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第15話 中央主計局の不正ー1

 帝国中央古文書館の地下第三書庫は、地上を覆う喧騒とは完全に隔絶された、静寂とインクの匂いだけが支配する底のような場所だった。

 

 元書記官であるトアは、明かりを極限まで絞った魔導ランプの仄暗い光の中で、机の上にうず高く積み上げられた羊皮紙の山と向き合っていた。

彼の細い指先が、紙の端を軽やかに、しかし規則的なリズムでめくっていく。

パサリ、パサリ、という乾燥した紙の擦れる音だけが、高い天井に吸い込まれては消えた。


 トアの身体は、この帝国において何の特徴もない「純人類」のそれだった。

隣接するヴァルハイト公爵領を治める半竜(ドラゴニュート)族のように、鋼鉄の如き鱗や、空間を震わせるほどの魔力を持っているわけではない。

あるいは、北方辺境に住まう魔族のように、一瞥で人の精神を狂わせるような異能があるわけでもない。

少し色の薄い茶髪に、穏やかすぎるほど穏やかな翡翠色の瞳。

仕立ての古い、しかし丁寧に洗濯された書記官の法衣を纏った彼は、誰の目から見ても「古文書の埃を払うことだけが生きがいの、無害で平凡な青年」だった。

だが、彼の脳内にある「本棚」は、世界のどの図書館よりも広大で、かつ冷徹なまでに正確だった。


「……やっぱり、おかしいかな?」

トアは小さく呟き、手元にあった温いハーブティーを口に含んだ。

彼が今見ているのは、数日前に中央主計局から「過去資料との照合および分類」という名目で回されてきた、過去十年間に及ぶ『全帝国内管区穀物徴収高および地方税分配内訳』の複写だった。

そもそも、ただの古文書館の元書記官に過ぎないトアが、国家の最高機密とも言える主計局の財務報告書に触れることになったのには、ある突発的な経緯があった。

 事の始まりは一週間前。

帝国議会において、中央主計局は「過去十年の全監査が完了し、1クローネ(=1円)の誤差もなく完璧な健全性が証明された」と胸を張って宣言した。

その報告書には、各地方の監査官や、名だたる特級計数魔導師たちの署名と魔力刻印がこれでもかと並んでいる。

しかし、その監査の過程で、百年前の「大戦時における臨時徴税令」の失効手続きに関する、古い法的根拠の確認が必要となったのだ。

主計局の若手役人が、古文書館に眠る古い公文書の束を強引に借り出そうとした際、館長が「館外不出の原則」を盾に拒否。

揉め事に発展しかけたところを、アルテリゼの副官であるバルトの仲介によって「ならば、古文書の扱いに最も長けた者を一人、主計局の資料整理の補助として監査チームの末席に置く」という妥協案が成立した。

そうして選ばれたのが、最も無害そうで、仕事ができ、文句を言わずに引き受けると思われたトアだった。

主計局の役人たちは、トアを「ただの紙の並べ替え係」として扱い、誰も見向きもしない過去十年の膨大な基礎データの複写を、嫌がらせのように彼の机に積み上げた。

彼らにとっては、特級計数魔導師たちの複写呪文によって完全に整合性が保たれた、改ざん不可能な「完璧な数字」のはずだった。

だが、トアの目には、提出された数字の羅列が、まるで病を隠して荒い息を吐く生き物のように見えていた。


「総計の数字は、確かに寸分の狂いもなく合わせられてる。……でも、数字の『呼吸』が痩せている?」

 トアは、各地方から中央へ送られてくる穀物の重量や、それに応じた貨幣の換算データの一番右の端――すなわち「端数処理」の欄に視線を落とした。

帝国財務規則において、地方からの徴収時に発生する小数点以下の微々たる端数は、すべて「四捨五入」または「直近の整数への切り捨て・切り上げ」として処理されるルールになっている。

通常、数万、数十万件に及ぶ取引を長期間にわたって統計的に処理すれば、切り捨てられる数字と、切り上げられる数字の確率は「二分の一」に収束する。

プラスとマイナスが互いに相殺し合い、最終的な総計に与える影響はほぼゼロになるはずなのだ。

それが自然の、そして数理の絶対的な法則だった。

しかし、トアの頭の中で瞬時に組み立てられた確率論的シミュレーションは、ある奇妙な「偏り」を示していた。


「東部管区、南部管区、それにガイル侯爵が管理していた中央直轄地……。これらの場所から上がる数字だけ、不自然なほど一定の割合で『切り捨て』側に傾いている。確率にして、およそ六十四パーセント。これは、偶然の積み重ねや、事務官の手癖で発生するレベルの偏りじゃない。」


トアは算盤(そろばん)を手に取ることもせず、ただ静かに羽ペンを走らせ始めた。

彼の脳内では、数万行に及ぶデータが三次元のグラフのように立体化され、不自然に削り取られた「数字の隙間」が赤く燃えるように浮き上がっていた。

一見すれば、わずか数パーセントの誤差。

現場の人間であれば「書類の転記ミス」や「計量器のわずかな個体差」として、疑問にすら思わず片付けるであろう微々たるもの。

だが、トアはその「数パーセント」の背後にある、目に見えない巨大な「流れ」を追っていた。


「端数を削り、川のせせらぎのように静かに、しかし絶え間なく別の口座へ流す。……見事な手際です。これなら、どんなに優秀な監査官が総計をチェックしても、元々の数字が『正しく処理された結果』に見える。でも、これを十年、国中で続けたらどうなるか。」

トアのペンが、最後の一行を書き込む。

導き出された使途不明金の総額を見たとき、いつもおっとりとしている彼の眉が、わずかにピクリと動いた。


「……一国の師団を、半年間完全に維持できるほどの巨額。これが、国家の胃袋に巣食う白蟻たちの取り分か。」

トアはふぅ、と息を吐くと、書き上がったばかりの一枚の紙を見つめた。

そこには、複雑な高等数式などは一切書かれていない。

ただ、どの管区の、どの帳簿の、どの端数が、どれだけの確率で操作され、最終的にどこの「架空の倉庫」へと集約されているかが、誰の目にも一目でわかるように、極めてシンプルに整理された『端数偏向分析表』だった。


「よし、整理整頓のついでに、これも一緒に返却カゴに入れておきましょう。後でバルトさんが困るといけませんしね?」

 トアは自分の手柄にする気など微塵もなく、ただ「仕事のついでのお片付け」として、その恐るべき爆弾書類を、主計局への返却書類の束の一番下にそっと挟み込んだのだった。

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