第13話 試練の洞窟、のんきな迷子
暗転した視界が戻った時、トアはひんやりとした岩の感触を背中に感じていた。
「おっと、ここは…どこだろう…?」
トアは身を起こし、衣服の埃を払った。
幸いなことに、小脇に抱えていた風呂敷包みのお弁当は無傷だ。
中身の時雨煮の汁が漏れていないか心配だったが、完璧な密閉容器(古文書の記述を元に職人に作成してもらった特製品)のおかげで無事のようだ。
周囲を見渡すと、そこは巨大な洞窟の内部だった。
天井は遥か高く、どこからともなく差し込む淡い光が、湿った岩肌を青白く照らしている。
空気はひんやりと冷たく、時折、遠くで水滴が岩を叩く音が反響して聞こえてきた。
「古い文献にある『試練の迷宮・ゴルゴダの奈落』かな。まさか本物が実在していたなんて!」
トアの目は、恐怖ではなく純粋な知的好奇心で輝いていた。
普通の人間なら、自分がどこかも分からない魔境に拉致されたと知れば、絶望して泣き叫ぶところだ。
しかしトアは、壁の岩の削られ方や、空気の流れをじっくりと観察し始めている。
「確か、千年前の『竜王戦記』の第三章に、この洞窟の記述があったはず。竜族の若者が成人する際、己の力を示すために最深部を目指す試練の場……。確か、凶悪な魔獣や、侵入者を惑わす古代の罠が無数に仕掛けられている、って書いてあった気がするなぁ。」
トアがおっとりと独り言を呟きながら歩き出すと、前方からガサガサと不穏な音が近づいてきた。
現れたのは、体長三メートルはあろうかという巨大な蜘蛛――『冥府の斑蜘蛛』だ。
その鋭い八本の脚は鋼鉄の剣のようで、複数の赤い眼が獲物を見つけて怪しく光っている。
「キシャァァァッ!」
蜘蛛が鋭い牙を鳴らし、トアの頭上へと飛びかかってきた。
「うわ、大きい蜘蛛だな。でも……あ、やっぱり!」
トアは慌てることなく、持っていた頑丈な書記官用のペンで、壁の特定の突起をカチリと突いた。
すると、ガガガガと重苦しい音が響き、天井から巨大な岩のブロックが滑り落ちてきて、飛びかかってきた蜘蛛を見事に押し潰した。
「ふぅ。このエリアの罠は『対侵入者用の自律迎撃床』だから、特定の周期で踏むと作動するんですよね。古い図面を覚えておいて良かった。」
トアは潰れた蜘蛛を見つめ、
「可哀想に。でも、ちょっと邪魔だったので。……あ、この蜘蛛の糸、防刃性に優れた高級織物の素材になるやつだ。少し採取しておこう。」
ナイフを取り出し、手際よく蜘蛛の糸を巻き取っていく。
拉致された被害者とは思えない手際の良さである。
しばらく洞窟の奥へと進むと、トアの足がピタリと止まった。
目の前にある広大な壁面。
そこには、びっしりと古風な、しかし力強いタッチで何かが描かれていた。
「これは……古代竜画!?」
トアは風呂敷包みを脇に置き、壁画に駆け寄った。
それは、数千年前の、人間と竜族がまだ言葉を交わす前の時代の記録だった。
巨大な竜が天を舞い、地上に生きる純人類たちに火の扱い方を教えている構図や、お互いに手を取り合って巨大な魔獣に立ち向かう姿が、見事な色彩で残されている。
「素晴らしい……! 現存する王立図書館の写本では、この部分の色彩が完全に失われていて、ただの『竜の侵略図』だと誤訳されていたんだ。でも、本物を見る限り、これは侵略じゃなくて『共生と祝福』の意味のルーンが使われている。こっちの曲線の描き方は……」
トアは完全に自分の世界に入り込んだ。
懐からメモ帳と炭筆を取り出し、壁画のルーンを猛烈な勢いで書き写し、解読し始める。
「なるほど、竜族の『逆鱗』の本質は、魔力の暴走を防ぐための排熱器官であると同時に、最も信頼する者にしか見せない『心の窓』……。だから、逆鱗に触れる者は伴侶となるんだ。三年前のリゼさんの状態は、まさにこの排熱が上手くいかずに……」
彼にとって、この試練の洞窟は恐怖の魔境などではなく、世界最高峰の『未公開図書館』に他ならなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
トアが壁画の解読に熱中し始めてから、どれほどの時間が経っただろうか。
洞窟の奥から、今度は複数の足音が近づいてきた。
しかし、それは魔獣の足音ではない。
もっと規律正しい、しかしどこか退屈そうな足音だ。
「おい、長老たちに言われて見張りに来たが、人間の若造なんて、今頃最初の魔獣に喰われて骨も残ってねぇんじゃねぇか?」
「違いない。ボルカノ様の『影の顎』で直接ここに放り込まれたんだ、恐怖で狂っていてもおかしくないさ。」
現れたのは、リゼの親族にあたる竜族の若い戦士たち三人だった。
赤い髪を短く刈り込んだ血気盛んな青年イラン、青い髪のクールな青年アクア、そして大柄で少しのんびりした印象のアース。
彼らは長老会から「人間の男がどこまで耐えられるか監視し、死にかけたら回収せよ!」との命令を受けていた。
しかし、彼らが目にした光景は、予想を遥かに超えたものだった。
「……は?」
イランが呆然と声を漏らす。
そこにいたのは、血塗れで震える人間の姿ではない。
壁画にペタペタと触りながら、「ほほう、ここのルーンはこう読み解くのか!」と一人で大興奮しているトアの姿だった。
その足元には、なぜか綺麗に採取された冥府の斑蜘蛛の糸が束ねて置いてある。
「おい、人間……! お前、何をしてやがる!?」
イランが鋭い牙を剥き出しにして声をかけると、トアは「おっと」とペンを止め、嬉しそうに振り返った。
「あ、こんにちは! 皆さんもこの壁画を見に来たんですか? 凄いですよ、これ! 千年前の『第二次聖竜協定』の真実が、ここの第三段目に完璧な状態で残されているんです!」
「は? せいりゅうきょうてい……?」
イランたちが困惑して顔を見合わせる。
自分たちが放つ、竜族独特の威圧的な空気が、この人間には一切通じていない。
「いや、そんなことはどうでもいい! お前は拉致されて、この危険な洞窟に閉じ込められたんだぞ!? なんでそんなに楽しそうなんだ!」
アクアが冷徹に突っ込むが、トアは首を傾げるだけだ。
「だって、こんな貴重な資料、古文書館でも見たことがありませんから。あ、そうだ。ちょうどお腹が空く時間ですよね。皆さんも一緒にどうですか?」
トアはそう言うと、脇に置いてあった風呂敷包みを解き、三段重ねのお弁当箱を開いた。
その瞬間。
――ふわぁぁぁん……っ!
