。
トアは冷たい床の上に横たわったまま、荒い呼吸を繰り返していた。
視界は毒のせいで激しく明滅し、脳内のデータベースが警報を鳴らし続けている。
(……感覚が、消えていく。……知識があっても、この肉体が出力に耐えられない……。これでは、リゼさんに、僕の座標を伝えるための『微差』すら……構成、できない……)
じわり、と焦燥感がトアの胸を焦がした。
どんな古文書の知識も、それを実行するだけの命が尽きてしまえばただの文字の羅列に過ぎない。
自分がこのまま暗闇に沈めば、あの優しくて格好良い婚約者は、永久に自分を見失ってしまうかもしれない。
その時、静まり返った牢獄の通路から、微かな、しかし聞き覚えのある足音が近づいてきた。
カツ、カツ、と響く靴音。
鉄格子の向こうに現れたのは、灰色髪の獣耳を深く伏せ、絶望を絵に描いたような顔で立ち尽くす男――近衛騎士団副官、バルトだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
バルトは鉄格子を強く握りしめ、中に転がっているトアの姿を凝視した。
衣服を剥ぎ取られ、全身に痛々しい痣を刻まれ、血を流して息も絶え絶えになっているトア。
いつも公爵邸で「バルトさん、お疲れ様です」と、温かいスープを差し出してくれていたあのトアが、自分の裏切りのせいで、このような無残な姿に成り果てている。
「トア……様……」
バルトの声は、ひどく震えていた。
その手には、いまだに幼い妹シエラの写真が固く握りしめられている。
「……バルト、さん……」
トアは焦点の合わない翡翠の瞳を、辛うじて鉄格子の向こうへと向けた。
声を出そうとするだけで、喉の奥から血の味がせり上がってくる。
「なぜ……ここに。ここは、隣国の……」
「ルードヴィヒの指示です。奴の私領へ身柄を移すための、一時的な中継地として、このガラルディアの地下牢が使われました。俺は、奴の『犬』として、あなたをここまで監視するために連れてこられた……」
バルトはガチガチと歯の根を鳴らしながら、その場に崩れ落ちるように膝を突いた。
鉄格子に額を押し付け、泥を這うような声で慟哭する。
「言い訳など、いたしません……! 俺を、俺を今すぐ呪ってください……! 俺が、ルードヴィヒの脅迫に屈したせいで、あなたの信頼を裏切り、その身体を劇薬漬けにして、こんな冷たい場所に突き落とした……!! 全ては、俺の犯した大逆罪です……っ」
バルトの拳が、石の床を血がにじむほど強く叩く。
「だけど……シエラが、俺のたった一人の妹が、奴の手に落ちて……! 『トアを連れ出さなければ、今すぐ妹の首を王都に届ける』と言われて……! 俺には、俺にはどうすることもできなかったんだ……! あなたの命と引き換えに、俺は身内の命を――」
それは、権力者たちの冷徹な盤面の上で、最も大切なものを踏みにじられた一人の騎士の、血を吐くような絶望の叫びだった。
バルトの悲痛な叫びが、地下牢の冷たい空気を震わせる。
激しい自己嫌悪と恐怖に狂いそうになっている副官を見つめながら、トアは、よろりと、本当に痛々しい動作で上体を起こした。
身体中の傷が悲鳴を上げ、神経毒が脳を鋭く刺す。
それでもトアは、後ろ手に縛られたまま、ずるずると這うようにして、鉄格子のすぐ側まで移動した。
「バルトさん」
トアは低く、しかし驚くほど穏やかな声で呼びかけた。
「顔を、上げてください」
「……っ、トア様……? 俺は、あなたをこんな目に……!」
「妹さんの命がかかっていたんでしょう? だったら、迷う必要なんてどこにもありません。バルトさんが妹さんを守ろうとしたのは、当然のことです。……僕を売ったことなんて、気にしないでください。」
「な……何を、言って……!」
バルトは呆然と目を見開いた。
自分がしたことは、国家反逆であり、親愛なる仲間への最悪の裏切りだ。
殴られ、罵られ、激怒されて当然の所業のはずだった。
それなのに、トアは、血を流しながらも、いつもと変わらないあの「温かくて優しい包容力」を湛えた目で、自分を許そうとしている。
「バルトさんは、馬車を走らせているとき……僅かに、速度を落としてくれていましたね?」
トアは微かに微笑み、自身が検知していた『微差』を口にした。
「劇薬を盛られて意識が遠のく中で、僕の頭は、バルトさんが必死に抵抗しようとしていたその『微差』を、ちゃんと拾っていました。……もし、本当にあなたが僕をただの道具として切り捨てるつもりなら、もっと早く、リゼさんの追撃を完全に振り切って国境を越えていたはずです。」
「トア、様……」
バルトの目から、堰を切ったように涙があふれ出た。
「バルトさんが、俺たちのためにいつも胃を痛めながら、一生懸命に公爵邸を支えてくれていたこと、僕はちゃんと知っていますよ。だから、自分を責めないでください。……それにね」
トアの翡翠の瞳が、暗闇の中で、ふっと知的な、そしてどこか不敵な光を宿した。
「俺の婚約者は、あのアルテリゼさんですよ? 彼女が、俺をこんな目に遭わせた人たちを、大人しく見逃すはずがないでしょう。」
トアは鉄格子に頭を軽く預け、少しだけ悪戯っぽく笑ってみせた。
「今頃、リゼさんは怒りのあまり、可愛い『竜の耳』も『竜の尻尾』も全部ひっくり返して、完全な『怪物』としてここに翔んできているはずです。……レオンハルト殿下の冷徹な作戦盤も、ルードヴィヒ第一皇子の浅薄な野心も、あの人の『物理的な力』の前には、ただの紙切れに過ぎませんから。」
その言葉に応じるかのように。
トアは、地下牢の最奥から、ガラルディアのアジト全体を揺るがす凄まじい地鳴りと、絶対零度の魔力波形の接近を感知した。
「ほら、お迎えが来ましたよ、バルトさん。」
トアが静かに告げたその瞬間、牢獄の天井に、網の目のように巨大な亀裂が走り始めた――。




