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ケチなおっさん、転生して異世界を最弱教団で制覇しに行く。  作者: むちゃうまご飯


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闘技賭博場の再建2

それから、さらに一か月という時間が速やかに流れていった。

「……五万二千三百枚」

俺は目の前にある重厚な木製の机の上に広げられた分厚い帳簿を見つめながら、幾度となくその数字を指先でなぞり、何度も確認した。

「五万二千三百枚……本当にこれだけの額が残ったんだな」

「うん。今月の純利益。経費も人件費も、施設の維持修繕費もすべて差し引いた後の、完全な利益」

隣の椅子に腰掛けているミアが、いつもと変わらぬ淡々とした声で短く答える。俺は椅子の背もたれに深く身体を預け、天井の木目をじっと見上げた。

「……」

「アステル?」

「……ふふ」

「何?」

「ふふふ……」

「なんか怖いんだけど」

「ははははは!」

俺はついに抑えきれなくなり、部屋中に響き渡るような大声で笑い声を上げた。

「金貨五万枚だぞ!? 一か月で叩き出した数字が、金貨五万枚だ!」

「そうだね。帳簿の上でも、金庫の中身でも間違いなくその数字になっているよ」

「一か月で五万枚だ! 最初に着手したときは三万枚の維持で一杯一杯だったんだぞ!? それがたった数か月で五万枚オーバーまで跳ね上がったんだ!」

俺は帳簿を両手で持ち上げ、その紙の重みと数字の重みに感動で身体を震わせた。

「年間に換算してみろ! 六十万枚以上の利益だぞ!」

「あくまで今の状況が一年間途切れることなく続けば、という計算上のお話だけどね」

「このペースで伸ばしていけば、あのガスト教団から力ずくで引き継いだ総資産一〇〇万枚だって、ほんの数年で二倍、三倍と膨れ上がっていくに決まっている――」

「アステル」

「なんだ?」

「一旦落ち着いて。息が荒くなってる」

「無理に決まっているだろ!」

俺は勢いよく机を叩いた。手のひらに伝わる軽い痛みが、これが夢ではない実体であることを教えてくれる。

「目の前で金が猛烈な勢いで増えているんだぞ!? 落ち着いていられるわけがない!」

「分かってる。君がどれだけお金に執着しているかは十分理解しているから」

「しかも、これで頭打ちじゃない。まだまだ伸ばせる余地を残しているんだ!」

この一か月間、俺とミアは闘技賭博場の構造改革をさらに推し進めてきた。単に賭けの参加料を適正価格に設定し直しただけにとどまらない。

旧態依然としていた薄暗い観客席を全面的に改修し、どの角度からでも中央のリングがはっきりと見渡せる立体構造の特別席や一般席を増設した。さらに場内の飲食店メニューを劇的に充実させ、ただ試合を観戦するだけでなく、上質な酒や温かい肉料理を味わいながら一日を過ごせる空間へと作り変えたのだ。

人気の高い看板選手が出場する日程には、街中に大々的な宣伝チラシを撒き、試合そのものを単なる殴り合いから至高のエンターテインメントへと価値を引き上げていった。

以前のガスト教団が運営していた闘技賭博場は、殺伐とした空気の中で客がただ殺し合いを見て、闇雲に金を賭けるだけの無骨な場所だった。だが今のノクス教団が切り盛りするこの場所は違う。家族連れや裕福な商人までもが足を運ぶ、一日中安心して散財できる総合娯楽施設へと生まれ変わりつつあるのだ。

