第26話 凍てつく追撃、あと一歩の絶望
「……ッ!」
仕切りの小窓からその様子を目撃したバルトは、思わず息を詰め、手綱を握る両手に血が滲むほど力を込めた。
車内では、トア様が、あのいつも穏やかで優しかったトア様が、獣のような大男たちに玩具のように扱われ、暴行を受けている。
頭を壁に打ち付けられ、血を流している。
その原因を作ったのは、他でもない、この自分だ。
(止めろ……止めろ、お前たち! それ以上、トア様に触るな……!)
バルトは今すぐにでも手綱を放り出し、車内へ飛び込んであの暗殺兵たちの首をねじ切りたかった。
しかし、彼がここで不審な動きをすれば、ガラルディアの連絡員を通じて、即座に故郷の妹シエラの首が撥ねられる。
ルードヴィヒの監視の目は、この馬車の影にすら潜んでいるのだ。
妹の命を守るためには、このまま馬車を走らせ、トアが傷つけられるのを、ただ黙って見ていることしかできない。
「くそ……くそおおお……っ!!」
バルトは声にならない絶望の悲鳴を喉の奥で噛み締め、涙で視界を滲ませながら、ただひたすらに夜の街道を進むしかなかった。
近衛の誇りも、トアへの忠義も、すべてが彼自身の無力さによって、容赦なく踏みにじられていく。
一方、車内の暴行はさらにエスカレートしていた。
「おい、この男、何か隠し持っていやしねえだろうな。公爵邸の魔導具だの、緊急連絡用の通信石だのを持ってたら厄介だ。」
「ああ、徹底的に剥ぎ取って調べろ。」
男の一人が冷酷な命を下すと、もう一人の大男が、トアの衣服に手をかけた。
男はその襟元を乱暴に掴むと、人間の力とは思えない腕力で、一気に引きちぎった。
――バリバリッ!!!
布地が派手に裂ける不快な音が、狭い車内に虚しく響き渡る。
ボタンが弾け飛び、床にバラバラと落ちていく。
トアの脆弱な、お世辞にも鍛えられているとは言えない青白い肌が、夜の冷気の中に剥き出しにされた。
「おいおい、本当に何も持ってねえな。魔力の一片すら感じられねえ、ただの貧弱な身体だ。」
男はトアの剥き出しになった胸元や腕を、検品するかのように不躾な手で何度も触り、探った。
その際、硬い爪や拳が、トアの柔らかい肌に何度も容赦なく食い込み、瞬く間に赤黒い擦り傷や打撲の痕を作っていく。
魔力封じの鉄枷が嵌められたトアの細い腕は、すでに鬱血し始めており、男たちに乱暴に振り回されるたびに、関節が悲鳴を上げていた。
(痛い、な……。でも、それ以上に……)
意識の混濁が極限に達し、呼吸すらも浅く、生き人形のようになっていく中で、トアの脳内データベースは、なおも冷静に思考を続けていた。
(僕の服が、破られて……こんな風に、傷だらけにされて……。リゼさん……)
トアが今、この極限の暴行の中で感じているのは、自分への恐怖ではなかった。
もし、この惨状を、アルテリゼが知ったら。
自分が薬を盛られ、衣服を剥ぎ取られ、血を流し、そしてバルトが絶望の果てに裏切らざるを得なかったという全ての事実を、あの帝国最強の半竜が知ってしまったら。
一体、この国はどうなってしまうのだろうか。
ガラルディアという国は、どれほどの恐怖を味わうことになるのだろうか。
トアは朦朧とする意識の中で、今自分を痛めつけている暗殺兵たちの、あるいはこの陰謀を企てた皇子たちの、あまりにも近いうちに訪れるであろう「物理的な破滅」に対して、純粋な戦慄を覚えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おい、後ろを見ろ! 何だありゃあ!?」
突然、御者台の暗殺兵が悲鳴のような声を上げた。
バルトがバックミラー代わりに設置された魔導鏡へ目をやると、遥か後方の街道から、爆発的な勢いで迫り来る白銀の光嵐が見えた。
「閣下……! アルテリゼ閣下……!!」
それは、軍勢を率いて猛追してくるアルテリゼだった。
レオンハルトの用意した令状をひったくり、公爵領の精鋭兵と近衛騎士団を従えた彼女は、トアが連れ去られた怒りのままに街道を爆走していた。
