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第23話 深夜の緊急家族会議と、優しき「天災」の秘匿義務

 華やかな光と音楽、そして鳴り止まない拍手に包まれていた婚約発表の夜会が、惜しまれつつも幕を閉じた。

会場を埋め尽くしていた貴族たちは、今代のヴァルハイト公爵アルテリゼ・フォン・ヴァルハイトの婚約者としてお披露目された青年――トアの、あまりにも穏やかで、しかしどこか底知れない佇まいに興奮を隠せない様子で、それぞれの帰路へとついていった。


 彼らが去った後のヴァルハイト公爵邸の最奥。

そこにあるリゼの私室では、夜会の余韻など微塵も感じられない、張り詰めた空気が漂っていた。


 部屋の周囲には、普段の十倍以上もの結界魔術が幾重にも張り巡らされている。

音の一片、魔力の揺らぎ一つさえ外部に漏らさないための、最高位の拒絶結界。

その厳重な警戒の中心で、一本の最高級ワインを囲み、緊急の家族会議が開かれようとしていた。


参加者は三人。

 ヴァルハイト公爵家の先代当主であり、かつて戦場を震撼させた「隻眼の猛将」バルザック。

彼の妻であり、千年の時を生きる元竜王女、古代竜の血を引くエルシィ。

そして、現当主であり、大陸最強の竜人(ドラゴニュート)として畏怖されるリゼ。

この国、否、世界を揺るがしかねない最高戦力が揃っているというのに、この会議の最重要議題であるはずの主役――トアの姿はそこになかった。


 彼は夜会が終わるや否や、「皆さん、長時間の夜会で本当にお疲れ様でした。緊張して胃もお疲れでしょうから、消化に良くて身体が温まる夜食を作ってきますね」と、いつものおっとりとした笑顔で、のんきに厨房へと向かってしまったからである。


カラン、とグラスの中で氷が揺れる。

バルザックは、自身の腰をそっとさすった。

つい数時間前まで、長年の戦傷によって激痛が走り、歩くことすらままならなかったはずの腰だ。

それが、トアが「お近づきの印に」と持参した手作りのタルトを一口食べた瞬間、まるで時間を巻き戻したかのように痛みが完全に消失していた。


 バルザックは極めて真剣な、それこそ国家の存亡をかけた決戦の直前のような面持ちで、実の娘であるリゼを睨みつけた。

その隻眼には、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた冷徹な将軍としての、鋭い光が戻っている。


「――アルテリゼ。改めて聞くが、お前はあの男の『本当の異常さ』に気づいているのか?」

重々しい父親の声に、リゼは夜会の正装のまま、堂々と胸を張って即答した。


「当然だ、父上。気づいていないわけがないだろう。トアの海より深い包容力は世界一だし、私にだけ向けてくれるあの照れたような笑顔は宇宙一可愛い。そして、何より彼が作るご飯は、一口食べただけで魂が震えるほどに美味い! 私は世界一の幸せ者だ!」

 我が誇り、と言わんばかりに鼻高々となるリゼ。


しかし、その甘ったるい惚気(のろけ)を聞いた母親のエルシィは、ふっといつもの妖艶な笑みを消した。 その美しい顔立ちから一切の感情が消え去り、冷徹な古代竜の瞳――縦長の細い、すべてを見透かすような黄金の眼差しで娘を見つめた。


「そういう可愛い惚気を聞いているんじゃないのよ、アルテリゼ。私たち夫婦が言っているのはね、彼の『知識の引き出しの異常さ』についてよ?」

 エルシィは、先ほどトアから手渡されたタルトの、かすかな残り香が漂う白い皿を美しい指先で指差した。


「あのタルトに使われていたのは、そんじょそこらの薬草や、現代の調合師が作る高価な秘薬なんかじゃないわ。……いいえ、そもそも人間が扱っていいものですらない。あれは、千年以上前に滅びた私たち古代竜一族が、一族の長(おさ)の命を繋ぐため、決して外部に漏らさぬよう魂の底に秘匿していた『神代の治癒ルーンの配合式』そのものよ。なぜ、人間の、それもただの二十代の若者が、現代の魔法使いや大賢者が誰一人として再現できない神話の技術を、『隠し味』程度に、平然と家庭料理に組み込めるの?」


