第17話 百年前の二重帳簿(亡霊が残した取扱説明書)ー1
中央主計局の家宅捜索という前代未聞の風暴から数日後。
その地下金庫の最深部、物理的な分厚い鉄門だけでなく、幾重もの防御結界と古代の呪詛によって守られた聖域から、一冊の帳簿が押収された。
表紙は黒く変色した正体不明の魔獣の革。
それを包む空気は異様なほど冷たく、ただそこにあるだけで、周囲の空間を微かに歪ませている。
「これが、百年前の主計局長官ヴィクトール卿の遺産……。歴史上、最も冷酷で完璧な官僚と恐れられた男の、真の二重帳簿ですか?」
ヴァルハイト公爵邸の作戦会議室。
重々しい声でそう呟いたのは、リゼの副官であり憲兵統括でもあるバルトだった。
彼の周囲には、帝国軍が誇る最高峰の暗号解読官や、精神防護の二重結界を纏った特級解読魔導師たちが、真っ青な顔をして並んでいる。
「ええ、そうです。この帳簿には、ヴィクトール卿が当時、国中から吸い上げたと言われる『消えた国家予算』の隠し場所と、それを現代まで秘密裏に運用するための自動資金洗浄のシステムが記されている可能性が極めて高い。もしこれを解読できれば、カザルドの残党を完全に根絶やしにできるだけでなく、帝国の財政をさらに百年潤せるほどの富が手に入ります。ですが……」
バルトは苦渋の表情で、円卓の中央に置かれた不気味な帳簿を見つめた。
「我が国の暗号チームが総出で挑みましたが、一頁目すら解読できません。それどころか、この複雑怪奇な数式の配列と、文字そのものに仕込まれた精神汚染の呪いのせいで、すでに三人の優秀な解読官が『頭が割れる』と叫んで正気を失い、戦線離脱しました。……これは、人間の頭脳が立ち入っていい領域ではない。呪いの魔導兵器ですよ。」
魔導師たちの一人が、恐怖に震えながら「解読不可能です」と首を振る。
その時、会議室の端で、大人しく控えていたトアが、小さく手を挙げた。
「あの……バルトさん。ちょっとその『呪いの魔導兵器』、近くで見てもいいですか?」
「トア様!? ダメです、近づいては――精神汚染の呪いがあなたの脳を壊してしまいます!」
バルトの制止も聞かず、トアはいつものようにおっとりとした足取りで歩み寄ると、誰もが見るだけで吐き気を催したというその黒い帳簿を、素手でひょいと持ち上げた。
そして、まるで街の古本屋で安売りされている小説でも選ぶかのように、パラパラと頁をめくり始めた。
「……ト、トア様!? 大丈夫ですか!? 頭が痛くなったり、幻聴が聞こえたりは……」
バルトがいつでも彼を救い出せるように身構える。
しかし、トアは数秒ほど頁を眺めた後、ふっと緊張感のないため息を吐いた。
「なんだ、驚きました。これ、皆さん『見るだけで精神が狂う呪い』って言ってますけど、ただの『重度の書き手の手癖』ですよ?」
「……は?」
バルトをはじめ、その場にいた特級魔導師たちの思考が完全にフリーズした。
「手癖……ですか? 三千年前の古代数式と暗号論が組み合わされた、最高難度の精神汚染結界ですよ!?」
筆頭解読官が血相を変えて反論するが、トアは帳簿の一頁を指でなぞりながら、優しく微笑んだ。
「いえ、結界でも何でもありません。この帳簿を書いた百年前の主計局長、ヴィクトール卿の個人的な『癖』です。彼は、歴史の記録によると『右利きの模範的な官僚』とされていますよね?」
「あ、ええ。ヴィクトール卿の肖像画はすべて、右手にペンを持った厳格な姿で描かれていますが……」
「それが最初の罠、というか、彼の見栄なんです。」
トアは、古文書館から持参してきた『百年前の公式財務帳簿』の複写を隣に並べた。
「公式の帳簿は、筆圧が均一で、文字が極めて綺麗に直立しています。これは、彼が公の場で『右手で書くように強制されていた』証拠です。右手で書くとき、彼はものすごく緊張していて、息苦しい数字の並べ方をしている。……でも、この秘密の裏帳簿を見てください。文字が全体的に、左から右へ『押し出すような傾き』を持っています。インクの滲み(しみ)の残り方も、左手で書いたときに袖が擦れた跡がある。」
トアは翡翠色の瞳を輝かせ、楽しそうに解説を続ける。
「つまりヴィクトール卿は、重度の左利きだったんです。深夜、誰の目もない自室で、一人で本当にリラックスしてこの裏帳簿を書いた。だから、文字が彼の本来の『左手の手癖』に戻っているんです。現代の解読官の方々は、彼が『右手で書いた完璧な規則性』をベースに暗号を解こうとしたから、脳内の計算式が矛盾を起こして、精神がパニックになっちゃったんですよ。」
「な……ななな……」
筆頭解読官が、顎が外れそうなほど口を開けて硬直した。




