誘拐された仲間
朝焼けの朱と紫が入り混じる薄闇の中、教団の前庭は気味悪く静まり返っていた。
冷たい早朝の風が吹き抜けるたび、正面の堅牢な扉を重々しく封じている無骨な鉄鎖が、ギィ…ギィ…と小さく悲鳴のような音を立てて軋んでいる。
俺は下腹部に深く息を落とし、静かに呼吸を整えながら、正面玄関の前にずらりと並び立つ黒衣の集団を鋭い視線で見据えた。
十人……いや、よく目を凝らせば十五人はいる。
全員が光を反射しない特殊な染料で染め上げられた一品ものの黒い外套を深く身にまとい、顔の下半分を厳重に防刃布で覆っているため、その表情や素顔を読み取ることは到底できない。しかし、その場にすっと佇む立ち姿だけで、彼らが決して街のチンピラや荒くれ者の類いではないことが一目で分かった。
限界まで鍛え抜かれた無駄のない体躯。
どんな不測の事態にも即座に対応できる、一切の隙がない低い重心。
そして彼らの腰や背中に提げられた武器もまた、一流の職人によって研ぎ澄まされた一級品ばかりだ。
どこかの裏組織に雇われた熟練の傭兵か、あるいは大貴族や暗黒街の権力者が密かに養っている私兵集団か。
いずれにせよ、昨日まで俺が相手にしていた地下賭博場の用心棒やカードゲーム店の用心棒たちとは、放っている殺気の密度も鍛錬の質も比べものにならない。
俺は足元の砂利を微かに踏み鳴らし、重厚な沈黙を破って一歩前へ出た。
「こんな朝早くに、うちへ何の用だ。」
俺の発した問いかけの言葉に対しても、黒衣の男たちはすぐには答えない。
ただ冷徹な瞳でこちらの出道を探るように沈黙を守り、やがて中央に立つ一際身幅の広い大柄な男がゆっくりと周囲を見回してから、小さく口を開いた。
「……確認する。」
地面の底から響いてくるような、抑揚のない低い声だった。
「確か、フィーナってやつを連れ去ればいいんだよな?」
その言葉を受け、大柄な男のすぐ隣に立つやや細身の男が、無言のまま静かに頷く。
「ああ。」
「依頼主からは、生け捕りで連れて来いと言われている。」
「他の連中は邪魔なら気気絶させろ。」
「抵抗したら多少傷付いても構わん、と。」
男たちが淡々と交わしたその機械的な会話を聞いた瞬間、俺の頭の中で散らばっていた疑問のピースが一気に繋がった。
奴らはフィーナを明確なターゲットとして狙っている。
しかも、誰かからの『依頼』を受けて動いているプロだ。
昨日、俺たちに莫大な金貨を分捕られて大損害を受け、二軒連続で店を営業終了に追い込まれたあの裏組織の連中以外に、こんなタイミングで教団をわざわざ鎖で封鎖してまで襲う理由など他に思い浮かびようがない。
「……やっぱりか。」
昨日の地下闘技賭博場。
そして、その後に向かったカードゲームの遊技館。
二つのお店は偶然にも同じ人物が支配人を兼任していた。あの時は頭を深く下げて大人しく金貨を払い、これで終わったかのように見えていたが、奴の内心では惨めな屈辱と怒りを抑え切れていなかったのだろう。
金での勝負やゲームのルールでは俺に逆立ちしても敵わない。
だからこそ、裏の力を使って力づくで汚い仕返しに来たのだ。
「最低だな。」
俺は腹の底から湧きあがる不快感を隠さず、静かに吐き捨てるように呟く。
「勝負に負けた腹いせで誘拐とは。」
だが、目の前の男たちは俺の侮蔑の言葉に対しても、特に怒る様子もなくただ無感情に肩をすくめるだけだった。
「依頼は依頼だ。」
「俺たちは金を貰って働いている。」
「理由なんて興味はない。」
その冷酷な言葉の終わりと同時に、十五人の男たちが示し合わせたかのように一斉に一歩ずつ前へ踏み出した。
ジャリッ、ジャリッと砂利を踏み締める重厚な音が前庭に重なり合って響き渡る。
それまで押し殺されていた生々しい殺気が、一気に風船のように爆発して膨れ上がっていく。
教団の建物の中では、まだ誰も起きていない。
昨日はアステルの稼ぎを祝うための大宴会だった。
夜遅くまで上等な肉を食べ、酒を飲み、歌い踊って騒いでいた信者たちや仲間が多い。皆、心地よい疲労感とともに泥のように深い眠りについたままだ。