「やっぱり一番大きかったのは、賭けの参加有料化と入場手続の簡略化だな」

俺が改めて実感を込めて呟く。

「うん」

ミアが静かに頷いた。

「最初は長年通っていた常連客から激しい反発もあったけれど、一回あたりの参加料を極限まで低く設定したから、客離れは最小限で済んだ」

「それどころか、気軽に入れるようになったことで新規の客層が爆発的に増えた」

「少額でも、参加する人間の数が圧倒的に増えれば、最終的に手元に残る利益は巨大な塊になる。これこそが商売の基本中の基本だ」

「アステル、最近口を開けばその言葉ばっかり言ってるね」

「重要な真理だから何度でも言うんだ。商売の本質を忘れた奴から破滅していく」

ミアは手元にある別の小さな帳簿をめくった。

「それに、予想以上に飲食部門の売上伸び率が高いよ」

「だろうな。試合が盛り上がれば盛り上がるほど、喉が渇き、腹が減る。観客が増えたことで、セットで注文される食事の総数が跳ね上がった」

「つまり――」

俺はニヤリと口角を上げた。

「一人の客が施設内に足を踏み入れてから出るまでの間に、複数の場所で自然と金を落としてくれる仕組みが完成したわけだ」

「……相変わらず言い方がちょっと悪徳商人っぽくて怖いよ」

「結果を出しているんだから最高の褒め言葉だ」

俺は胸を張り、満足感に浸った。元々は敵対していたガスト教団の資金源だった施設。それが今や、我がノクス教団の財政を強力に支える最重要拠点として機能している。

月金貨五万枚。この金額が持つ力は絶大だ。これだけの資金があれば、教団の装備拡充も、団員の生活基盤の強化も、今後のいかなる作戦行動も資金難で頓挫することはない。しかも、これはまだ完成形ではない。さらなる伸び代を残しているのだ。

「次は月金貨六万枚を目指す」

「本当にいけるかな?」

「絶対にいける」

「その自信の根拠はどこから来るの?」

「俺の長年培った鋭い勘だ」

「……」

「それと、積み上がった過去三か月分の綿密なデータと帳簿」

「最初からそっちを根拠として言ってほしいな」

ミアが呆れたように、けれどどこか楽しそうに微かな笑みを浮かべた。俺もつられて笑う。

ここ最近は、こうしてミアと膝を突き合わせて経営戦略や資金繰りについて議論を重ねる時間が、すっかり日課であり楽しみとなっていた。

最初にミアと出会った頃のことを思い出すと、少し懐かしい。当時はとにかく話しかけづらい雰囲気を漂わせていた。個性的で目立つツインテール。独特な意匠が施された衣装。そして何より『呪術師』という怪しげな肩書き。どことなく冷ややかで、他人を寄せ付けない壁を作っているように見えたのだ。

だが、実際にこうして事業を共に動かしてみると、驚くほど思考のテンポが合い、理知的で頼りになる相棒だった。特に金の話、利益をどうやって最大化するかという話題になったときの間合いは完璧だった。