「それは……」

エルシィの、言葉そのものに宿る圧倒的な竜の威圧感に、リゼは少しだけ気圧されながらも言葉を返した。


「トアは古文書館の元書記官だからな。毎日、薄暗い地下室で古い文献や、誰も読めないような崩し文字の木札を読み解くのが仕事だと言っていた。古い伝承や薬草の知識に長けているのは、その独学の成果だろう。彼は熱心だからな。」


「独学、ねえ……」

エルシィが溜息をつくように呟くと、今度はバルザックが重々しく首を振った。


「それだけでは到底説明がつかんのだ、アルテリゼ。お前はまだ聞いていないかもしれないが、先日、公爵家が管轄する主計局の大規模な不正を暴いた件、あの裏で糸を引いていた……いや、すべてを解決したのがトア殿だと、バルトから詳細な報告を受けている。」


「バルトが? 彼はトアの何を報告してきたのだ?」


「主計局が隠蔽していたのは、ただの横領ではない。百年前、前々代の当主の時代から精緻に構築され、代々の財務官すら『完璧な正常値』と誤認していた、魔術的な二重帳簿の構造だ。それをトア殿は、バルトが持ち込んだわずか数冊の資料を一瞥しただけで見抜いた。それどころか……」

 

 バルザックはワインを一口煽り、喉を鳴らした。

その手が、かすかに震えている。


「古い地理データ――現在は地形が変わって消失したはずの旧街道の存在を割り出し、そこから『当時の軍の補給路の最適化』まで計算してのけたそうじゃないか。……あれはな、書記官という枠組みを遥かに超えている。一人で国家の財務、軍事、内政の頭脳をすべて担えるレベルの、天災的な怪物だ!」

バルザックは声を極限まで潜め、娘の琥珀色の瞳をじっと見据えた。


「あの男は、人外の脅威や、我が家のような規格外の力に対して鈍感なんじゃない。己の持つ知識と技術が『世界のパワーバランスを根底から覆す』という自覚が、決定的に欠如しているのだ。だからこそ、我々のような、一国を滅ぼしかねない天災級の竜人や古代竜を前にしても、ただの『お腹を空かせた迷子』や『ちょっと腰の痛いおじいさん』くらいにしか認識していない。それがどれほど恐ろしいことか、お前なら理解できるだろう」


「……!」

リゼの琥珀色の瞳が、ハッとして見開かれた。


 頭の中で、トアと初めて出会った時のことがフラッシュバックする。

あの時、リゼは龍圧を制御できず、暴走寸前の状態で森を彷徨っていた。

触れるものすべてを焼き尽くす炎を纏う自分に対し、トアは恐怖するどころか、「そんなに汗をかいて、はい、これ冷たい麦茶です」と、平然と近づいてきたのだ。

 当時は「なんて肝の据わった、優しい人なのだろう」としか思っていなかったが、今の両親の話を聞くと、別の戦慄が背筋を駆け抜ける。


(トアは、私が『恐ろしい竜』だと分かった上で、それでもなお、自分の知識の範疇――ただの『体調を崩した人間』と同じレベルとして処理していたのか……?)


「気づきなさい、アルテリゼ!」

 エルシィがテーブルを軽く叩き、娘の前に身を乗り出す。その美しい髪が、彼女の感情の高ぶりに合わせて、かすかに魔力の光を帯びて揺れた。


「今はまだいいわ。彼が自分の能力を『ただの雑学』だと思い込み、私たちがこうして身内として、ヴァルハイトの庇護下に囲い込んでいるから。でもね、今日、彼が見せたあの洗練された完璧なマナー、貴族たちの誘導、そして何気なく口にした歴史の裏話……聡明な、あるいは腹黒い貴族たちなら、必ず彼に目をつけ、その異常な知性に気づき始めるわ。もし、彼が『あらゆる失われた古代兵器の設計図』や『国家を転覆させる、正史から消された裏歴史』までその脳内に記憶していると、他国に知られたらどうなると思う?」