今この場で動くことができ、奴らを食い止められるのは、早朝から鍛錬をしていた俺だけだった。
「だったら。」
俺は右拳を力強く握り締める。
右腕へ青い魔力を急速に巡らせていく。
さらに全身の血流に乗せて力強い気力を流し込んでいく。
神力もまた、静かに胸の奥深くで力強い循環を開始する。
三つの異なる力が身体中を満たし、研ぎ澄まされた感覚が一気に拡張されていく。
「ここは通さない。」
俺の言葉に応じるように、男たちも一斉に腰の武器へ手を掛けた。
ジャキンと鋭い金属音を立てて剣が鞘から抜かれる音。
ドスンと重く槍の石突きが地面の石を叩く音。
ギィギィと後方の射手が弓へ黒塗りの矢を番える音。
圧倒的な死闘——大規模な戦闘が始まる。
誰もがそう確信し、緊張が極限に達した、まさにその瞬間だった。
首筋の右側、皮膚の薄い部分に、ほんの小さな刺すような痛みが走る。
「……え?」
それはまるで、夏の盛りに小さな蚊にでも刺されたかのような、あまりにも取るに足らない微小な違和感だった。
俺は反射的に、右手の指先で首筋へ触れる。
指先に触れたのは、人間の髪の毛ほどに細く、短い一本の金属針だった。
「しまっ……。」
その事実を脳が理解した瞬間、視界がグラリと大きく円を描くように揺れた。
足元がまるで深い沼地に引きずり込まれるかのように、急激に重くなっていく。
「毒……か。」
いや、違う。全身を苛むような激しい痛みはない。
これは猛烈な眠気だ。
瞼がまるで分厚い鉛の板を貼り付けられたかのように重く垂れ下がってくる。
呼吸を維持し、その場に立っていることすら難しくなっていく。
「どこから……。」
俺は必死に霞む視線を巡らせ、周囲の地形を観察する。
すると、教団の巨大な建物の屋根の上。
古びた赤レンガの煙突の陰に、一人だけ黒装束に身を包んだ小柄な影が小さくしゃがみ込んでいた。
細長く黒い筒を口元へ当て、こちらを冷ややかに静かに見下ろしている。
吹き矢。
最初から正面に立ち塞がっていた十五人の刺客たちは、俺の意識を奪うための囮だったのだ。
「くそっ……!」
俺はすぐさま首筋から針を引き抜き、体内を走る気力を爆発させて薬毒に抵抗しようと試みる。
だが、薬の効き目があまりにも早すぎる。
ガクリと膝が崩れ落ち、前庭の砂利の上へと無様に倒れ込む。
視界の端から徐々に深い黒が広がり、世界を侵食し始める。
「意外と早かったな。」
暗闇へと落ちていく感覚の中で、誰かの低い声が遠く聞こえる。
「これで終わりだ。」
「フィーナだけ連れて帰れば依頼達成だ。」
ザッ、ザッ、と男たちの重い足音がこちらへと近付いてくる。
俺は残された全神経を振り絞り、必死に立ち上がろうと地面を引っ掻く。
ダメだ。
指一本、自分の意志通りに思うように動かせない。
(起きろ……。)
(動け……!)
頭の中では血を吐くような思いで叫んでいるのに、自分の身体はまるで意志を持たない他人の置物のようだった。
薄れていく意識の渦の中、最後に見えたのは、教団の扉へ向かって無情に歩き出す黒衣の集団の冷酷な背中だった。
その姿が霞んで消え、世界はゆっくりと完全な暗闇へと沈んでいく。
そして俺の意識は、完全に途切れた。
どれくらい眠っていたのだろうか。
耳の奥深くで、誰かの悲痛な叫び声が聞こえる。
「フィーナぁぁぁぁ!!」
その声は、喉を焼き切らんばかりの悲鳴にも似ていた。
深く暗い底から次第に意識が浮かび上がり、俺は鉛のように重たい瞼をゆっくりと開く。
「……っ。」
頭が割れるように激しく痛む。
焦点が結ばず、視界もぼやけて整わない。
どうやら俺は教団の正門前に、倒れたまま放置されていたらしい。
身体を起こそうと腕に力を込めると、首筋の刺された痕に鋭い痛みが走る。
「そうだ……。」
「吹き矢……。」
あの細い針。
抵抗の暇もない異常な眠気。
そして、立ち塞がった黒衣の集団。
昨日の出来事と今朝の光景が一気に頭の中で蘇った。
「まずい!」
俺は慌てて地面を蹴り、立ち上がる。
まだ薬の残効でふらつく足を必死に支えながら、破られた教団の中へ駆け込むと、そこはまさに大混乱の渦中だった。
