初めての聖物との戦い
魔術教本を大切そうに革袋へ押し込むと、俺は『黒梟堂』の重たい木枠の扉を押し開けた。
カラン、と乾いた鈴の音が響き、昼の眩しい陽射しが一気に視界へ飛び込んでくる。
薄暗く埃っぽい店内に慣れていた目には、その光が網膜を刺すように眩しかった。
店の前へ出た俺は、しばらくその場から一歩も動くことができなかった。
石畳の上に足が生えてしまったかのように体が重い。革袋を両手で強く持ち直し、絞り出すように口を開く。
「……やっちまった。」
思わず漏れた声には、深い後悔と諦めが半分ずつ混ざっていた。
恐る恐る革袋を開き、薄暗い内部を覗き込む。
底には、小さく薄汚れた銅貨が十二枚、空しく転がっているだけだった。
銀貨の美しい輝きは、どこを探しても見当たらない。俺は指先を微かに震わせながら、数え直した。
「一、二、三……。」
十二枚。やはり増えてはいない。
数え直したところで金が湧いて出るはずもないのに、信じたくない現実ほど何度も確認したくなるのが人間の惨めな性だ。
「俺の全財産……銅貨十二枚か。」
財布が軽い。いや、軽いどころの話ではない。
異世界へ来てまだ一日も経っていないというのに、初期資本の九割以上をたった一回の買い物で喪失してしまった。
前世の三十七年の社会人生活を振り返ってみても、これほど無計画で破壊的な買い物をした記憶はない。
車を買ったわけでもない。マイホームのローンを組んだわけでもない。
手にしているのは、分厚い革表紙の教本がたった一冊。それだけで、俺の資本金は事実上の底をついた。
「……あの婆さん、商売が上手すぎるだろ。」
思い返せば、店に一歩足を踏み込んだ瞬間から完全に向こうのペースだった。
少しでも安く買い叩こうと値切り交渉を仕掛けた俺に対し、あの老婆は「命の価値」という絶対的なカードを突きつけてきたのだ。
――魔法がなければ稼げない。稼げなければ生きられない。
反論の余地すらない、完璧すぎるロジック。
営業職として数々の難敵と渡り合ってきたはずの俺が、言われるがまま財布の底をさらってみせたのだ。
「利用された……。」
青く澄み渡る異世界の空を見上げる。いや、違うな。利用されたというより「納得させられた」と言うべきか。
そして、そのロジックの正しさに屈してしまった自分自身が、何よりも一番悔しい。
俺だって前世では、ドケチと嘲笑われようと無駄な出費を徹底的に削ぎ落として生きてきた男だ。
不要な保険の勧誘は即座に一蹴し、値引き交渉だってそれなりに経験してきた。
それなのに、異世界での初陣とも言えるお買い物で、まんまと全財産をスられかけたのだから世話はない。
「異世界商人、恐るべし……。」
乾いた苦笑いしか出てこない。だが、ここで立ち止まって落盗の溜め息を吐いていても、胃袋が膨らむわけではないのだ。
俺は頭の中で、今後の極貧生活の損益計算を弾き始める。
宿代の相場は? パン一箇所の価格は? 飲み水はタダで手に入るのか?
