第12話 平穏な朝の、けたたましい来訪
トアの花嫁?(笑)試練編開幕です!
王都の喧騒から少し離れた一等地に佇む、ヴァルハイト公爵邸。
そこは、帝国最強の半竜にして帝国近衛騎士団の団長たるアルテリゼ・ヴァルハイト公爵閣下の屋敷である。
そして現在、その屋敷の広大な厨房では、人間であり元・下級書記官のトア・レンバートが、慣れた手つきでフライパンを振るっていた。
「よし、火加減はこれくらいだな。リゼさんはお肉が好きだけど、最近は会議続きで少し胃が疲れているみたいだし、今日は生姜と蜂蜜でじっくり煮込んだ柔らかい猪肉の時雨煮をメインにしよう。それと、魔力を安定させる薬草を刻み込んだ卵焼きも....」
トアの独り言に、背後から深く長い、しかしどこか安堵の混じったため息が返ってくる。
「トア様……。相変わらず、貴方の前では公爵邸の料理長たちが『自分たちの存在意義とは……』と涙目で厨房の隅を磨き続ける事態になっておりますよ。」
呆れたように声をかけてきたのは、灰色髪の狼獣人であり、リゼの有能な副官を務めるバルトだ。
今日も今日とて、書類の山と主君の気まぐれに挟まれて胃が痛いのか、眉間には深い皺が刻まれている。
「あはは、バルトさん、おはようございます。料理長たちには後で、僕が見つけた古い文献の『魔獣肉の旨味を極限まで引き出す熟成法』の写しを渡しておきますから大丈夫ですよ。」
「……貴方のその、古文書の知識をすべて『美味しい料理』と『リゼ閣下の体調管理』に全振りする姿勢、いっそ清々しいですね...。」
トアがおっとりと微笑むと、バルトはそれ以上何も言えず、差し出された淹れたてのハーブティーを受け取った。
二人がそんな気の抜けた会話を交わしていると、突如として、王都の上空の空気が目に見えて歪んだ。
――ゴォォォォォンッ!!
地響きではない。
天から叩きつけられるような、圧倒的な「質量」を持った威圧感。
公爵邸を包む強力な防壁の魔術障壁が、ミシミシと嫌な音を立てて軋み始める。
厨房の窓ガラスがガタガタと激しく震え、庭に植えられた魔力花が一斉に蕾を閉じた。
「っ……! この気配は……まさか!?」
バルトが手にしたカップを取り落としそうになりながら、鋭い犬歯を剥き出しにして窓の外を睨みつける。
その額には、冷や汗が大量に浮かんでいた。
彼のような屈強な獣人が、気配を察しただけで本能的な恐怖に駆られるほどの存在。
「うわぁ、凄い熱量だ。まるで古い記録にある『活火山の目覚め』みたいですね?」
トアは相変わらずおっとりとした口調で、手元のお弁当箱に綺麗に時雨煮を詰めながら窓の外を見た。
彼の人外の脅威に対する鈍感さは、もはや一種の異能に近い。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
公爵邸の広大な前庭。
そこに、三つの巨大な影が音もなく舞い降りていた。
いや、舞い降りたというよりは、空間を割って出現したという方が正しい。
現れたのは、人間の姿を模してはいるものの、その背中には巨大な一対の翼、そして頭部からは湾曲した見事な角を生やした、三人の老人たちだった。
身に纏うのは、現代の帝国ではまず見かけない、古代の魔力織物で作られた仰々しい法衣。
彼らの周囲の空気は、あまりの魔力密度の高さゆえに自転するように歪み、陽炎のような揺らめきを生み出している。
「おいおい……冗談だろ……。竜族の『長老会』が、なぜこんな場所に……!」
バルトの声が震える。
ーー竜族の長老会。
