第18話 百年前の二重帳簿(亡霊が残した取扱説明書)ー2
「それだけじゃありません。」
トアのペンは止まらない。
彼は白紙の紙を取り出すと、帳簿の数字を滑らかな速度で翻訳し始めた。
「文字と数字の配置が不規則に見えるのは、彼が『独自の連想式換字法』を使っているからです。ヴィクトール卿は、実は極度の潔癖症で、当時の記録によると、毎月驚くほど高価な『大陸西部の輸入香水』を大量に購入していました。彼が使っていた香水の調合比率――ローズが3、サンダルウッドが5、ベルガモットが2……この『3・5・2』という数字の配列が、帳簿の数字の桁をずらすためのキー(鍵)になっているんです。」
トアの指先が動くたびに、禍々しい呪いの羅列だった文字が、次々と美しい、極めて論理的な「真実の財産目録」へと書き換わっていく。
「彼にとっては、自分が毎日身にまとっている香水の匂いの比率が、一番絶対に忘れない、かつ誰にも破られない『パスワード』だったんですね。……ほら、ここを見てください。ガイル侯爵のひいおじいさんの名前が、当時の裏資金の提供者としてしっかり載っていますよ。」
トアがサラサラと書き上げた解読書を前に、作戦会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。
百年の間、帝国の最高頭脳が誰一人として触れることすらできなかった「亡霊の遺産」。
それを、この純人類の青年は、ただの「昔の取扱説明書」を読むかのように、お茶を飲みながら解き明かしてしまったのだ。
「歴史を学ぶ、古文書を読むということは、亡霊の足跡を踏み外さないためにあるんです。彼らは百年、二百年の時が経っても、人間である以上、同じような隠し方をして、同じような過ちを繰り返しているに過ぎませんから。」
トアが胸をなでおろして微笑んだその時。
会議室の扉が、再び勢いよく開かれた。
「トア!! 無事か、トア!?」
現れたのは、プラチナブロンドの髪をなびかせ、美しい軍服を纏ったヴァルハイト公爵家の当主――アルテリゼだった。
彼女はトアが呪いの帳簿を解読していると聞き、戦場から直接、愛馬(飛竜)を飛ばして戻ってきたのだ。彼女の琥珀色の瞳は、トアへの心配と、そして何か尋常ではない熱量で満ちていた。
「あ、リゼさん。おかえりなさい。ちょうど今、百年前の帳簿の整理が終わったところですよ?」
トアがいつも通り微笑むと、アルテリゼの視線は、トアが完璧に翻訳した解読書と、腰を抜かして床にへたり込んでいる特級魔導師たちへと移った。
「……これを、本当に一人でやったのか? 呪詛の汚染も受けずに?」
「はい。ただの左利きの香水マニアの癖を直しただけですから。」
「閣下……。トア様は、天才どころの騒ぎではありません……。我が国の魔導チームが総出で挑んでも狂うしかなかった呪いを、ものの数分で……」
バルトが、拝むようにトアを見つめながら呟く。
次の瞬間、アルテリゼの頭から、竜の耳がピコン!と直立した。
さらに、軍服の後ろからは、太く強靭な鱗に覆われた尻尾が飛び出し、「ブンブンブンブン!」と、まるで大型飛竜のプロペラのような凄まじい速度で回転を始めた。
その風圧で、会議室の書類が数枚舞い上がる。
「ああ……トア……! 君という男は……!!」
アルテリゼは顔を極限まで真っ赤に染め、トロンとした熱い瞳でトアを見つめると、周囲の部下たちの目の前であることなど一瞥も気にせず、トアの細い腰にがっしりと抱きついた。
「完璧だ……! 百年前の呪いすら、君の包容力と頭脳の前には赤子同然だな! ああ、私の伴侶はなんと誇らしいのだ! 今すぐこの解読書を帝国全土に貼り出し、これが私の自慢の夫だと大声で宣言してやりたい……!!」
「あはは、リゼさん、みんな見てますから。とりあえず落ち着いてください。」
限界突破したアルテリゼの「龍圧」が、部屋の温度を急速に上昇させ、周囲の魔導師たちはそのあまりの尊さと熱気に、今度は別の意味で気絶しそうになっていた。
トアは苦笑しながら、腕の中で甘えまくる最強の女公爵の頭を、よしよしと優しく撫でるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ふぅ……リゼさん、本当にそろそろ離れてください。バルトさんたちの目が完全に泳いでますから。」