彼女自身が放つ絶対零度の魔力によって、街道の草木や土が一瞬にして凍りつき、白銀の轍を描いている。
「クソが、何て速さだ! 国境の関所を通過する前に追いつかれちまうぞ!」
「ガラルディアの本隊が待つ国境線まで、あとわずかだってのに……!」
リゼの率いる騎馬兵たちの地鳴りが、物理的な轟音となって馬車を揺るがし始める。
先頭を飛ぶように駆けるリゼの、琥珀色の縦スリットの瞳が、暗闇の中で怒りの炎を宿してギラギラと輝いているのがはっきりと見えた。
その距離、わずか数百メートル。
彼女がその美しい竜の爪を振るえば、この馬車など一瞬で一刀両断にされるだろう。
「トア……!!」
地獄の底から響くような、しかしどこか引き裂かれそうなリゼの叫びが、夜の風に乗って馬車へと届く。
(リゼ、さん……)
車内で薬の混濁に耐えていたトアの耳にも、その愛しい人の声が届いた。
あと少し。
あと一歩で、彼女の温かい手が自分をこの地獄から救い出してくれる。
バルトもまた、心の中で「閣下、トア様を救ってくれ!」と叫び、わざと手綱を引き絞って馬車の速度をわずかに落とした。
リゼの差し伸べた手が、馬車の後部へと届くかと思われた、まさにその刹那。
「……チッ、ここまでか! 予定変更だ、今すぐ発動しろ!!」
車内の黒装束の魔導士が、苦渋に満ちた表情で叫んだ。
本来なら国境の安全な陣地に入ってから使用するはずだった、超高位の使い捨て転移スクロールを、自らの血を注いで強引に起動させたのだ。
「――っ、しまっ――!?」
リゼの指先が、馬車の木製フレームに触れるかというその瞬間。
馬車全体を包み込むように、悍ましい紫色の光が爆発的に膨れ上がった。
空間の連続性が断ち切られ、大気が引き裂かれる嫌な音が響く。
「リゼ……さ……」
トアが最後に見たのは、必死に自分へと手を伸ばす、見たこともないほどに絶望と怒りに染まったリゼの顔だった。
次の瞬間、空間が弾け、光が霧散する。
――そこには、何もなかった。
衣服の切れ端だけを残し、トアを乗せた馬車は、暗殺部隊ごと隣国ガラルディアの内奥へと完全に転移し、消え去ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あ……、あ……」
誰もいない、ひび割れた街道の土を見つめながら、リゼはその場に膝を突いた。
掴み損ねた、その指先が小刻みに震えている。
彼女の頭上の夜色の「竜の耳」は絶望にペタンと伏せられ、いつも堂々と揺れていた「竜の尻尾」は、力なく地面に垂れ下がっていた。
あと一歩だった。
自分の手が、あと数センチ届いていれば、トアをあの地獄から連れ戻せたはずだった。
いつも自分の無茶を優しく受け止め、温かいスープで心を癒してくれた、世界でたった一人の大切な婚約者。
そのトアが、自分の目の前で、傷だらけにされたまま、空間の彼方へと奪われた。
「……ト、ア……」
ぽつりと漏れたリゼの呟きは、すぐに凍てつく国境の風にかき消された。
随伴していた兵たちが、その圧倒的な絶望の気配に息を呑み、誰も近づくことができない。
ゆっくりと、アルテリゼが立ち上がった。
その瞬間、彼女の全身から、先ほどまでの怒りを遥かに超越した、この世のすべてを絶滅させかねないほどの「底なしの静寂と殺意」が、黒い霧のように立ち上り始める。
プラチナブロンドの髪を激しくなびかせ、琥珀色の瞳は完全な竜のそれへと変化している。
衣服を突き破って現れたのは、漆黒の巨大な「竜の翼」。
完全な「竜の怪物」への先祖返り。
ルードヴィヒの野心も、そしてガラルディアという国家そのものの命運すらも、この「番を奪われた竜の暴走」という物理的な天災の前には、もはや何の意味もなさなかった。
「……全軍、進軍せよ。」
リゼは引きちぎられたトアの服の切れ端を拾い上げ、愛おしそうに胸に抱きながら、冷酷に命じた。
「国境の防壁ごと、ガラルディアを地図から消し去る。我が夫を傷つけたすべての者に、万死すら生ぬるい絶望を与えてやる!」
怒り狂った最強の半竜女公爵による、容赦なき復讐の進軍が、始まる――。




