教団戦争5
本殿へ続く最後の大扉が、重厚な音を立ててゆっくりと開いた。
ギギギギギ……。
その歪んだ咆哮のような響きが、巨大な空間へと吸い込まれていく。
俺たちは武器を固く構えたまま、全身の神経を研ぎ澄ませて慎重に中へ足を踏み入れた。
そこに広がっていたのは、今まで目にしてきたどの部屋とも一線を画す異次元の空間だった。
天井は数十メートルという遥かな高みにあり、見上げるほど巨大な純白の石柱が左右に整然と立ち並んでいる。その奥深く、神聖さと底知れぬ圧迫感を放つ黄金の巨大な聖壇が鎮座していた。
空間全体を埋め尽くす濃密な神力。肌を刺すようなその密度は、息をするのすら息苦しく感じさせるほどだ。
「……あれが聖壇か。」
俺の呟きは、広い空間の中で静かにこだました。
ノクス教団の持つ祭壇とは比べ物にならないスケール。信者を千人以上抱える街第三位の巨大教団、その不遜な支配と力の源泉が、まさに目の前にあった。
そして――その巨大な聖壇の前に、一人の男が立っていた。
眩い黄金の法衣を纏い、背中には光を放つ二枚の純金色の翼。
豪商ガスト教団の神――ガスト。
その足元、聖壇の直前には、一人の少女が乱暴に膝をつかされていた。
「フィーナ!!」
反射的に叫んでいた。
フィーナは両手を固く縄で縛られ、その細い首元には一筋の冷たい刃――ガストの剣が容赦なく突き付けられていた。
「アステル!」
フィーナの瞳が俺を捉える。無事だった。生きている。
傷つき、囚われてはいるものの、その命がまだ失われていないことを確かめられた瞬間、俺の胸を酷く締め付けていた激しい不安が、わずかに和らぐのを感じた。
だが、神ガストはあまりにも余裕たっぷりに、歪んだ笑みを浮かべていた。
「くはは……ようやく辿り着いたか、愚か者どもめ。」
黄金の翼をゆっくりとはためかせ、見下すような視線を投げてくる。
「歓迎しよう。私の領域へな。」
その笑みは、勝利を完全に確信した者の、残酷な余裕に満ちていた。
「一歩でも動いてみろ。」
ガストは冷酷な眼光とともに、剣の刃をフィーナの首筋へと強く押し当てた。皮膚が微かに沈み込む。
「この女の首が飛ぶのが先か、お前達の攻撃が届くのが先か……試してみるか?」
一瞬にして、空間の空気が凍り付いた。
背後に控えるレオンも、巨漢のゴルドも、他の幹部たちも、息を詰まらせたまま動くことができない。
俺は拳を強く、血が滲むほど握り締めた。
あと少し。あとほんの数メートルの間合いを詰めれば、この拳は届く。
だが、その一歩を踏み出した瞬間にフィーナが殺される。
どうする。助ける隙を窺うか。
それとも――無力化のために聖壇を破壊するか。
俺が苛烈な葛藤の中で迷った、まさにその時だった。
「アステル!!」
フィーナが突然、割れんばかりの大声で叫んだ。
「私なんか気にしないで!!」
俺はハッと顔を上げた。
死の恐怖を突き付けられているはずのフィーナの瞳には、涙一つ浮かんでいなかった。
それどころか、いつものように、力強く、不敵に笑っていたのだ。
「聖壇を壊して!! 今すぐ!!」
「でも……っ!」
「いいから!!」
フィーナは全身の力を振り絞るように叫び続ける。
「この神を完全に倒せるチャンスは、聖壇がある今しかないの!! 私に構わないで!!」
「壊せぇぇぇぇぇぇ!!」
その命懸けの叫びを聞いた瞬間、俺の胸から一切の迷いが吹き飛んだ。
「全員!!」
俺は喉が裂けんばかりに叫び返した。
「聖壇を破壊する!!」
「うおおおおおおお!!」
俺の号令とともに、後ろに控えていた幹部たちが一斉に地面を蹴って飛び出した。
人質を取れば動けないと高をくくっていたガストの表情が、初めて激しく崩れ去る。
「馬鹿な……!? 本当に壊す気か!?」
俺は全身のすべてのエネルギーを右拳へ集中させた。
神力。魔力。気力。
三つの異なる力を限界を超えて高め合わせ、一つの巨大な衝撃へと昇華させる。
「神拳ッ!!」
ドゴォォォォォォン!!