「アステル」

「ん?」

「次は何の施策を打つ?」

「そうだな……」

俺は机の端から新しい白紙の羊皮紙を引き寄せ、羽ペンを走らせる。

「常連客をガッチリ囲い込むための特別制度を作る。利用回数に応じた会員ランク制度だ」

「ギルドの食堂みたいなもの?」

「一定以上通って金を落としてくれた客には、優先座席の予約権や飲食の割引特典をつけるんだ」

「でも、特典を豪華にしすぎると利益率が下がって本末転倒にならない?」

「だから割引しても十分に粗利が出る範囲で緻密にパーセンテージを設定するんだ。損して得取れ、だが絶対に損はしない」

「なるほどね」

ミアが深く頷き、身を乗り出してペンを取った。

「それなら私も一つ提案がある。呪術を使った簡易的な認証カードを作れば、偽造防止と客の利用履歴の管理が同時にできるよ」

「素晴らしいな! それでいこう!」

「あと、遠方の街から評判を聞きつけてやってくる遠征客向けに、近隣の宿屋と提携して『観戦チケット付き宿泊プラン』を出すのはどう?」

「いいぞ、ミア! 宿屋からも仲介手数料を取れるし、滞在時間が伸びればそれだけ闘技場での消費も増える!」

「それと――」

俺たちは時間を忘れてアイデアを出し合い、紙の上に新たな集金システムを描き出していった。気づけば熱中してから二時間近くが経過していた。

その時だった。防音加工が施されているはずの管理室の扉を抜けて、闘技場の中心部から地鳴りのような大きな歓声とざわめきが響いてきた。

「……?」

俺は羽ペンを止め、顔を上げた。

「何だ? 今日の昼の興行はもう終わったはずだろ」

歓声は収まるどころか、次第に地鳴りのように地響きを伴って大きくなっていく。

「新しい試合でも始まったの?」

「いや、スケジュールにない飛び込みの試合は許可していないはずだ」

ミアも立ち上がり、二人で顔を見合わせる。

「じゃあ、一体現場で何が起きてるの?」

「見に行くぞ」

俺たちは書きかけの紙を置き、管理室を飛び出して観客席へと続く中央廊下を急ぎ足で駆け抜けた。

薄暗い廊下を抜けた先、ぱっと視界が開け、巨大なコロシアム状の闘技場が見下ろせるベランダに出た。そして闘技場の中央リングを見下ろした瞬間――。

「……なんだ、ありゃ」

俺は思わず足を止め、目を細めた。静まり返るリングの中央に、一人の男がポツンと立っていた。

背が高く、肩幅の広い大柄な男だ。だが、単に身体が大きいだけの戦士なら、この闘技場には腐るほどいる。

その男が異質だったのは、ただそこに佇んでいるだけで、周囲の空気を歪めるほどの異様な存在感と威圧感を撒き散らしていたからだ。目に見えない重圧がリングを中心に円状に広がっており、気圧された観客や他の闘士たちが、男から一定の距離を保って腰が引けている。

「誰だあいつ? 見たことない顔だな」

「どこかの有名パーティーの冒険者か?」

「いや、全身から漂う雰囲気がヤバすぎるだろ……触ったら切られそうだ」

観客席のあちこちで、動揺と好奇心が混ざり合ったヒソヒソ話が広がり始めていた。

男は周囲の反応などハナから気にも留めていない様子で、ゆっくりとした足取りでリング脇の受付カウンターへと歩み寄った。

「ここが噂の闘技賭博場か?」

腹の底に響くような、重く低い声。対応していた若い受付係の職員は、顔を蒼白にして緊張で肩を震わせながら頷いた。

「は、はい! さようでございますが……」

「俺もこのリングの試合に参加したい。エントリーの手続きをしてくれ」

「試合に……ですか? 本日の公式試合はすべて終了しておりますが……」

「相手は誰でもいい」

男は表情一つ変えずに淡々と告げた。

「この場にいる中で、一番強いと言われている奴を連れてこい。まとめてでも構わん」

その傲慢とも取れる強烈な一言に、観客席から一瞬の静寂ののち、爆発的な歓声が沸き起こった!

「おおおおお! かっこいいこと言ってくれるじゃねえか!」

「おいおい、誰でもいいだと!? 名乗りを上げる奴はいないのか!」

「面白くなってきたぞ! 新しい挑戦者の登場だ!」

俺は高みの見物決め込むように腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。

「……随分と威勢がいいな。自信過剰か、それとも本物か」

「アステル」

ミアが真剣な面持ちで、俺の服の袖を軽く引っ張った。

「何だ?」

「あの男……ちょっとおかしい。普通じゃない」

「まあ、立ち振る舞いを見ればただ者じゃないのは俺にも分かる」

「違うの」

ミアは首を小さく横に振った。

「そういう概念的な意味じゃない」

そう言うと、ミアは懐のポケットから一基の珍しい眼鏡を取り出した。黒い特殊な金属で削り出された細いフレーム。そのレンズの奥を注視すると、淡い紫色の魔法陣が精密に浮かび上がって発光している。