銅貨十二枚で何日生きられる。分からない。圧倒的に情報が不足している。
情報がないからこそ、未知の恐怖と不安が加速度的に膨らんでいく。
その時、大通りを挟んだ向かいの屋台から、ジューシーな肉の脂が焦げる香ばしい煙が風に乗って流れてきた。
ぐぅ、と情けない音を立てて腹が鳴る。そういえば、朝から何も食べていない。
視線を向ければ、鉄板の上で煙を上げる串焼き、黄金色に焼き上がったパン、そして大鍋で煮込まれた湯気の立つスープ。
どれも美味そうだった。
だが、俺の足は一微粒子も屋台の方角へ動かなかった。
今ここで見境なく銅貨を使えば、その瞬間、俺の「異世界生存可能日数」がダイレクトに削られるからだ。
「我慢だ。」
生理的な空腹感よりも、資産が目減りすることへの恐怖が勝る。我ながら面倒な性分だと思う。
それでも、この徹底した「ケチ」の精神があったからこそ、前世の俺は過酷な社会人生活の中で十分な貯金を作ることができたのだ。
無駄遣いはしない。対価に見合う「投資」にのみ、金を張る。
その考え方は、この世界へ来ても何一つ変わらない。
俺は革袋の口を、これ以上解けないほど固く縛り直した。
「いや……必要経費だった。」
教本がなければ魔法は使えなかった。
魔法がなければ魔物を倒せない。
魔物を倒せなければ冒険者になれない。
冒険者になれなければ収入はない。
つまり、あの銀貨八枚という出費は、ドブに捨てた金ではない。投資だ。未来への投資だ。
そうやって思考を合理化させると、胸の奥を締め付けていた圧迫感が少しだけ和らいだ。
「稼げばいい。」
答えは極めてシンプルだった。失った資本は、市場から力ずくで回収すればいい。
日本でもそうやって生きてきた。この世界でも同じだ。
ただ、その稼ぎ方が少し違うだけ。
会社ではなく森へ行き、書類ではなく魔物を相手にする。それだけの話だ。
俺はゆっくりと東の門へ向かって歩き始めた。
石畳の道を抜けるたびに街の喧騒は少しずつ遠ざかり、代わりに木々のざわめきと鳥の鳴き声が耳へ届くようになる。
受付嬢が教えてくれた東の森。
そこにはレベル二の聖物『ブック』が生息している。
俺にとって初めての実戦。
そして、異世界で初めて自分の力だけで金を稼ぐための第一歩でもあった。
「よし。」
革袋を握る手にぐっと力を込める。
「まずは五個の魔石だ。」
そう呟き、俺は未知の森へ向かって一歩を踏み出した。
舗装された街道を二十分ほど歩くと、日光を遮るように巨大な樹木が生い茂る森が姿を現す。
入口には古びた木製の看板が立っていた。
『東の森 推奨レベル2~10』
「ちょうどいいな。」
深呼吸を一つ挟み、森の中へ足を踏み入れる。
木漏れ日が差し込み、小鳥の鳴き声が響き、風が木々を揺らしている。
一見すると平和な森林だが、いつどこから魔物や聖物が奇襲を仕掛けてきてもおかしくない。
俺は右手に意識を向け、体内の魔力を循環させながら慎重に歩を進めた。
すると――。
パラ……。
静寂の隙間を縫って、乾燥した羊皮紙を一枚めくるような、カサついた乾いた音が聞こえた。
「……?」
音の発生源を探し、視線を上空へ向ける。
木の枝と枝の間を、一冊の本がふわふわと飛んでいた。
鮮やかな赤い革表紙。翼もないのに重力を完全に無視して空中を漂っている。
「……あれか。」
ブック。
受付嬢が言っていたレベル2の聖物。
敵意はないらしく、ただ無心に空中を漂っており、こちらには気付いていない。
頭の中に半透明の画面が静かに浮かび上がる。
────────────
ブック
Lv.2
種族:聖物
危険度:★☆☆☆☆
特徴:本なのにページで斬ってくる。
弱点:火属性
────────────
「ゲームじゃん……。」
あまりのシステム感に思わず呟いてしまう。
「まずは一体。」
俺は深く息を吐き出す。頭の中で魔術書の知識を呼び覚ます。
胸の奥にある熱の源泉から右腕へ魔力を集中させる。掌がじわじわと熱を帯びていく。
「ファイアボール。」
ボッ。
握り拳ほどの大きさの火球が生まれ、直線軌道を描いて飛んでいく。
ーーーーーーーーーー
消費MP:5
残りMP:95/100
ーーーーーーーーーー
「ちゃんとMPまであるのか。」
感心したのも束の間。
ヒュン。
ブックは紙特有の質量を感じさせない動きで身体をひねり、火球をひらりと回避してみせた。
「えっ?」
次の瞬間。
バサァッ!!
