宣戦布告
教団本部を包む空気は、これまでになく重かった。
誰一人として笑う者はいない。
昨日までの賑やかな余韻は完全に掻き消え、重苦しい静寂だけが館内を支配していた。
食堂では朝食として用意されたスープがそのまま冷め切り、訓練場からもいつもの威勢の良い掛け声は一切聞こえてこない。
信者たちは皆、青ざめた顔で立ち尽くし、互いに視線を交わすことすら躊躇っていた。
誰もが口に出すことを恐れているが、その頭の中にある共通の思いはただ一つだけだった。
――フィーナを取り戻す。それだけだった。
ノクスは頬に伝う涙を拭うこともなく、強い決意を秘めた瞳で立ち上がる。
その華奢な肩は未だ微かに震えていたが、発せられた言葉には一切の迷いがなかった。
「ギルドへ行こう。」
その一言で、その場にいた全員の背筋に緊張が走った。
ノクスの胸中では、激しい後悔と底知れぬ激怒が渦巻いていた。
自らが『神』として掲げられながら、最も身近で自分を支えてくれた第三幹部のフィーナを守れなかったという苛立ち。
昨夜、闇に紛れて侵入してきた足音に気づけなかった己の不甲斐なさ。
信者の命と安全を守るのが神の義務であるならば、今の自分は神格を疑われても文句は言えない。
フィーナがどれほど恐ろしい思いをしているか、冷たい牢獄で怯えているのではないかを想像するだけで、視界が真っ赤に染まるような感覚に襲われていた。
俺たちはレオン、ゴルド、セリスらフィーナを除く幹部全員を連れ、急いで冒険者ギルドへ向かった。
朝の冷気が漂う街を抜け、ギルドの大扉を押し開けて足を踏み入れる。
俺としては、この状況は極めて胃が痛む事態だった。教団の財務や実務を担当する立場として計算すれば、現時点での情勢は最悪と言っていい。
フィーナという優秀な人材の損失だけでも莫大な不利益だが、もしこのまま無計画な武力衝突に発展すれば、これまで築き上げてきたノクス教団の資産、信者という名の貴重な労働力、そして今後の事業収益の全てが露と消える。
金勘定の観点から言えば、まずは情報収集と交渉、場合によっては損害賠償や裏取引での解決を模索するのが定石だ。
しかし、今のノクスにそんな冷徹な算盤弾きが通用しないことくらい、隣にいる俺が一番よく分かっていた。
カウンターの受付嬢は、俺たちの緊迫した顔を見るなり表情を曇らせた。
「ノクス様……。」
「フィーナさんの件ですよね。」
受付嬢の困惑したような、そして痛ましいものを見るような視線から察するに、どうやら、すでに街中へ彼女の拉致に関する噂が広まっているらしい。
朝のギルド内には既に多くの冒険者たちが集まっていたが、俺たちが入ってきた瞬間、ザワザワとした不穏な囁き声が広がり始めていた。
ノクスは一直線に歩み寄り、受付カウンターへ両手を激しく叩きつけるようについた。
ドン、と重い音が響き渡り、受付嬢がビクッと肩を跳ねさせる。
「質問がある。」
ノクスの声は低く、そして恐ろしいほどに冷たかった。
「昨日、フィーナを攫った連中。」
「依頼主は誰?」
受付嬢は周囲を警戒するように見回し、深く小さく息を吐いた。ギルドという組織の性質上、依頼人の守秘義務は絶対だ。
それを破ればギルドの信用は失墜し、商業的な価値を大きく損なうことになる。だが、事態は一民間のトラブルの域を超えていた。
「本来なら依頼人の情報は開示できません。」
「ですが……今回は誘拐事件です。」
「ギルド規約第五十八条により、重大犯罪に関わる場合は例外として開示が認められます。」
受付嬢は奥の資料室へ消え、一冊の分厚い皮の帳簿を抱えて戻ってきた。 羊皮紙が擦れる音が静まり返ったギルド内に響く。ページをめくり、一か所でピタリと手を止める。
「依頼主は……。」
一瞬、受付嬢の表情が引きつるように強張った。その瞳に明確な恐怖の色が浮かぶ。
「豪商ガスト教団所属。」
「幹部、ダリウスです。」
「……豪商ガスト教団?」
俺はあまり聞き覚えのない名前に思わず聞き返す。俺の脳内資産データベースを高速で検索するが、この街の複雑な勢力図の中で、ガスト教団がどれほどの規模を持つのか、即座には弾き出せなかった。