トアが苦笑しながらぽんぽんと頭を叩くと、アルテリゼは名残惜しそうに、しかし満足げにその細い腰から腕を解いた。
ピコンと立っていた竜耳が名残惜しそうに伏せられ、凄まじい風を起こしていた尻尾の回転がようやく止まる。
「コホン。……すまない、取り乱した。だがトア、君の功績はそれほどまでに偉大だ。これでガイルの奴が溜め込んでいた裏資金のすべてを、我がヴァルハイト公爵家、ひいては国庫へと回収できる。」
アルテリゼは毅然とした、しかしどこか誇らしげな軍人の表情に戻り、トアが書き上げたばかりの解読書に目を落とした。
だが、トアの表情は晴れない。
彼はまだ、羽ペンを握ったまま帳簿の最後の数ページを凝視していた。
「……いえ。リゼさん、どうやら話はそう単純ではないようです。」
「どういうことだ?」
トアはサラサラと、別の白紙に新たな数字の羅列を書き出していく。
「ガイル侯爵はすでに失脚し、その資産は凍結されたはずですよね。でも、この百年前からの『裏資金の流動記録』……最後の数マス、つまりここ数ヶ月の金の動きが完全におかしいんです。……解読した偽装術式の先にあった、その資金の現在の名義は――」
トアの言葉に、アルテリゼだけでなく、バルトたち魔導師もゴクリと唾を呑み、解読書へと身を乗り出した。
トアが最後に書き込んだ、真実の名義を示す文字列。それを読もうとした、まさにその瞬間だった。
「――っ!?」
突如、トアの手元にあった古い帳簿が、まるで生き物のようにビクリと跳ねた。
紙面から、赤黒い、不吉極まりない魔力の文字がブワリと噴き出す。
それはトアが書き上げた美しい解読書を侵食するように広がり、空間そのものを歪ませ始めた。
「な、何がおきている……!? 呪いは完全に解読されたはずでは……っ!」
バルトが悲鳴を上げる。
「トア、下がれ!!」
アルテリゼが瞬時に動き、トアの身体を背後に引き剥がそうとした。
しかし、その赤黒い文字の羅列は、名義を読み取らせまいとするように、凄まじい光を放ちながら「文字の自爆」を始めたのだ。
「……なるほど、二重のトラップですか。」
トアはアルテリゼの背に守られながらも、冷静にその現象を観察していた。
「ガイル侯爵が失脚した瞬間に作動するよう、あらかじめ仕込まれていた『名義秘匿用』の自動消滅術式です。文字を無理に読み取ろうとしたり、外部の魔力が近づいたりすると、証拠ごと口座の記録をすべて焼き尽くすように組まれていますね。相当な大物が裏にいます。」
激しい魔力の光が収まった時、机の上にあった帳簿と、トアが今まさに翻訳しかけていた解読書の最後のページは、完全に真っ黒な灰へと変わってしまっていた。
「……くっ、消されたか……!」
アルテリゼが悔しげに拳を握りしめる。
「あと一歩で、ガイルを裏で操っていた黒幕の正体が掴めたというのに……物証がすべて灰になってしまった。」
会議室に絶望的な空気が流れる中、トアはポンポンとアルテリゼの肩を叩いた。
「リゼさん、そんなに悔しがらなくても大丈夫ですよ?」
「え……? だが、肝心の名義が……」
トアは自分の頭をトントンと指さし、いつも通りのんびりと微笑んだ。
「名前そのものは燃え尽きて読めませんでしたが、文字が消える直前のコンマ数秒、その下層に隠されていた『送金先口座の番号』と『固有の紋章の残滓』は、すべて完璧に記憶しました」
「な……ッ!?」
今度こそ、バルトたち魔導師の目玉が飛び出さんばかりに剥き出しになった。
あの刹那の瞬間に、呪いの自爆を前にして、視覚情報をすべて脳内に焼き付けたというのか。
「完全に身元を隠したつもりのようですが、その隠し口座は、ある特別な『偽装名義』で作られています。さらに、一瞬だけ見えた紋章は……帝国の高位貴族や皇族が使うものとは、少し毛色が違いました。どちらかというと、『北方の古い意匠』に近いです」
「北方の……?」
アルテリゼの琥珀色の瞳が鋭く細まる。
「はい。相手が誰であれ、その口座を使って莫大な裏資金を動かせば、必ず市場に違和感が出ます。今度は『歴史の帳簿』ではなく、『現在の金の流れ』を追う番ですね」
黒幕の正体はまだ霧の中。
しかし、トアの頭脳はすでに、見えない敵の「足跡」を捉えていた。