空気が爆ぜ、俺の全開の一撃が黄金の聖壇へ直撃した。
凄まじい衝撃波が部屋を吹き抜け、黄金の祭壇表面に目に見えるほどの巨大な亀裂が走る。
「まだだぁぁぁ!!」
間髪入れず、ゴルドの巨大な戦槌が叩き付けられ、レオンの鋭利な一閃が亀裂をさらに深く裂く。他の幹部たちの怒涛の連撃が、次々と聖壇へ集中的に叩き込まれていく。
そして――。
バキィィィィィン!!
激しい砕裂音とともに、豪商ガスト教団の象徴であった巨大な聖壇が、無数の破片となって粉々に砕け散った。
抑え込まれていた莫大な神力が暴風となって弾け飛び、本殿内を荒れ狂う。
「なっ……聖壇が……!?」
ガストが目を見開いて絶句する。だが、その衝撃はすぐに醜い怒りへと変わった。
「命乞いも聞かず……よくもやってくれたな! 死ねぇぇぇ!!」
ガストは自暴自棄の怒りに任せ、手にしていた剣をフィーナの首筋へ容赦なく振り下ろした。
ザシュッ!!
首を断ち切る鋭い音が空間に響き渡る。
俺たちは一瞬、息を呑んだ。
しかし。
「……え?」
ガストの手が、振り下ろされた位置でぴたりと固まった。
鮮血が吹き飛ぶこともない。肉を斬り裂いた手応えすらもない。
切断されたはずのフィーナの頭部が、重力無視のように不自然なほど軽く宙へ浮いたのだ。
次の瞬間。
その”頭”は宙を舞い、そのまま床へ転がった。
ゴトッ。
ガストは驚愕のあまり目を剥き出しにして、手元と床を見比べる。
転がったそれは、人の頭などではなかった。精巧な魔術とからくりで作られた、ただの幻影のダミーだったのだ。
「残念でしたー!」
からからとした聞き慣れた明るい声が、本殿の巨大な柱の陰から響き渡った。
全員が一斉に視線を向ける。
そこには、とっくに自力で縄を解き終えた本物のフィーナが、柱の陰からひょっこりと顔を出していた。
「えへへ!」
「なっ……! 貴様、いつの間に……!?」
ガストが理解の追いつかない様子で固まっている。その一瞬の隙を見逃さず、フィーナはドレスの裾を翻して全力疾走を開始した。
「アステルー!」
「フィーナ!」
俺も前へ駆け出し、向かってくるフィーナをしっかりと両腕で抱き寄せ、そのままガストの間合いの外へと素早く引き寄せた。
「無事か! 怪我はないか!?」
「もちろん!」
フィーナは胸を張り、眩しい笑顔で親指を立ててみせた。
「あの囚われてたやつ、最初から仕込んでおいた偽物なんだよ! 昔、お店のイタズラグッズとして保管してたマジックアイテムが、こんなところで役に立つとは思わなかったなぁ!」
なるほど――だからこそ、あそこまで堂々と「私に構うな」と叫ぶことができたのだ。
相変わらずの肝の据わり方に、俺は緊張の糸が切れて小さく苦笑した。
一方で、神ガストは呆然と自らの手を見つめたまま立ち尽くしていた。
「そんな……。そんな馬鹿なことが……。」
聖壇を破壊された影響が、早くも彼の肉体に現れ始める。黄金の法衣の端から、光の粒子がぼろぼろと漏れ出し始めたのだ。
「聖壇が……砕かれ……私の……存在の基盤が……!」
神はこの現世において、聖壇という媒介を失えば、その土地に姿を繋ぎ止め続けることはできない。
ガストの身体が、足元から徐々に透け始めていく。
「ノクス……ノクス教団の者共……ッ!」
ガストは顔を歪め、絶望と怨嗟の籠もった眼光で俺たちを激しく睨みつけてきた。
「覚えていろ……! 私は……私はここでは終わらん……! 必ず……いつか必ずお前たちに復讐してやる……ッ!」
黄金の翼が光の塵となって崩れ落ちていく。
突き出された腕が、胴体が、顔が、粒子となって空中に舞い上がっていく。
「この借りは……必ずや……ッ!!」
呪詛に満ちた最後の言葉を残し。
豪商ガスト教団の絶対的な神、ガストは、無数の金色の粒子となって静かに消滅した。