本が勢いよく見開きに開き、不気味な古代文字が刻まれた羊皮紙のページが、何枚も飛び出してきた。
「うおっ!」
慌てて泥の中へ身を伏せる。
ヒュンヒュンッと空気を裂く切烈な音が頭上をすり抜け、ページは刃物のように背後の大木へ突き刺さった。分厚い樹皮がザックリと切り裂かれ、白い木屑が弾け飛ぶ。
「危なっ……!」
「本のくせに読ませる気ゼロじゃねぇか!」
温厚なんじゃなかったのか。
攻撃を仕掛けた途端、殺意全開で反撃してくるじゃないか。
俺は木の陰へ隠れながら乱れた呼吸を整える。
「落ち着け……。」
相手のレベルは2。俺はレベル1。ブックのレベルは俺の2倍だ。
だが、火属性という明確な弱点は判明している。魔法なら確実に通じるはずだ。
ブックが低空を滑るように、ゆっくり近付いてくる。
パラ……パラ……と紙が擦れる音が背後まで迫る。
今だ。
木陰から一気に飛び出し、右手を突き出す。
「ファイアボール!」
火球が飛ぶ。今度は絶対に避けられない超近接距離。
ドゴッ!!
火球が表紙へダイレクトに激突し、本が激しく衝撃で揺れた。
「効いた!」
その隙にもう一発。
「ファイアボール!」
再び命中。激しい炎が羊皮紙のページへ燃え移り、ブックは煙を上げながら空中でふらつく。
最後にもう一撃、ダメ押しの火球を放つと、本は炭のように燃え尽き、光の粒子となって散っていった。
あとに残されたのは、泥の上にぽつんと転がる、拳大の淡い白色の石だった。
「これが……聖石か。」
拾い上げると、ほんのり温かい。削り出された宝石のように綺麗だ。
その瞬間。
体の奥から、温かな熱が爆発するように込み上げた。
固くなっていた筋肉がわずかに軽くなる。視界のコントラストが明確になり、世界の解像度が上がった気がする。
『レベル2』
頭の中へ、そんな文字が浮かんだ。
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LEVEL UP!
Lv.1 → Lv.2
HP 100→110
MP 100→115
筋力 10→12
敏捷 11→13
魔力 18→22
スキル熟練度
・火球魔法 Lv1
==========
「レベルアップ……。」
思わず笑みがこぼれる。努力が即座に数値となって還元される感覚。
だが、喜んでいる暇はなかった。
正式な冒険者になるには聖石が五個必要。
俺は革袋へ聖石をしまい、再び森の奥へ歩き始めた。
パラ……。
パラ……パラ……。
静まり返っていた森の中へ、再び紙をめくる乾いた音が響き渡る。
さっきまでとは違う。一冊だけではない。
音が幾つも重なり合い、あちこちの木々の間から聞こえてきていた。
この方向へ咄嗟に俺はゆっくりと振り返る。
すると、木漏れ日の中を一冊のブックがふわりと姿を現した。
赤い革表紙を揺らしながら、ゆっくりと空中を漂っている。
「また一冊か。」
そう呟いた次の瞬間だった。
別の木の陰から、もう一冊。
さらに反対側から、もう一冊。
合計三体のブックが俺を囲むように空中を旋回し、そのページをゆっくりとめくり始めていた。
先ほどまで敵意を感じなかった表紙の『瞳』のような紋様も、今は明らかに俺だけを見据えて不気味に光っている。
「今度はまとめてか。」
普通なら逃げる場面なのかもしれない。
だが、不思議と恐怖より先に笑みが浮かんできた。
たった今レベルが上がったばかりだ。
体は軽く、魔力もさっきより力強く太く流れている。
それに俺には、この世界で試したいことが山ほどあった。
「ちょうどいい。」
「魔法の練習相手になってもらう。」
右足を半歩引き、腰を落として低く構える。
教本から流れ込んだ知識を思い返しながら、体の中心にある魔力をゆっくり右腕へ集めていく。
温かな流れが腕を通って掌へ集まる感覚は、もう最初ほどぎこちなくはない。
少しだけ滑らかになっている。
これがレベルアップの効果なのか、それとも一戦経験したことによる慣れなのかは分からない。
だが、確実に扱いやすくなっていた。
「ファイアボール!」
掌から放たれた火球が一直線に飛び、一番手前を飛んでいたブックへ激突する。
ドォンッ!