リゼの喉が、ごくりと鳴った。

彼女は公爵だ。

大陸の政治情勢、他国の冷酷さを誰よりも知っている。


「隣国の軍事大国ガラルディアや、狂信的な魔導正教国が……総力を挙げて、それこそ戦争を仕掛けてでも、トアを拉致しにくる……」

 リゼの声が、激しい怒りと、初めて味わう底知れない恐怖で小さく震えた。


「それだけじゃないわよ、アルテリゼ。」

エルシィの追撃は容赦なかった。


「他国だけじゃない。私たちが忠誠を誓っているはずの、この帝国の皇族だって同じよ。自国の王権を根底から揺るがしかねない、神の如き知性を、一公爵家が独占している状況を皇族が放置するはずがないわ。ヴァルハイト公爵家に反逆の罪を着せて潰してでも、トア君を皇宮の最奥、光の届かない地下深くの幽閉施設に閉じ込め、彼が死ぬまでその脳から知識を搾り取ろうとするでしょうね。人間の強欲さと、持たざる者が至高の知性を恐れる心理を、あなたは甘く見すぎているわ!」

エルシィの言葉は、決して大袈裟な妄想でも、娘を脅すための誇張でもなかった。


 トア自身は、自分のことを「ただの冴えない、運良く公爵令嬢に拾われただけの人間」だと思い込んでいる。

しかし、その頭脳に眠る知識の物量と質は、一国を一夜にして滅ぼし、あるいは不毛の地に新たな巨大帝国を興せるほどの、世界最強・最悪の「戦略兵器」そのものなのだ。

 それを、本人が「ただの趣味の読書」として処理していることが、一番の狂気であった。


「絶対に……」

リゼの口から、地を這うような低い声が漏れた。


「絶対に、そんなことはさせない……!」

リゼの美しい、白磁のような顔に、夜の闇を溶かし込んだかのような漆黒の鱗が、猛烈な勢いで浮かび上がっていく。

 琥珀色だった瞳は細く引き締まり、完全な捕食者のそれへと変貌した。


ドォン!! と、部屋全体を押し潰すような、凄まじい質量を持った「龍圧」が吹き荒れる。

ヴァルハイト邸が誇る最高峰の防壁結界が、ミシミシ、バリバリと悲鳴を上げて軋み、室内の高級な調度品がカタカタと震えた。


「トアを狙う者がいるならば……それが例え、天上の神であろうと、この国の王であろうと、大陸全土の軍勢であろうと関係ない。私の誇りと、この身に流れるすべての炎をもって、塵一つ残さず消し炭にしてやる。我がヴァルハイトの全軍、全戦力を、裏の裏まで動員して、彼の歩む平穏な日々を、あの優しい笑顔を、何があっても守り抜いてみせる!」


 娘のその暴虐とも言える決意の咆哮を聞き、バルザックは満足そうに、ニィと獰猛な笑みを浮かべた。


「うむ、その意気だ、アルテリゼ。それでこそ我が娘、ヴァルハイトの現当主だ。よし、私も明日から前線に復帰しよう。かつての部下どもを集め、トア殿の周囲に不穏な動きを見せる虫ケラどもを、影から一人残らず叩き潰してやろう。老兵の全力を思い知らせてやる。」


「あらあら、二人とも血の気が多いわね?」

エルシィはそう言ってクスクスと笑いながらも、その瞳の奥には、すべてを焼き尽くす古代竜の冷徹な業火が宿っていた。


「でも、私も賛成よ。トア君のあの可愛い笑顔と、美味しいご飯を邪魔する奴らがいるなら……お母さんも久しぶりに本気を出して、大陸の半分を消し飛ばすくらいのブレスを吐いちゃおうかしら? ちょうど、身体が訛っていたところだしね?」

 

 大陸最強の竜人、かつて世界を恐怖させた猛将、そして神話の時代を生き抜いた古代竜。

世界を滅ぼしうる最強の親子三人が、一人の青年――トアを外界の害意から完璧に隠匿し、守り抜くために、「世界を敵に回すことも辞さない構え」で、血も凍るような恐ろしい、しかしどこか楽しげな笑顔を浮かべた。

 

