第2話 完璧な女公爵と、数年前の「逆鱗」
気がつけば、俺はヴァルハイト公爵邸の目が眩むほど豪華な応接室に座っていた。
天井には巨大なクリスタルシャンデリア。
足元にはペルシャ絨毯。
目の前のテーブルには、白磁の最高級カップに注がれた、一口で俺の月収が吹き飛びそうな琥珀色の紅茶。そしてその対面には――、
「……口に合わなかっただろうか。すまない、平民の好む茶葉が分からなくてな。……いや、差別的な意味ではなく! 純粋に市場の流通がだなっ! すぐに最高級の別の茶葉で淹れ直させよう!」
凄まじい勢いでガタタッ! と立ち上がり、美しい顔を涙目にして焦っているアルテリゼ閣下がいた。
「あ、いえ! 滅相もないです、凄く美味しいです! 新しく淹れるなんてとんでもない!」
トアが慌てて両手を振ってカップを口に運ぶと、アルテリゼは「よかった……」と胸をなでおろし、端正な顔をふにゃりと緩めた。
(可愛い方だなぁ。)
内心そんなことを思いながら、トアはアルテリゼの慌てる姿を見て普段とのギャップに素直に好感を持った。
軍服から私服に着替えた彼女は、仕立ての素晴らしい白の乗馬ズボンスタイルにシルクのブラウスという、非常にスタイリッシュな装いだ。
どこからどう見ても完璧な美貌の麗人である。
トアが少しお茶をこぼしそうになると、彼女は「危ない、トア。」と鋭い反射神経で身を乗り出し、自らシルクの手ハンカチでトアの口元を優しく拭った。
そのエスコートは、そこらの貴族令息よりも遥かに男前で様になっている。
(うーん。俺、完全にヒロインのポジションだな……うん。公爵様は男前すぎる。)
トアは手元の上等なクッキーを齧りながら、内心で苦笑した。
壁際に控える狼獣人のバルト副官や周囲のメイドたちからの「なんだあの場違いな男は」「閣下をたぶらかした狐か?」という、刺すような視線が痛い。
(そんな視線で見られても、俺も何がなんやらですよ!何で急に俺なんかに求婚⁈俺が理由を聞きたいです!)
身分も実力も違いすぎるのは、トア自身が一番よく分かっていた。
「あの、アルテリゼ閣下。一つお伺いしても?」
「リゼ、でいい。……いや、リゼと呼んでほしい。トア。」
アルテリゼは期待に満ちた目でトアをじっと見つめる。
うっすらと輝く竜の鱗がある尖った耳がピコピコと嬉しそうに動いている。
(うっ。やっぱり可愛いな。いやいや、とりあえず話を聴いてみなきゃ。)
「……リゼさん。なぜ、俺なんですか? 俺はただの冴えない人間の書記官です。あなたなら、高貴な貴族や強大な竜族の殿方だって選び放題のはずなのに。」
トアの純粋な問いに、リゼは琥珀色の瞳を一瞬だけ揺らした。
そして、愛おしそうに自分の左手をそっと見つめ、ぽつりと言った。
「君は、覚えていないかもしれないな。……三年前の、あの大雨の夜のことを。」
「三年前...?」
リゼは静かに、かつての記憶を語り始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それは、彼女が辺境の最前線で敵国の悍ましい呪いを受け、満身創痍で王都へ命からがら帰還した夜のことだった。
呪いによって古代竜の血が暴走し、彼女の身体は半分、醜い竜の姿へ変わりかけていた。
全身を焼き尽くすような激痛。
そして、制御を失った強大な「龍圧」を敵味方関係なく撒き散らす彼女に、周囲の人間も部下も「化け物」「狂竜」と恐れて誰も近づかなかった。
激しい渇きと、世界に拒絶されたような圧倒的な孤独で、リゼの理性は限界を迎えていた。
王都の薄暗い裏路地。
泥にまみれ、雨に打たれながらうずくまっていた彼女の前に、一本の傘を持った青年が通りかかった。
――それが、トアだった。
『う、うう……来るな……! 私に触れれば、噛み殺すぞ……!』
鋭い牙を生やし、頬に黒い鱗を浮かび上がらせ、獣のように唸るリゼ。
普通の人間なら、恐怖で腰を抜かして逃げ出すか、悲鳴を上げるはずの怪物の姿。
だが、トアの反応はあまりにも異質だった。
『うわぁ、凄い熱だ。……痛いですか? 熱いなら冷たいお水、飲みますか?』
トアは怯えるどころか、捨てられた子犬でも見るかのように心配そうに眉を下げ、なんと、リゼの鱗だらけの禍々しい左手を、自分の両手で優しく包み込んだのだ。
『大丈夫ですよ。ここにいますからね。』
リゼの凶悪な龍圧を完全にスルーし、トアは持っていた傘をリゼに差し掛け、自分の薄い上着を羽織らせた。
そして彼女をただの『困っている重傷者』として、不器用ながらも朝まで必死に看病してくれたのだ。
人間の体温の、なんと温かかったことか。
その掌が、暴走しかけていたリゼの心を完全に救った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「竜の生態において……生涯でただ一度、自分の『逆鱗』を怖がらず、無条件で愛を持って触れてくれた者は、一生に一人だけの『伴侶』となる。あの日、私の心と命は君のものになったんだ。……トア。」
リゼは少し頬を赤らめ、上目遣いでトアを見つめながら、はにかむように微笑んだ。
その表情は、帝国を震撼させる冷徹な女公爵のものではなく、初恋を実らせたい一心の一人の純情な少女のそれだった。
(またそんな顔して...。うぅ……ずるいなぁ、もう!)
そんな国宝級の笑顔で純愛を語られたら、いくら人外の脅威に鈍感なトアでも、胸がドクンと大きく跳ねてしまう。
彼女が周囲から怖がられ、どれほど孤独だったのか。そして、自分をどれほど一途に想ってくれていたのかが、痛いほど真っ直ぐに伝わってきた。
「閣下! 大変失礼いたします!」
しかし、二人の間に流れかけた甘やかなピンク色の空気をぶち破るように、応接室の豪華な扉が乱暴に開け放たれた。
現れたのは、もはや胃に穴が空きそうなほど苦り切った顔をしたバルト。
そして、その後ろから、金糸の刺繍がこれでもかと施されたきらびやかな衣装を纏い、香水の匂いをプンプンとさせた人間の貴族の青年が、大股で押し入ってきた。
「アルテリゼ閣下!! 下賎で平民の、どこの馬の骨とも知れぬ男をこの聖なる屋敷に連れ込んだというのは、本当ですか!?」
扇子をバサァッ! と広げ、トアをこれ以上ないほど見下した目で睨みつける青年。
二人を全力で邪魔しに現れた、プライドの塊のような侯爵令息・ジュリアンの登場だった。