呆然としていたアルテリゼは、じわじわと顔を真っ赤に染めると、今度は両手でトアの頬を優しく包み込んだ。
「トア……! 君の頭脳は、百年前の呪いの自爆すら置き去りにするというのか……! ああ、やはり君を今すぐ私の部屋のベッドに監禁し、世界中のあらゆる危険から隔離して一生愛で続けなければならない気がしてきた……!」
「リゼさん、褒め言葉の方向性と目がめちゃくちゃ怖いです。とりあえず落ち着いて、次の作戦を練りましょう?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「北方の、古い意匠……」
アルテリゼはトアの頬を包んでいた手を離し、顎に指を当てて鋭い視線を巡らせた。
先ほどまでのトロンとした甘い空気は一瞬で消え去り、帝国最高峰の軍閥を率いる「若き女公爵」の冷徹な知性が顔を出す。
「……確かに、帝国の最高頭脳すら手を焼けなかった百年前の呪詛を、これほど早く『自爆術式の作動』まで追い込める者がいるとすれば、限られている。ガイルを裏で操り、その失脚をも織り込み済みで資金を回収した北方の有力者……。トア、私の頭には三人の容疑者が浮かぶ」
アルテリゼは会議室の黒板に向かい、チョークで流麗に三つの名前と、その背景を書き殴っていった。
「一人目は、帝国北端の極寒の地を治めるノルトエンデ辺境伯。彼は武闘派の大貴族だが、中央に隠れて私兵の異常な増強を行っている噂がある。二人目は、北方の永久凍土に建つ白銀の魔塔の主、大魔導師エイルハルト。バルトたち宮廷魔導師が解けなかったヴィクトール卿の呪いを、遠隔で自爆させるほどの術式を組める者がいるとすれば、この男かその一派しかいない。そして三人目……これが最も厄介だ。北方最大の交易都市を牛耳り、帝国の経済の三分の一を裏で動かしていると言われる大財閥の長――ライン公爵」
チョークを置いたアルテリゼは、振り返ってトアをじっと見つめた。
「どれも一筋縄ではいかない怪物ばかりだ。だが、君が記憶してくれた口座番号と照らし合わせれば、この三人のうち誰が『本物の亡霊』なのかを引きずり出せる」
「なるほど……。辺境伯、大魔導師、そして大財閥ですか」
トアはふむ、と顎に手をあてて黒板の文字を見つめる。
「三者三様、実力も動機も十分ですね。でも、この口座から引き出された莫大な資金は、すべて『北方の高級香料ギルド』を経由して洗浄されています。ノルトエンデ辺境伯の私兵増強なら金塊の移動が必要、エイルハルトの魔導実験なら特殊な魔導具の購入履歴が残るはず。……ヴィクトール卿が香水の比率を鍵にしていたように、この裏資金のシステム自体が、最初から香料の交易を牛耳るライン公爵家の手の中にあった証拠です」
トアの淀みのない解説に、アルテリゼは深く頷いた。
「見事だ、トア。ガイルが失脚した今、ライン公爵はその裏資金を完全に自分たちのものにするため、近々開催される『地下社交場の新作香料オークション』で大規模な資金ロンダリングを行う気だな」
「ええ。そこでリゼさん、僕たちもそのオークションに潜入しましょう。ライン公爵が裏資金を動かす『決定的な瞬間』を、その場で押さえるんです。お互い目立たないように、いつもとは違うドレスアップが必要ですね」
「ド、ドレスアップ……! 君の正装姿を特等席で見られる上に、夫婦のフリをしてエスコートしてもらえるとは……! よし、決めたぞ! 奴らの調査を進める間、君の身の安全を完全に確保するため、今日から私の寝室の隣の部屋、防壁魔法を三重に張った特級結界室へ引っ越しをしてもらう! 移動の際は常に私が君を抱き抱えて……!」
「リゼさん、過保護の方向性が完全に『軟禁』になってます! バルトさんたちがまた気絶しかけてるから、まずはお茶を飲んで落ち着きましょうね?」
こうしてトアとリゼの地下社交場への潜入作戦が始まった。
最後まで読んで頂きありがとうございます!
もし本作を気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【星(☆☆☆☆☆)】で感想代わりにポチッと応援していただけると本当に嬉しいです!
同時連載中の長編作品「白竜帝の後継者」も興味ある方はお気軽に読んでいただけたら幸いです!