洞窟のひんやりとした空気の中に、甘辛く、そして濃厚な、暴力的とも言える『美味い匂い』が爆発的に広がった。
蜂蜜と生姜の香りが絶妙に絡み合った猪肉の時雨煮、出汁の効いた黄金色の卵焼き、そして、ふっくらと炊き上げられた白米。
ぐぅぅぅ……
大きな音が、洞窟内に響き渡った。
音の主は、大柄なアースの腹だった。
それにつられるように、イランとアクアの腹からも情けない音が鳴る。
竜族は強靭な肉体を持つがゆえに、非常に大食漢であり、代謝も激しい。
おまけに朝から長老たちに振り回されて、まともな食事を摂っていなかったのだ。
普段、彼らが食べているのは、豪快に焼いただけの塩味の肉か、生肉が中心である。
そんな彼らの嗅覚に、トアが極限まで計算し尽くした『旨味の結晶』がダイレクトに突き刺さった。
「な、なんだこの匂いは……! 嗅いだだけで、体内の魔力が活性化していくような……!?」
アクアが驚愕の表情を浮かべる。
それもそのはず、トアの料理には、竜族の魔力循環を助ける特殊な薬草が、絶妙な調合で含まれているのだ。
「あ、これですか? 猪肉の時雨煮です。リゼさんがいつも『トアの作った肉料理は、身体の芯から力が湧き上がってくる』って喜んでくれるので、少し多めに作ってきたんです。はい、どうぞ!」
トアは、常備している予備の竹製の箸と小皿(これも書記官の習性で常に持ち歩いている)に時雨煮と卵焼きを小分けにして、三人に差し出した。
「ふ、ふん! 人間の作った料理など、我ら誇り高き竜族の口に合うわけが――」
イランが強がろうとしたが、その手はすでに本能的に箸を受け取ってしまっていた。
アースにいたっては、すでに涎を垂らしている。
「ま、美味くなかったら、その場で叩き潰してやるからな!」
イランはそう捨て台詞を吐くと、時雨煮の一片を口に放り込んだ。
アクアも慎重に、アースは豪快に、それぞれ一口。
直後、三人の動きが完全に停止した。
「――っ!!!???」
イランの琥珀色の瞳が、限界まで見開かれる。
口の中いっぱいに広がる、濃厚な肉の旨味。
しかし、全くしつこさがない。
生姜の爽やかな辛みと蜂蜜の奥深い甘みが、猪肉の野性味溢れる脂と完璧なハーモニーを奏でている。
さらに、噛み締めた瞬間に、体内の魔力回路がまるで極上の温泉に浸かったかのように、じんわりと、しかし圧倒的な勢いで満たされていくのが分かった。
「な、ななな……何だこれはぁぁぁッ! 肉が……肉が口の中で溶ける! それに、この黄色い塊(卵焼き)はなんだ! 噛むと出汁が溢れ出て、脳が震える美味さだぞ!」
アースが涙目で叫び、猛烈な勢いで箸を動かし始める。
「冷えているのに、これほどの旨味と魔力浸透率を維持しているなんて……。調理の過程で、魔力の定着式が組み込まれているのか……!? いや、これは純粋な『技術』だ……!」
アクアが冷静さを失い、眼鏡(竜族の視力調整用)をガタガタ言わせながら分析している。
「う、美味い……! 美味すぎるぞ、人間!! 普段俺たちが食ってる、ただ焼いた肉は一体何だったんだ! 泥か! 泥を食っていたのか俺たちは!」
イランは完全にプライドを投げ捨て、トアのお弁当箱に群がった。
「あはは、気に入ってもらえて良かったです。白米と一緒に食べると、もっと美味しいですよ?」
トアが優しく微笑みながらおにぎりを差し出すと、三人はもはやトアを『拉致された無能な人間』などとは微塵も思っていなかった。
「あ、あの、トアさん……。これ、もう一口貰えたりしますか……?」
さっきまで威張り散らしていたイランが、今や捨てられた仔犬のような目でトアを見上げている。
「ええ、いいですよ。まだ大鍋一つ分くらいの量は公爵邸の厨房にありますから。もしここを出たら、みんなで食べましょう。」
「お、お兄ちゃん……! いや、義兄上と呼ばせてください!!」
アースがトアの手を両手で握り締め、ぶんぶんと振った。
「義兄上! 俺、一生貴方に付いていきます! アルテリゼ様が貴方を選んだ理由が、今完全に理解できました!」
「いや、俺はただの元書記官なんだけどな……」
トアは苦笑しつつも、若い竜たちの頭をポンポンと撫でてあげるのだった。