すると近くにいた冒険者たちが一斉にざわつき始めた。
「おい……。」
「まさかガスト教団か。」
「街の第三位じゃねぇか。」
「終わったな……。」
周りの冒険者たちの説明じみた呟きを聞くにつれ、俺の額から冷や汗が噴き出してきた。街の第三位。
それはつまり、この都市における巨大な権力と膨大な資金力を保有していることを意味する。
レオンの鋭い眉がぴくりと動く。
「第三位……だと。」
受付嬢は顔色を悪くしたまま静かに頷いた。
「豪商ガスト教団。」
「商業、流通、金融を牛耳る巨大教団です。」
「信者数は千二百五十名。」
「街でも有数の戦力を持ち、幹部は全員Aランク以上と言われています。」
千二百五十名。その圧倒的な数字を聞いた瞬間、同行していた教団員たちの表情が一変する。動揺と絶望が波のように広がっていく。
「千二百五十……。」
「うちは六百三十五人だぞ。」
「倍じゃねぇか……。」
戦力差は、およそ二倍。しかも相手は街の上位に君臨する巨大教団だ。
資金力、物資の備蓄、装備の質、どれをとってもこちらが不利なのは目に見えている。
商業や金融を牛耳っているということは、経済的な兵糧攻めを仕掛けられただけでも我が教団は干上がってしまう。正面から戦えば勝ち目は極めて薄い。
普通なら、まず慎重に情報を集める。あるいは他教団へ協力を求め、多額の資金や利権を担保にして根回しをする。それが事態を収拾するための定石だった。
俺の頭の中でも、いくらの損失を出せば他教団を味方に引き入れられるか、あるいはガスト教団と示談に持ち込めるかという金銭的計算が駆け巡っていた。
しかし。
ノクスは違った。彼女の頭の中には、損得勘定や合理的な戦力差などという概念は最初から存在していなかった。
「紙。」
「……え?」
「紙とペン貸して。」
受付嬢は混乱と戸惑いを隠せないまま、羊皮紙とインク入りのペンを差し出す。
ノクスは真っ白な羊皮紙を机へ広げると、一度だけ深く深呼吸をした。その呼吸は荒く、胸の奥で燃え盛る感情を必死に抑え込もうとしているようだった。
怒りで激しく震える手を反対の手で必死に押さえながら、ゆっくりと、しかし力強くペンを走らせる。
羊皮紙の上にカリカリとペン先が滑る音だけが響く。ノクスの心の中では、今この瞬間もフィーナが受けているかもしれない屈辱と恐怖への怒りが膨れ上がっていた。大切な信者を奪われ、家族を傷つけられた。
神として、人として、絶対に許すことのできない一線を踏み越えられたのだ。
書き終えたその文は、短く、それでいて決して揺るがない強い意思に満ちていた。
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宣戦布告状
豪商ガスト教団 教祖並びに幹部ダリウス殿
貴教団は、本日未明、我がノクス教団第三幹部フィーナを武力によって拉致した。
さらに、教団本部への不法侵入、信者への薬物攻撃、教団施設への威圧行為を行い、神聖なる教団の平穏を踏みにじった。
これら一連の行為は、教団間協定及び王国法に反する重大な犯罪である。
本来であれば、貴教団にはフィーナの即時返還と、関係者全員の身柄引き渡し、並びに正式な謝罪と賠償を求めるところである。
しかし、貴教団は卑劣にも第三幹部を誘拐するという、決して許されない一線を越えた。
神にとって信者とは、家族であり、命である。
その家族へ手を出した以上、もはや対話の余地はない。
ここにノクス教団は、豪商ガスト教団へ正式に宣戦を布告する。
貴教団がフィーナを無傷で返還しない限り、我々はあらゆる手段を用いて貴教団へ進軍する。
戦場に立つ覚悟があるのなら受けて立て。
信者を守るためなら、私は神として最後まで戦う。
なお、本状が貴教団へ到着した時点をもって戦争開始とする。
ノクス教団 教祖
神 ノクス
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受付嬢はそこに記された文字を読み終えた瞬間、指先がガタガタと激しく震えた。
羊皮紙を持つ手が小刻みに揺れ、顔からは完全に血の気が引いている。