「それは?」

「鑑定眼鏡」

「そんな重宝しそうな魔法道具、持ってたのか?」

「前にノクス様から直接いただいたものだよ」

「初耳だぞ。なんで今まで黙ってたんだ」

「別に聞かれなかったから言ってなかっただけ」

ミアは手慣れた動作で眼鏡を装着し、レンズ越しにリング中央の男をじっと見つめた。

「これを使うと、対象のステータスやレベル情報が視覚的に数値化されて確認できるの」

「へえ、経営の面接でも使えそうな便利なアイテムだな」

「ただし、完璧な万能アイテムじゃないよ」

「どういう意味だ?」

「相手の力量が自分たちの許容量を超えて高すぎたり、特殊な遮蔽スキルを持っていると、情報の一部がモザイクがかかったみたいに見えなくなる」

「なるほど、上限があるわけか」

ミアは無言のまま、男の全身をじっくりと観察し始めた。

「……」

数十秒間、沈黙が流れる。

「どうだ? 何か見えたか?」

「待って……今、詳細な解析を行ってる」

「……」

「……」

レンズを覗き込むミアの表情が、刻一刻と青ざめ、目を見開いていくのが分かった。

「アステル……」

「なんだ? 何が見えた?」

「レベル……」

「うん」

「八十二」

「……」

俺は一瞬、自分の耳を疑い、言葉を失った。

「……八十二?」

「うん。間違いなく、そう表示されている」

「八十二って……おいおい」

「ガスト教団の最高幹部や最高戦力すら遥かに凌駕する領域だよ」

「……そうなるな」

俺はゴクリと唾を飲み込み、改めてリングの上に立つ男を見つめ直した。

以前の俺たちであれば、レベル八十二という数字を聞いただけで、戦意を喪失し絶望していたかもしれない。

だが今の俺たちは違う。ノクス様から賜った加護の力は以前の二倍以上に強化されている。何より俺自身、ガスト教団との死闘や数々の修羅場をくぐり抜けてきたことで、かつてとは比べ物にならないほど戦闘技術も肉体も成長している。

それでも――レベル八十二という数字が持つ絶対的な暴力の重みは、無視できるものではない。

「他の詳細な能力値やスキルは?」

ミアが困惑したように眉をひそめた。

「それが……」

「?」

「ステータスの大半に強力なノイズがかかっていて、一番重要な部分が表示されないの」

「表示されない?」

「うん」

ミアは諦めたように眼鏡を外した。

「ノクス様の鑑定眼鏡を持ってしても、読み取りきれない」

「つまりどういうことだ?」

「純粋な能力値があまりにも規格外に高すぎるのか、あるいは高レベルの鑑定妨害スキルを常時展開しているかのどちらか」

「……」

俺が険しい目つきで男を見下ろしていると。ふと、リング中央にいた男が、まるで視線を感じ取ったかのようにゆっくりと首をこちらへ向けた。

俺たちのいるベランダの位置へ、正確に視線が固定される。視線が、真っ直ぐに交差した。

――ゾクリ。

背筋の奥底から、凍りつくような冷たい戦慄が駆け上がった。ただの視線ではない。こちらの実力、肌で感じる気の高まり、隠している戦力を一瞬で見極めようとする、研ぎ澄まされた捕食者の目だ。

「……気づかれた?」

ミアが声を潜めて囁く。

「ああ、間違いなく察知されたな」

男の口元が、ニヤリと吊り上がった。

「そこの二人」

男は周囲の歓声を完全に無視し、俺たちを見上げながら言った。

「この闘技場を仕切っている関係者か?」

「そうだ」

俺は意を決して一歩前に出ると、ベランダの手すりに手をかけ、堂々と見下ろして答えた。

「俺の名前はアステル。この闘技賭博場の全権を任されている最高管理者だ」

「ほう、アステルか」

男は鋭い眼光で俺の全身を舐めるように品定めする。

「お前……」

「何だ?」

「なかなか強いな」

「……謙遜しておくよ。お前ほどじゃない」

男は満足そうに短く笑った。

「面白い。実に面白い場所だ」

男はゆっくりと背を向け、リングの中央へと戻っていく。

「退屈しのぎにこの街へ立ち寄ってみたが、どうやら正解だったようだ」

俺はその力強い背中を見送りながら、深く腕を組んだ。胸の奥で、嫌な予感と、それを上回る怪しい期待が渦巻いていた。

俺たちの運営する闘技賭博場は、今まさに飛躍の時を迎えている。月純利益金貨五万枚。新規顧客の増加。施設の拡張と新サービスの導入。経営も、事業も、これ以上ないほど順調そのものだ。