炎が大きく弾け、本の表紙を黒く焦がした。
ブックは悲鳴を上げるようにページを激しくめくりながら大きく体勢を崩す。
「よし!」
しかし喜ぶ暇はなかった。
残る二冊がほぼ同時にページを勢いよく開き、鋭い音を響かせながら無数の紙を飛ばしてくる。
ヒュンッ!
ヒュンヒュンッ!
空気を裂く音が耳元をかすめ、白い紙の刃が一直線に迫ってきた。
「くっ!」
俺は反射的に地面を蹴り、横へ大きく飛び込む。
転がるように回避した直後、さっきまで立っていた場所へ紙の刃が突き刺さった。
ドスッ!
ドスドスッ!
後ろに立っていた大木へ深々と突き刺さり、分厚い樹皮を簡単に切り裂いている。
「あれに当たったら洒落にならないな……。」
思わず冷や汗が流れる。
本だからと甘く見ていたら、本当に命を落としかねない。
俺は近くの木を盾にしながら荒くなった呼吸を整え、再び体内の魔力へ意識を集中させた。
すると視界の端へ半透明の表示が浮かび上がる。
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MP 63/115
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「もう半分近く使ったのか。」
初級魔法とはいえ、連発すれば魔力は確実に減っていく。
ゲームのように無限に撃てるわけではない。
それに魔力が減るたび、体の奥から少しずつ力が抜けていく感覚まである。
魔力切れになれば、もう戦えないだろう。
「だったら。」
「一発一発を確実に当てるしかない。」
俺は深呼吸を一つすると、相手の動きをじっと観察し始めた。
ブックは攻撃する瞬間、必ず大きくページを開く。
そしてページを飛ばした直後、一瞬だけ動きが止まる。
あそこだ。あの僅かな隙しかない。
ブックが再びページを開いた。
「今だ!」
木陰から飛び出し、右手を突き出す。
「ファイアボール!」
放たれた火球は開かれたページの隙間へ吸い込まれるように飛び込み、そのまま内部で炸裂した。
ボォンッ!
炎に包まれたブックは空中で大きく震え、そのまま光となって消滅する。
「あと二体!」
止まらない。俺はすぐに体を反転させ、次の標的へ狙いを定める。
ブックも危険を察知したのか、大きく旋回して距離を取ろうとする。
しかし遅い。
「ファイアボール!」
二発目の火球が表紙へ直撃し、燃え上がったブックは断末魔のようにページを散らしながら消えていった。
残る一冊。
最後のブックは仲間を失ったことで警戒したのか、高く上空へ逃げ始める。
「逃がすか!」
俺は魔力を極限まで右手へ集中させる。
今までより密度の高い熱が掌へ集まり、火球は一回り大きく膨れ上がっていく。
魔力操作の感覚も、さっきよりずっと自然だった。
「いけぇぇっ!」
放たれた火球は一直線に空を駆け抜け、逃げるブックへ正確に命中した。
ドゴォォンッ!