「こ、こんな……。」
「ここまで明確な宣戦布告……初めて見ました……。」
遠巻きに覗き込んでいたギルド中の冒険者たちも一斉に息を呑む。
周囲のザワつきは一層激しさを増し、恐怖と興奮が混ざり合った独特の熱気がギルド内を満たしていく。
「これ……もう止まらねぇぞ。」
「本当に教団戦争になる。」
「街の勢力図はもちろん、形さえもが変わるかもしれない……。」
フロアにいる誰もがその一枚の羊皮紙から目を離せなかった。そこに書かれていたのは、単なるハタリや脅しではない。一柱の神が、自らの大切な信者を奪われた怒りそのものだった。
宣戦布告。それは教団同士の全面戦争を意味する。一度ギルドを通じて提出されれば、双方は正式な戦争状態へ突入する。ギルドの仲裁も効かなくなり、街の法も一部流血の惨事を容認せざるを得なくなるのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「本気なんですか!?」
受付嬢は悲鳴に近い震える声で叫んだ。
「相手は豪商ガスト教団ですよ!?」
「信者数千二百五十名!」
「幹部だけでも十七人!」
「街第三位の巨大教団なんです!」
受付嬢の叫びは、現実的な客観論であり、誰もが思う正論だった。
倍以上の戦力、豊富な資金力、上位幹部の層の厚さ。どれをとっても弱小教団が挑んで勝てる相手ではない。しかし、ノクスは微動だにしなかった。
むしろその瞳だけが、燃え盛る炎のように赤く眩しく輝いている。その瞳の奥には、恐怖など微塵も存在しなかった。存在するものはただ一つ、信者への愛と、それを踏みにじった者への絶対的な殺意にも似た怒りだった。
「だから?」
氷のように静かな一言だった。その短い言葉には、相手の規模や地位などどうでもいいという、絶対的な拒絶が含まれていた。
「フィーナを攫った。」
「それだけで十分。」
「私は神。」
「信者を傷付けられて黙っている神なんて、神じゃない。」
溢れ出る怒り。
底知れぬ悲しみ。
抑えきれない焦り。
その全てがぐちゃぐちゃに混ざり合い、ノクスは完全に冷静さを失っていた。普段なら周囲を気遣い、自分に自信が持てずに慎重に物事を考えるはずの彼女が、今は激しい感情だけで突っ走ろうとしている。
その姿は痛々しくもあり、同時に言葉にしがたい神性が宿っていた。
隣に立っていたレオンが抑えた声で小さく呟く。
「……まずい。」
「完全に頭へ血が上ってる。」
ゴルドも険しい表情のまま、太い腕をきつく組んだ。
「今のノクス様には、何を言っても止まらねぇ。」
俺は拳を強く握り締める。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
フィーナを今すぐにでも助け出したい気持ちは、俺だって誰よりも強い。彼女は教団の貴重な戦力であり、何より共に汗を流してきた仲間だ。
損得で考えても、フィーナを失う損失は計り知れない。だが、このまま何の策もなく突撃して戦えば。
六百三十五人対千二百五十人。
兵糧も装備も相手が上。待っているのは、奇跡の勝利ではなく壊滅かもしれない。教団が潰れれば、元も子もないのだ。
それでも。ノクスの横顔を見た瞬間、俺の中で冷徹な算盤の音が止まった。
金勘定を超えた何かが、俺の胸を強く突き動かす。神様がここまで本気で怒り、信者のために命を懸けようとしているのだ。ならば、その参謀たる俺の役目は、この無謀な戦争を『勝利』という名の黒字決済に導くことだけだ。
どれほど莫大な費用がかかろうと、どれほどリスクが高かろうと、フィーナを奪還し、ガスト教団を叩きのめすための最適解を計算し尽くすしかない。
受付嬢は震える手で宣戦布告状を正式に受け取った。彼女の手から羊皮紙が滑り落ちそうになるのを、必死で押さえつける。
「……ギルドは中立です。」
「ですので、この書状は規則に従い、豪商ガスト教団へ届けます。」
その言葉が発せられた瞬間、ギルド内の空気が完全に切り替わった。もはや引き返すことはできない。賽は投げられたのだ。
その言葉と同時に。街全体を巻き込む、教団戦争の幕が静かに上がった。