だからこそ――。人生が最高潮に達しているこういうタイミングにこそ、得体の知れないトラブルや規格外の波乱が舞い込んでくるのが世の常だ。

「アステル」

「分かってる」

横に立つミアの顔を見る。

「……あいつ、間違いなく化け物級に強いよ」

「ああ」

「どうするの?」

俺は眼下の興奮に包まれる闘技場を見下ろした。観客たちは突然現れた謎の強者の存在に勘づき、普段以上の熱気で言葉を交わし合っている。

「規格外に強い奴が暴れ回れば、それを見ようと全土から客が押し寄せる」

「……」

「つまりだ」

俺は悪魔的な笑みを浮かべてミアに向き直った。

「死ぬほど儲かる」

「やっぱり最終的にはそこに行き着くんだね」

「当たり前だ。俺は商人であり、この場所の管理者だからな。転んでもタダで起きるかよ」

ミアは呆れたように肩をすくめて笑った。

だが、俺が胸の奥底で燃やしているのは、単なる金銭への欲望だけではなかった。

――戦ってみたい。

レベル八十二。ノクス様の最高級アイテムであっても見破れない謎の能力。圧倒的な存在感を放つあの男は、一体何者で、どれほどの力を持っているのか。

俺はミアの持っている鑑定眼鏡を見つめた。

「……本当にレベル八十二なのか?」

「間違いないよ」

「なら、もっと詳しく調べられないか?」

「普通の鑑定じゃ無理」

ミアはそう答えると、懐へ手を入れた。取り出したのは、小さな黒い箱だった。掌に収まる程度の大きさだが、表面には細かな魔法陣が刻まれている。

「それは?」

「観察用魔道具」

「鑑定眼鏡とは違うのか?」

「うん。鑑定眼鏡は相手のステータスを確認するもの。でも、これは戦闘そのものを観察する」

「戦闘そのもの?」

「魔力の流れ、身体能力、反応速度、移動の癖。そういうものを記録して分析できる」

「……そんな便利なものがあるなら、最初から使えばよかったんじゃないか?」

「誰に使うの?」

「闘技場には毎日それなりに強い奴が来るだろ」

「レベル三十とか四十を調べても、あまり意味ないよ」

「……随分と贅沢な使い方だな」

「強い人を見つけた時のために取っておいたの」

「まさか、こんなところで使うことになるとはな」

「うん。私も少し楽しみ」

ミアは黒い箱を開いた。内部に紫色の光が灯る。

「ただし、問題がある」

「何だ?」

「相手が強すぎると、正確に測れない」

「それだけならいい」

「最悪の場合は?」

「壊れる」

「……先に言ってくれ」

「今言ったよ」

「そういう問題じゃない」

ミアは気にした様子もなく魔道具を闘技場へ向けた。

「まあ、壊れたら直すから」

「直せるのか?」

「たぶん」

「お前の『たぶん』は信用していいのか?」

「半分くらい」

「……不安しかないな」

そんな会話をしていると、闘技場の係員が声を上げた。

「対戦相手を連れてきました!」

観客席から歓声が湧き上がる。闘技場へ入ってきたのは、見覚えのある剣闘士だった。この場所で何度も勝利を重ねている男で、レベルは三十六。うちの闘技場では上位に入る実力者だ。