 彼らの意思が完全に一致し、部屋の魔力が臨界点に達しようとした、まさにその時。

カチャ、と、あまりにも間の抜けた、しかし小気味良い音が部屋に響いた。


「はーい、お待たせしましたー」

厳重に張り巡らされていたはずの、大賢者でも解除に数日かかる最高位の結界を、まるで「ただの暖簾」でもくぐるかのように平然と通り抜け、部屋の扉が開いた。

そこには、大きなお盆を両手で持ったトアが、いつも通りのおっとりとした、緊張感の欠片もない笑顔で立っていた。


「夜遅くですからね、あまり重いものはよくないと思いまして。すりおろした蕪と大麦、それから裏の家庭菜園で採れた薬草を少し入れた、胃に優しい薬膳スープを作ってきましたよ。これ、すりおろすことで消化が格段に良くなりますし、大麦の繊維が優しくお腹を整えてくれるんです。これを飲んで寝れば、皆さん明日すっきり起きられますからね。」


 トアが部屋に足を踏み入れた瞬間。

先ほどまで部屋を埋め尽くし、結界を破壊しかけていた「世界を滅ぼしかねないほどの凶悪な覇気」が、トアの持つお盆から立ち上る、じんわりと温かく、香ばしいスープの優しい湯気と共に、一瞬にして霧散した。

まるで、猛吹雪の雪山に、突然春の陽だまりが訪れたかのように。


「おお、トア君! ありがとう、ちょうど小腹が空いていたのよ!」

つい一秒前まで「大陸の半分を消し飛ばす」と言っていたはずのエルシィが、恐ろしい古代竜のオーラを瞬時に消し去り、聖母のような優しい義母の顔になって、トアから器を受け取った。


「うむ……! これは、なんという優しい香りだ。やはりトア殿の料理は、五臓六腑だけでなく、戦傷の乾いた魂にまで染み渡るな……」

バルザックも、戦場の鬼神と呼ばれた面影はどこへやら、大粒の涙を浮かべそうなほど感動した顔で、スプーンを使ってスープを啜り始めた。


トアは二人の様子に嬉しそうに微笑むと、まだ少し呆然としているリゼの隣へと歩み寄り、腰を下ろした。

そして、彼女の美しい頬に、まだ怒りの名残として残っていた漆黒の鱗を、そっと素手で優しく撫でた。


「リゼさん、またそんなに龍圧を出して。部屋の空気がビリビリしていましたよ? さては、何か怖い夢……じゃなくて、夜会の疲れで嫌なことでも思い出しましたか? 大丈夫ですよ、俺はどこにも行きませんし、ずっとここにいますからね。さあ、スープが温かいうちにどうぞ。」


「あ、ああ……トア……」

トアの、人間ならではの、しかし驚くほど温かい掌が触れた瞬間。

リゼの顔に浮かんでいた漆黒の鱗は、まるで魔法が解けたかのようにすっと消え去り、元の美しい白磁の肌に戻った。

リゼは緊張の糸が切れたように、トアの肩へとコテンと頭を預けた。


トアの体温と、スープの優しい香りに包まれ、彼女の心は一瞬で幸福感に満たされる。

そして、彼女の感情に呼応するように、ドレスの裾から無意識に伸びた、本物の立派な竜の尻尾が――「絶対に誰にも渡さない」「この人は私のものだ」とばかりに、トアの腰へとぎゅーっと力強く、しかし彼を傷つけないよう細心の注意を払いながら、愛おしそうに巻き付けられた。


「おっと、リゼさん、尻尾が元気ですね。でも、これだとちょっとスープが飲みにくいかも……まあ、いいですけどね。」

トアは困ったように笑いながらも、リゼの頭を優しく撫で返した。


その様子を、スープを飲みながら静かに見守っていた両親――バルザックとエルシィの頭の中は、完全に、そして完璧に一致していた。


(((……いや、他国の脅威だの王族の強欲さだの心配していたが、そもそも私たちの最高位の結界を無効化して入ってきた上に、一瞬で私たちの戦意を完全に喪失させるこの旦那(トア君)が、間違いなくこの世界で一番『規格外(最強)』だな(わ)……)))


 当のトアは、「大麦のプチプチした食感、良いですよね」などと、相変わらず的外れなのんきな感想を口にしている。


 こうして、世界で一番優しくて、世界で一番無自覚に危険な「世界の頭脳」を巡る、最強の竜族・公爵家ファミリーによる、超過保護で、ちょっとピントのずれた絶対防衛作戦が、誰にも知られることなく、静かに水面下開始されるのであった。


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