「そっちは探したか!?」
「いません!」
「裏庭にもいません!」
「街道班は戻れ! まだ見つかってない!」
教団員たちが顔を青ざめさせながら慌ただしく廊下を走り回り、誰もが強い焦りと恐怖の表情を浮かべている。
調度品や机、椅子は倒れ、廊下の床には捜索用の地図が何枚も乱雑に広げられていた。
まるで一夜にして戦場へ変貌したかのようだ。
その混乱の中心で、一人の少女が膝を折り、床に伏して泣き叫んでいた。
「フィーナぁぁぁ!!」
ノクスだった。
いつも明るく元気に笑っている彼女とは完全に別人のように髪は乱れ、目は涙で真っ赤に充血し、肩を激しく上下させて荒く息をしている。
「どこなの!? どこへ行っちゃったの!?」
「返事してよぉ!!」
教団の廊下全体へ切々と響き渡る絶望の声。
その無防備で傷ついた姿を見た瞬間、俺の胸の奥がぎゅっと強く締め付けられた。
「ノクス。」
俺が掠れた声で声を掛けると、ノクスが弾かれたように勢いよく振り向く。
「アステル!」
次の瞬間、ノクスは床を蹴って駆け寄ってくると、俺の訓練着の胸ぐらを両手で強く掴んだ。
「フィーナは!?」
「フィーナはどこ!?」
「一緒じゃなかったの!?」
震える声だった。
俺に対する怒りではない。
大切な家族を二度と会えない場所へ失うかもしれないという、底知れない恐怖だった。
俺は苦しそうに強く唇を噛む。
「……今朝、フィーナは連れ去られた。」
その重い一言が落ちた瞬間、教団全体の空気が一瞬で凍り付く。
「何……だって?」
すぐ近くにいたレオンも信じられないというように表情を変える。
ゴルドは巨大な握り拳を激しく震わせ、セリスは思わず手にしていた槍を取り落とした。
「朝。」
「俺が訓練場で鍛錬していたら、黒衣の集団が教団を囲んでいた。」
「戦おうとした瞬間、屋根の上から吹き矢で眠らされた。」
「目を覚ました時には……。」
俺は拳を、爪が食い込むほど強く握り締める。
「フィーナはいなかった。」
ノクスはその場へ力なく崩れ落ちた。
「そんな……。」
「私が……。」
「私が昨日、浮かれて宴会なんて開かなければ……。」
誰よりも自分自身を強く責めているのが痛いほど分かった。
教団員たちもかける言葉が見つからず、何も言えない。
重苦しい、冷たい沈黙だけが廊下に流れる。
その時だった。
「アステル。」
レオンが静かに口を開く。
「相手の顔は見たか?」
「ああ。」
「十数人。」
「全員が相当鍛えられていた。」
「そして、一人がこう言っていた。」
俺は今朝耳にした冷酷な言葉を、そのまま脳裏から手繰り寄せて思い出す。
「『確か、フィーナってやつを連れ去ればいいんだよな』……って。」
その瞬間、ゴルドが近くの木製机を思い切りぶん殴った。
轟音とともに厚い木製の机が真ん中から真っ二つに割れ、破片が飛び散る。
「誘拐かよ……!」
「卑怯な真似しやがって!」
誰もゴルドの激昂に反論しなかった。
最初からフィーナだけがターゲットであり、狙いだったのだ。
金でも名誉でもない。
最初から、彼女をさらうことだけが奴らの目的だったのだ。
俺は静かに目を閉じる。
胸の奥から、今まで生きてきて感じたことのないような苛烈な感情がふつふつと込み上げてくる。
激しい怒り。
自分の甘さへの後悔。
そして、目の前で仲間を守れなかった自分自身への猛烈な苛立ち。
もしあの時、屋根の上の吹き矢に真っ先に気付いていれば。
もしあと一歩早く動けていれば。
フィーナは連れ去られずに済んだかもしれないのだ。
「……必ず助ける。」
俺は小さく呟く。
その声は静かだった。
だが、教団にいる全員の耳へ確かな意志となってはっきりと届いた。
「必ず連れ戻す。」
「どこへ連れて行かれようが。」
「誰が相手だろうが。」
「フィーナは、俺が助ける。」
その硬い決意を聞いたノクスは、涙で濡れた瞳のままゆっくりと顔を上げた。
教団中を包んでいた絶望は、少しずつ抑えきれない怒りと決意へ変わり始めていた。
フィーナ奪還のための戦いが、今まさに始まろうとしていた。