それと同時に。
本殿を重苦しく満たしていた巨大な神力が、潮が引くように完全に消え去っていく。
豪商ガスト教団。
この街の第三位に君臨していた巨大な脅威は、その象徴たる神を失い、ここに完全に崩壊したのだった。
ガストの身体が光となって消滅した、まさにその瞬間だった。
本殿内や広場に残されていた豪商ガスト教団の兵士たちは、己の肉体から底力を支えていた神力が急速に抜け落ちていく異変を感じ取っていた。
「な……何だ……!?」
「身体から……力が……抜けていく……!」
「神力が出ない……! 魔法が……使えないぞ!?」
混乱の声が広がる中、誰かが握っていた剣の手を緩めた。ガラン、と甲高い音を立てて鉄の刃が石畳へ落ちる。
一人。
また一人。
武器を手放す者が増えていく。
信仰すべき神を失い、後ろ盾を砕かれた彼らには、もはやノクス教団の凄惨な攻勢に立ち向かう戦う理由すら残されていなかった。
「もう……終わりだ……。」
一人の精鋭兵が、崩れるように両膝を床についた。
その敗北の姿を見た周囲の兵士たちも、伝染するように次々と武器を地面へ投げ捨てていく。
「降伏する……降伏させてくれ……!」
「お願いだ……命だけは……命だけは助けてくれ……!」
「もう無理だ……戦えない……戦いたくない……!」
広大な本殿の前には、幾重にも重なる武器の落ちる音と、兵士たちのすすり泣く声だけが虚しく響き渡っていた。
俺は荒い息を整えながら周囲を見回し、手にしていた剣を静かに鞘へ納めた。
「武器を捨てた者、戦意を喪失した者には一切手を出すな!」
その声は、神力による狂戦士化状態が続いていた教団員たちにも届いた。
命を賭した激闘が終わりを迎えたことを悟り、彼らの昂ぶっていた怒りも徐々に収まっていく。黄金色に染まっていた瞳が、ゆっくりと本来の人間らしい色合いを取り戻していった。
レオンが長剣を納め、深く長い息を吐き出す。
「……終わったな。」
ゴルドも巨大な戦槌をドスンと肩へ担ぎ直し、豪快に笑ってみせた。
「ガハハ! ようやく終わったか! 大金星じゃねぇか!」
しかし、その昂揚した笑顔も長くは続かなかった。
集められた捕虜たちの中から、一人の幹部補佐らしき男が、全身をガタガタと震わせながら俺たちの前へ這い出てきた。
「お、お願いです……ノクス教団の幹部の皆様……。」
「一つだけ……一つだけお伝えしなければならないことがございます……。」
俺は視線を静かに落とした。
「何だ。」
男は喉を鳴らし、固く目を瞑りながら言った。
「フィーナ様を誘拐するよう……ガスト様へ進言し、直接裏で指揮を執っていたあの幹部ですが……。」
男は重い言葉を搾り出すように続ける。
「先ほど、神ガスト様が消滅された気配を察知すると……自ら首を括り、命を絶ちました……。」
その場に、冷ややかな静寂が落ちた。
レオンは不快そうに額の薄い汗を拭い、小さく舌打ちした。
「裁きから逃げたか。愚かな死に様だな。」
ゴルドも険しい顔つきになり、鼻を鳴らす。
「自らの犯した罪に向き合うこともできずに死ぬとはな。腹の立つ奴だ。」
俺は何も言えなかった。
どれほど激しい怒りを抱こうと、罪を問うべき相手はすでにこの世にいないのだ。空虚な感情が胸の底に重く沈む。
フィーナも静かに瞼を閉じ、呟いた。
「……そう。結局、最後まで自分勝手な人だったんだね。」
誰一人として、その言葉に返事をすることはできなかった。
戦争が終結してから数時間後。
街のギルド関係者が立ち入り、戦場の惨状の集計と後処理が始まった。
次々と担架で運ばれていく無数の遺体。
木ごとなぎ倒され、崩れ落ちた豪華な建築物。
赤く染まった美しい大理石の石畳。
圧倒的な格上を打ち破り、街の歴史を塗り替えたはずの勝利であったが、その場にいた誰もがそれを無邪気に喜ぶことなどできなかった。