「おお、あいつか!」

「最近負けてないぞ!」

「新入りにはちょうどいい!」

剣闘士は観客の声援を受けながら剣を抜いた。そして男を睨みつける。

「随分と余裕じゃねえか」

「そう見えるか?」

「構えもしない奴に負けるほど、俺は弱くないぞ」

「なら、安心してくれ」

「何?」

男は淡々と答えた。

「私はお前を弱いとは思っていない」

「……だったら、なんでそんな顔をしてやがる」

「期待しているからだ」

「俺に?」

「ああ。少なくとも、退屈させない程度には動いてくれるだろう」

剣闘士の眉が跳ねた。

「……言ってくれるじゃねえか」

観客席から笑いが起こる。俺は思わず苦笑した。

「あいつ、挑発の仕方が上手いな」

「アステル、そこ感心するところ?」

「いや、敵に回すと面倒そうだと思ってな」

「じゃあ、戦わない方がいいね」

「それは無理だろ」

開始の合図が鳴る。剣闘士が地面を蹴った。一瞬で距離が縮まる。剣が振り上げられた。

「――遅い」

男の姿が消えた。

「なっ――」

剣闘士が目を見開く。次の瞬間、鈍い衝撃音が響いた。剣闘士の身体が吹き飛び、地面を転がる。剣が手から離れ、乾いた音を立てて地面に落ちた。観客席が静まり返った。

「……一撃か」

俺は呟く。ミアは魔道具を見つめたまま動かない。

「記録できた」

「どうだ?」

「おかしい」

「何が?」

「速すぎる」

「それは見れば分かる」

「そういう意味じゃない」

ミアが魔道具を操作する。

「レベル八十二なら、もっと能力値に偏りがあるはずなの」

「つまり?」

「身体能力の高さだけじゃ説明できない」

「特殊なスキルか?」

「たぶん。でも、それだけじゃない」

ミアが顔を上げる。

「戦い方そのものが変」

「どう変なんだ?」

「無駄がない」

「……それは強者なら普通じゃないか?」

「違う。普通の強者は、相手の動きを見てから対応する。でも、あの人は違う」

「何が違う?」

「相手がどう動くか分かっているみたい」

俺は男を見た。彼は倒れた剣闘士に手を差し伸べていた。

「大丈夫か?」

「……ああ」

剣闘士が悔しそうに立ち上がる。

「何が起きたのか、全然分からなかった」

「そうか」

「もう一度やらせろ」

「断る」

「なぜだ?」

「次はもっと怪我をする」

「……」

男はそれだけ言うと、係員へ向き直った。

「次の相手を」

「おいおい」

俺は思わず笑った。

「あれだけやって、まだ戦う気かよ」

「むしろ戦い足りないんじゃない?」

ミアが答える。

「それなら、うちとしてはありがたい」

「また金の話?」

「当然だ」

俺は闘技場を見下ろした。

「あれだけ派手に勝ってくれれば、明日から客が増える」

「でも、あの人が毎日勝ち続けたら賭けが成立しなくなるよ」

「……それは困るな」

「そこなんだ」

「経営者としては重要だろ」

「まあね」

その時だった。ミアの声が変わった。

「……待って」

「今度は何だ?」

「魔力の波形」

「分かったのか?」

「少しだけ」

ミアは魔道具を操作する。黒い箱から光が伸び、空中に複数の魔法陣が浮かんだ。

「これ、どこかで見たことがある」

「ガスト教団か?」

「ううん、違う教団」

俺の表情が変わった。

「教団関係者の記録と照合できるか?」

「やってみる」

ミアが魔道具を操作する。数秒後、魔道具が小さく震えた。

『照合完了』

『対象:セドリック』

『所属:他勢力大教団』

『階級:第一五幹部』

『推定レベル:八十二』

俺は表示を見つめた。

「第一五幹部……」

「うん」

「大教団の幹部ってことか」

「そう」

「それも十五番目」

「かなり上だと思う」

「思う?」

「私はあっちの内部事情に詳しいわけじゃないから」

「……まあ、そうだな」

俺は闘技場を見る。セドリックは観客席を見回していた。そして、その視線が俺たちのところで止まった。

「……見つかった」

セドリックが小さく呟く。

「何が?」

俺が声を返す。セドリックは笑った。

「ノクス教団」

「……」

ミアの表情から笑みが消えた。セドリックは観客たちの視線など気にすることなく、俺たちを見上げる。