それは、帝国が成立する遥か昔から世界の裏側に君臨し、古竜の血を最も濃く引く、文字通りの「生ける天災」たちの集まりだ。
普段は世界の果てにあるとされる『竜の秘境』から一歩も出ないはずの彼らが、なぜわざわざ人間の王都に姿を現したのか。
その理由は、彼らの最初の一言で一目瞭然となった。
「――アルテリゼ! どこにいる、不届きな娘め!!」
中央に立つ、燃えるような赤髪を蓄えた厳めしい老人が、杖を地面に突き立てて吼えた。
その声だけで、公爵邸の正面玄関の重厚な扉が内側へ向かって大きく歪む。
「人間の、それも下級平民の男をヴァルハイトの伴侶に迎えるなど、断じて認めんぞ!! 我が一族の血を汚す気か!」
「うわぁ、もの凄く怒ってますね。」
トアはパタン、とお弁当箱の蓋を閉めると、それを丁寧に風呂敷で包んだ。
「トア殿、のんきに感心している場合ではありません! あの方々は古竜の長老・ボルカノ閣下をはじめとする、竜族の絶対権力者たちです! 目的は確実に貴方だ、今すぐ私の後ろに――」
バルトが腰の剣に手をかけたその瞬間、厨房の壁が文字通り『消滅』した。
爆発したのではない。
ボルカノが放った超高密度の熱量によって、一瞬で分子レベルで蒸発したのだ。
「そこにおるな、アルテリゼをたぶらかした不届きな人間め!」
赤髪の長老ボルカノ、そして左右に控える青髪の冷徹な老婆、地響きのような体躯を持つ巨漢の長老の三人が、蒸発した壁の向こうからトアを凝視していた。
「ひえっ……」
バルトが恐怖で硬直する中、トアは風呂敷に包んだお弁当箱をしっかりと小脇に抱え、いつも通りのおっとりした笑顔で一礼した。
「初めまして、長老の皆さん。朝早くから賑やかですね。ちょうど朝ご飯ができたところですが、皆さんの分も作りましょうか?」
「……ぬ?」
ボルカノが怪訝そうに眉をひそめる。
自分たちが放つ、並の人間ならショック死しかねない「古竜の威圧」を前にして、この青年は恐れるどころか、今まさに作ったばかりの弁当を心配している。
「ふん、小賢しい。恐怖のあまり精神が崩壊しているのか、それとも無知ゆえの蛮勇か。いずれにせよ、このような弱者をヴァルハイトの夫にするわけにはいかん!」
青髪の老婆――長老ニヴルが冷酷に告げる。
「おい、若造。お前には我が一族の『過酷な試練』を受けてもらう。古竜の逆鱗に触れる資格があるかどうか、その身で証明してみせよ。」
「試練、ですか? 書記官の試験みたいなものなら、歴史と地理は得意なんですけど――」
「問答無用!!」
巨漢の長老が地響きのような声を上げた瞬間、トアの足元の影がドロリと広がり、巨大な闇の顎となって彼を飲み込んだ。
「トア様ぁぁぁーーッ!?」
バルトの悲痛な叫び声が響くが、時すでに遅し。
トアの姿は、風呂敷包みのごちそうと共に、その場から完全に消え去っていた。
直後。
「――私のトアに、何をしたァァァァァッ!!」
王都の防空結界が全て吹き飛ぶほどの、すさまじい咆哮が公爵邸の奥から響き渡った。
プラチナブロンドの髪を怒りで逆立て、全身に夜色の鱗を浮かび上がらせたリゼが、漆黒の翼を広げて厨房へと音速で突っ込んできた。
その琥珀色の瞳は完全に縦の細目になり、本物の破壊神の輝きを放っている。
「お、落ち着きなさいアルテリゼ! これは一族の正当な権利に基づく試練だ!」
ボルカノが慌てて杖を構えるが、リゼの放つ龍圧はすでに長老三人分のそれを遥かに凌駕していた。
「黙れクソジジイども!! トアに万が一のことがあれば、竜の秘境ごと灰にしてやる!!」
こうして、未曾有の身内揉めが幕を開けたのである。




