第25話 落日の陰影、昏き轍(わだち)
王都の喧騒が遠ざかるにつれて、街道を駆ける黒塗りの馬車が立てる車輪の音だけが、不気味なほどに際立ち始めていた。
馬車の外の御者台に座るバルトは、夜風にさらされながら、きつく手綱を握りしめていた。
彼の灰色髪の獣耳は、恐怖と絶望、そして底知れない自己嫌悪のあまり、頭皮に張り付くほど深く伏せられている。
バルトの震える左手には、手綱とは別に、一枚のくしゃくしゃになった写真が握られていた。
そこに写っているのは、泣き出しそうな顔で冷たい鉄の鎖に繋がれた、まだ幼い彼の妹シエラの姿だ。
『良いか、バルト。トア・レンバートを、あのアルテリゼの檻から連れ出せ。我が手足となるガラルディアの暗殺部隊にその身柄を引き渡すのだ。さもなければ、次の朝には貴様の愛しい妹の首が、王都の門に掲げられることとなるぞ』
第一皇子ルードヴィヒの、あの蛇のように冷酷な声が、今もバルトの鼓膜を抉るようにリフレインしている。
バルトにとって、アルテリゼ公爵への忠義は本物だった。
いつも胃を痛めながらも、彼女の無茶な要望を支え、何より、一介の書記官でありながらその圧倒的な包容力で公爵邸の空気を温めてくれていたトアには、数え切れないほどの恩義と親愛を感じていた。
だが、たった一人の血の繋がった妹の命を天秤にかけられたとき、彼は近衛としての誇りも、人としての正気も、すべてをドブに捨てるしかなかったのだ。
(俺は……なんてことをしてしまったんだ。トア様、俺を殺してくれ……っ)
バルトは心の中で血の涙を流しながら、後ろの荷台――トアが閉じ込められている車内へと、仕切りの小窓から視線を向けた。
そこにあったのは、あまりにも残酷で、血も涙もない現実の光景だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬車の床に、厚手の毛布ごと乱暴に放り出されたトアは、ピクリとも動かなかった。
公爵邸の裏口で、買収された使用人の手によって盛られた伝説の禁薬『竜血の睡魔』。
それは本来、強靭な生命力を持つ竜人や高位の魔導士を確実に数日間眠らせるための超高級品であり、魔力を持たない「人間」であるトアにとっては、致死量を超えかねないほどの劇薬だった。
さらに、ルードヴィヒに雇われたガラルディアの黒装束の暗殺部隊は、トアが「一瞬の隙で国家予算を狂わせる怪物(頭脳)」であることを警戒し、拘束の際に魔力封じの刻印が刻まれた重々しい鉄枷をその細い腕に嵌め、精神混濁の神経毒を容赦なく何種類も追加で打ち込んでいた。
(熱い……、身体が、冷たいのに、燃えるように熱い……)
トアの肉体は完全に麻痺し、指先ひとつ動かすこともできない。
呼吸は浅く、生き人形のように変化している。
だが、彼の内側にある「怪物並みの頭脳」――古文書館での執執によって鍛え上げられた、膨大なデータベースと並外れた思考中枢だけは、この絶望的な状況下でも、混濁する意識の底で冷徹に稼働を続けていた。
体内を巡る何種類もの劇薬が、自身の神経細胞を内側から破壊し、麻痺させていくプロセスが、トアの脳内に数字と術式のようなデータとなって流れ込んでくる。
(……『竜血の睡魔』に、さらに精神を破壊する遅効性の毒が3種。……いくら、俺の頭の中に知識があっても……この脆弱な人間の身体では、物理的な毒の浸食には抗えない……)
線を引いたように急速に遠のいていく意識の中で、トアは激しい後悔の念に襲われていた。
自分がこうして無力に拉致されたと知ったら、あの不器用で、まっすぐで、自分を世界で一番溺愛してくれている彼女は、一体どれほど傷つき、どれほど怒るだろうか。
「おい、本当にこいつが生きてる『頭脳』か? 随分とひ弱で、死体と変わらねえぞ?」
歪んだ、濁った男の声が、トアの耳膜に届いた。
車内に同乗しているガラルディアの暗殺部隊の男たちだ。
彼らは全員、血の臭いを漂わせた裏社会の猛者であり、平凡な元書記官であるトアとは、存在の重さそのものが違っていた。
「死んじゃいねえよ。だが、上で働く『頭脳』をこれ以上狂わせないためだ。おい、もっと確実に意識を奪っておけ。道中で下手に目を覚まされて、妙な魔術の術式でも組まれたら面倒だからな。」
もう一人の男が、冷酷な笑みを浮かべながら座席から立ち上がった。
男は床に転がっているトアの前髪を、太く汚れた指で乱暴に掴み上げた。
ぐい、と頭部を強引に反らされ、トアの細い首が不自然な角度に曲がる。
肉体の麻痺と痛覚の混濁のせいで、最初は自分が何をされているのかさえ判然としなかった。
しかし、直後、掴まれた頭皮から、じわりとした熱い激痛が脳髄へと突き刺さった。
「あ……、っ……」
トアの口元から、掠れた、言葉にならない呻きが漏れる。
焦点の合わない翡翠の瞳が、苦痛に小さく揺れた。
「ほう、これだけ薬を打たれて、まだ声が出るのか。やっぱりただの人間じゃねえな。」
男たちは、抵抗する術を一切持たないトアの姿を見て、その歪んだ加虐心を刺激されたようだった。
人間でありながら、帝国の最高権力者である半竜の女公爵アルテリゼに求婚され、その寵愛を一身に受けている男。
高貴な連中の間で「怪物」と恐れられるその頭脳が、今や自分たちの足元で、無力に泥のように転がされている。
その事実が、底辺を生きる暗殺兵たちに、異常な愉悦感を与えていた。
「おいおい、手荒に扱うなよ。傷物にして使い物にならなくなったら、第一皇子の旦那に示しがつかねえぞ。」
隣の男が口では宥めるようなことを言うが、その目は全く笑っていない。
むしろ、もっとやれと煽るような視線をトアに向けていた。
「関係ねえよ。どうせ意識もねえんだ、少しばかり痛めつけたところで、国境を越えりゃ誰も文句は言わねえさ。おい、大人しくしてろ!」
男はトアの胸ぐらを鷲掴みにすると、そのまま彼の身体を、木製の硬い座席の壁へと容赦なく叩きつけた。
――ゴンッ!!
鈍く重い衝撃音が車内に響き渡る。
背中と後頭部を強打され、トアの視界が完全に真っ白に染まった。
内臓を激しく揺さぶるような、骨の奥まで響く衝撃。薬のせいで感覚が麻痺している分、その痛みは奇妙な「重さ」となってトアの全神経を内側から圧迫した。
肺の中の空気が強制的に押し出され、トアの口元から、どろりとした一筋の鮮血が伝い落ちて、彼の白い首筋を汚していった。