「なるほど。噂より若いな」

「噂?」

俺は手すりに腕を置いた。

「俺のことを聞いてきたのか?」

「ああ」

「どんな噂だ?」

「金にうるさい」

「……誰だ、そんな余計なことを言った奴は」

「事実ではないのか?」

「否定はしない」

「なら問題ないだろう」

セドリックが笑う。

「随分と堂々としている」

「隠す理由もないからな」

「それで、大教団の幹部様が、何の用だ?」

俺が尋ねると、セドリックは少しだけ姿勢を正した。

「勧誘だ」

「勧誘?」

ミアが眉をひそめる。

「そうだ」

「わざわざ幹部が来るほど、俺たちは重要なのか?」

「最近のお前たちの活動を見れば分かる」

「闘技場のことか?」

「それだけではない」

セドリックは淡々と続けた。

「お前たちは、この街で急速に勢力を伸ばしている」

「……」

「商人との関係。闘技場から得られる資金。信者の増加。そして何より――ノクスという神を信仰する者たちの存在」

「随分調べてるな」

「当然だ。知らない勢力を放置するほど、うちは無責任ではない」

その言葉に、俺は少し感心した。

「意外と正直なんだな」

「嘘をついて勧誘しても意味がない」

「確かに」

俺は笑った。

「じゃあ聞こう。お前たちの教団に入ったら、俺たちは何を得られる?」

「保護」

「資金」

「教団内での地位」

「なるほど。」

「そして、お前には相応の権限を与える」

「権限?」

セドリックは頷く。

「この街で商売をするにも、信者を増やすにも、今より遥かに自由になる」

「……悪くない話だな」

ミアが俺を見る。

「アステル?」

俺は少し考える。

「でも、条件がある」

「言ってみろ」

「ノクス教団を解散しろとは言わないだろうな?」

「言わない」

「ノクスへの信仰も捨てなくていい?」

「構わない」

「なら――」

俺は笑った。

「断る」

「……理由は?」

「俺が嫌だから」

「随分と単純だな」

「重要な理由だろ?」

セドリックは黙った。やがて、わずかに笑う。

「そうか」

「怒らないのか?」

「怒る必要がない」

「へえ」

「人間は、納得していない場所に無理やり入っても長続きしない」

「意外と話が分かるな」

「勧誘とは、相手を脅すことではないからな」

「なら安心した」

「ただし」

セドリックの声が低くなる。

「私も仕事を任されている」

「……」

「お前が断るなら、別の方法を取る必要がある」

「別の方法?」

俺が聞き返す。

「力ずくという手段もある」

「……なるほど」

俺は闘技場を見回した。観客はまだ状況を理解していない。単なる有名選手同士の会話だと思っている。

「ここでやるつもりか?」

「必要なら」

「それは困るな」

「怖いのか?」

セドリックが少し笑う。

「いや」

俺は即答した。

「この闘技場が壊れると困る」

「……」

「客が怪我しても困る」

「……」

「何より、修理費が馬鹿にならない」

「お前は金のことばかりだな」

「経営者だからな」

「なるほど」

セドリックは肩をすくめた。

「では、どうする?」

「簡単だ」

俺は闘技場の中央を指差す。

「決闘しよう」

観客席がざわめく。

「決闘だって!?」

「アステルが戦うのか!」

「相手はあの男だぞ!」

セドリックはしばらく俺を見つめていた。

「条件は?」

「俺が勝ったら、お前たちの教団はノクス教団に手を出さない」

「それは難しい」

「なら、お前が勝ったら好きにしろ」

「好きに?」

「ああ。ただし、俺が勝ったら――」

俺は一拍置いた。

「お前の教団に入ってやる」

ミアが目を見開く。

「アステル、それ、本気?」

「ああ」

「勝てると思ってるの?」

「さあ」

「……さあって」

「勝てるかどうかは、戦ってみないと分からないだろ」

俺は笑った。

「でも、一つだけ確かなことがある」

「何?」

ミアが尋ねる。

「俺がここで逃げたら、こいつはまた来る」

「……」

「だったら、今やる」

「合理的だね」

「だろ?」

セドリックは静かに笑った。

「面白い」

「何が?」

「お前だ」

「俺は面白くないぞ」