夕方。長引く処理の合間を縫い、ギルド長自らが重い足取りで前線へ現れ、羊皮紙に書かれた戦果報告を読み上げた。
「今回の戦争による……双方の戦死者を報告する。」
その声は、重く、低く沈んでいた。
「豪商ガスト教団……戦死者、約四百五十名。」
「ノクス教団……戦死者、約百五十名。」
ギルド長は一度言葉を切り、苦々しく数字を口にした。
「両軍合わせた戦死者……合計、約六百名。」
そのあまりにも現実離れした惨烈な数字を聞いた瞬間、その場にいた全員が言葉を失った。
勝ったのだ。
確かに俺たちは勝った。
街第三位の巨大教団を潰し、囚われたフィーナを無事に取り戻した。
しかし、その代償として支払われたものは、あまりにも、あまりにも大きすぎた。
昨日まで笑い合い、軽口を叩き合っていた仲間が。
一緒に温かい食事を囲んでいた大切な教団員たちが。
もう百五十人も、二度と帰ってこないのだ。
フィーナは悔しそうに唇を強く噛み締め、俯いた。
「……みんな……。」
レオンも無言のまま帽子の庇を深く被り直し、表情を隠す。
ゴルドは何も言わず、ただ拳を握り締め、筋肉を浮き立たせていた。
俺もまた、胸が焼き千切られるような激痛に耐えていた。
その日の夜。
ノクス教団本部の中庭。
静まり返った広場には、百五十人分の木製の棺が、隙間なく整然と並べられていた。
一つひとつの棺の上には、誇り高きノクス教団の青い旗が丁寧に掛けられている。
暗闇の中、棺の周囲に立てられた松明の火だけが、夜風に静かに揺れていた。
教団員全員が集まっていたが、誰一人として声を上げる者はいなかった。ただ、押し殺した息遣いと不規則な鈴の音のような風の音だけが聞こえる。
やがて、本部の奥からノクスがゆっくりと前へ歩み出てきた。
勝利を収めた神。
教団の存続と勝利を支えた至高の存在。
本来であれば、祝福され、歓喜の声で迎えられるべき日だった。
しかし――ノクスの瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「……勝ったね。」
亡骸の並ぶ前で、ノクスは消え入りそうな声で小さく呟いた。
「みんなの……みんなの頑張りのおかげで……。」
その声は、激しく震えていた。
「でも……。」
ノクスは悲痛な眼差しで、静かに横たわる百五十人の棺を見渡す。
「私は……神失格だ。」
「もっと私が強ければ……。」
「もっと早く、みんなの危機に気付いてあげる力があれば……。」
「この子たちは……こんなところで死なずに済んだかもしれないのに……っ!」
ボロボロと大粒の涙が頬を伝い、泥と青い旗の上に落ちていく。
しかし、その言葉を聞いた教団員たちの誰一人として、ノクスを責めるような目を向ける者はいなかった。皆、自らの神の痛みに寄り添うように、静かに頭を垂れる。
ノクスは冷たい地面の上に膝をつき、胸の前で小さな両手を強く組んだ。
「ありがとう……。」
「頼りない私を……最後まで信じてくれて……。」
「みんなのために……最後まで戦い抜いてくれて……。」
「どうか……。」
「どうか、温かい光の中で……安らかに眠ってください……。」
ノクスの身体から、柔らかな黄金の神力が溢れ出し、中庭全体を優しく包み込んでいった。
それは戦いで荒々しく放たれた威光ではなく、亡くなった信者たちの魂を慈しみ、温かく抱き締めるような、どこまでも静かで優しい光だった。
その温もりに導かれるように、俺たちも一人、また一人と静かに膝をつき、去り行った仲間たちへ最後の祈りを捧げた。
勝利の宴が開かれることはなかった。
その夜、ノクス教団の夜空を満たしていたのは無邪気な歓声などではなく、散っていった英雄たちへの、深き哀悼と感謝の祈りだけだった。