「そういうところだ」

セドリックが闘技場へ降りていく。

「いいだろう。受けよう」

「決まりだな」

俺も階段へ向かう。

「待って、アステル」

ミアが呼び止める。

「何だ?」

「これ」

ミアが鑑定眼鏡を差し出す。

「持っていって」

「俺が使うのか?」

「うん」

「戦いながら鑑定できるか?」

「無理だと思う」

「じゃあ何のために?」

「勝てなかった時のため」

「縁起でもないこと言うな」

「でも、相手の情報は貴重だから」

「……分かった」

俺は眼鏡を受け取る。

「壊さないでね」

「そっちかよ」

闘技場へ降りる。歓声が一気に大きくなった。セドリックは中央で待っている。

「来たか」

「ああ」

「最後に確認する」

「何だ?」

「本当に私が勝ったら、そっちの教団に入るのか?」

「ああ」

「後から約束を破るつもりは?」

「ない」

「随分と潔いな」

「俺は約束を破るのが嫌いなんだ」

「なら、安心した」

セドリックが構える。

「私も全力で戦える」

「こっちも手加減するつもりはない」

「……そうか」

その瞬間、セドリックの雰囲気が変わった。先ほどまでの穏やかな表情が消える。魔力が膨れ上がり、闘技場全体の空気が重くなる。観客席から歓声が消えた。

「……これが本気か」

俺は呟く。

「そうだ」

「さっきの剣闘士とは、別人みたいだな」

「彼には失礼だった」

「何が?」

「あれでも十分だと思っていた」

セドリックが笑う。

「だが、お前には足りない」

「……言ってくれる」

俺も構える。ノクスの加護が身体を巡る。力が湧き上がる。目の前にいる男は強い。間違いなく、今まで戦った相手の中でも最高クラスだ。

「セドリック」

「何だ?」

「一つ訂正する」

「聞こう」

「俺は、お前の教団に入るために戦うんじゃない」

「では何のためだ?」

「ノクス教団を守るためだ」

俺は笑う。

「ついでに、闘技場もな」

「最後まで金か」

「大事だからな」

「そうか」

セドリックも笑った。

「ならば、私も遠慮はしない」

係員が二人の間へ入る。

「両者、準備はいいか!」

俺は頷く。セドリックも頷く。観客席が静まり返る。誰もが次の瞬間を待っている。

「それでは――」

係員が手を上げる。

「決闘、開始!」

瞬間、セドリックの姿が消えた。

「――ッ!」

速い。先ほどとは比較にならない。俺は反射的に身体を捻った。拳が頬の横を通り過ぎる。風圧だけで皮膚が震えた。

「避けたか」

セドリックが呟く。

「危なかったな」

「そうか?」

俺は笑う。

「今のは、わざと外したんじゃないのか?」

「……」

セドリックの目が細くなる。

「試しているだけだと思ったか?」

「違うのか?」

「なるほど」

セドリックが笑った。

「やはり面白い」

次の瞬間、再び姿が消える。今度は正面。俺は拳を振り抜いた。

ドンッ!

拳と拳がぶつかり、衝撃が闘技場を揺らした。

「……っ!」

腕が痺れる。重い。単純な力だけでも、こちらを上回っている。

「どうした?」

セドリックが笑う。

「その程度か?」

俺は腕を振って痺れを飛ばす。

「まだ始まったばかりだろ」

観客席から歓声が爆発する。

「やった!」

「アステルが受け止めたぞ!」

「あのセドリックと互角か!?」

ミアだけは歓声を上げなかった。観察用魔道具を握りしめ、戦いを見ている。

「アステル!」

声が飛んでくる。

「何だ!」

俺はセドリックから目を離さない。

「気をつけて!」

「何が?」

「あの人――まだ能力を全部出してない!」

俺は笑った。

「だろうな」

セドリックが少し驚いたように目を開く。

「分かるのか?」

「俺だって、それくらいは分かる」

俺は拳を握り直す。

「だったら、こっちも見せてやるよ」

闘技場の空気が再び震えた。月金貨五万枚を生み出すこの場所は、今やただの賭博場ではない。大教団第一五幹部セドリックと、ノクス教団のアステル。二つの教団の未来を左右する戦いが、観客たちの見守る中で始まった。

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