激しい爆発音とともに炎が咲き、最後のブックも光の粒となって消えていく。
静寂が戻った森には、三つの淡く輝く聖石だけが転がっていた。
「勝った……。」
荒い息を吐きながら一つずつ拾い上げる。その瞬間だった。
体の奥から熱が一気に噴き上がり、全身へ力が巡っていく。
『レベル3』
『レベル4』
『レベル5』
頭の中へ次々と文字が浮かび、能力が急激に成長していく感覚が全身を駆け抜ける。
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スキル習得
《魔力操作 Lv.1》
魔力制御が少し上達しました。
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「一気に上がった……。」
握った拳へ自然と力が入り、体はさっきまでとは比べものにならないほど軽い。
魔力の流れも滑らかになり、指先まで思い通りに動いているのが分かった。
これなら、もっと強い相手とも戦えるかもしれない。
正式な冒険者になるための聖石も、これで四つ。
残りはあと一つだけだ。
俺は革袋へ聖石を大切にしまい込み、胸の高鳴りを抑えながら、さらに森の奥深くへ向かって歩き始めた。
それから数時間、俺は東の森を歩き回りながら、目に入るブックを片っ端から倒し続けていた。
森へ入ったばかりの頃は、ページを飛ばされるたびに慌てて身を伏せ、魔法を一発放つだけでも肩で息をするほど緊張していたというのに、戦闘を繰り返すうちに体は少しずつ戦いというものを覚え始めていた。
「ファイアボール!」
掌から放たれた火球が一直線に飛び、木の枝へ逃げようとしていたブックへ命中すると、革表紙は炎に包まれ、光の粒となって静かに消えていく。
その光景にも、もう驚くことはない。
最初は魔法を放つたびに頭の中で教本の内容を一つひとつ思い出していたが、今では考えるより先に体が動き、魔力を集めて火球を作り出せるようになっていた。
戦いとは、経験そのものが力になるのだと、この世界は俺へ教えてくれているようだった。
ブックの攻撃にも、少しずつ癖があることが分かってきた。
攻撃する直前には必ず大きくページを開き、その一瞬だけ動きが鈍くなる。
飛ばしてくるページは一直線にしか飛ばず、一度放てば次の攻撃までわずかな隙が生まれる。
最初は恐怖しか感じなかった攻撃も、仕組みさえ理解してしまえば対処は難しくない。
俺は木を盾にして攻撃をやり過ごし、その隙へ火球を撃ち込むという戦法を何度も繰り返した。
火しか使えない俺にとって、真正面から力比べをする余裕などない。
だからこそ相手を観察し、最も安全で、最も魔力を節約できる戦い方を選ぶしかなかった。
その積み重ねが、少しずつ成果となって現れ始める。
五体目を倒した頃には、一体につき二発必要だったファイアボールが一発で仕留められるようになり、余計な魔力を使わずに済むようになっていた。
八体目を倒した頃には、森の中を歩くだけでブックの気配が何となく分かるようになり、先に待ち伏せして奇襲を仕掛ける余裕まで生まれてくる。
十体目を倒した頃には、火球を生み出す速度が目に見えて速くなり、詠唱を口にする頃には、すでに掌の上へ炎が集まり始めていた。
もしかすると、詠唱は絶対に必要なものではなく、魔法を安定させるための補助なのかもしれない。
そんな仮説まで考える余裕が生まれていた。
戦えば戦うほど、魔力は俺の体へ馴染んでいく。
初めて教本へ魔力を流し込んだ時には異物のように感じていた力も、今では血液を流すのと同じくらい自然な感覚になっていた。
十五体目のブックを倒した瞬間、体の奥から熱がこみ上げ、頭の中へ文字が浮かび上がる。
『レベル8』
さらに戦闘を重ね、十八体目を倒したところで再び体が軽くなった。
『レベル9』
視界はさらに鮮明になり、遠くを飛ぶブックの姿まで見分けられるようになる。
呼吸も乱れず、足取りも軽い。まるで別人の体になったような感覚だった。
そして――。
二十体目のブックを見つけた時には、もはや焦りはなかった。
ブックがこちらへ気付く。ページを開く。
その瞬間には、俺の右手へ炎が集まり始めている。
「ファイアボール。」
今までで最も速く、最も安定した火球が放たれた。
轟音とともに炎が弾け、ブックは反撃する暇すらなく光へ変わって消滅する。
地面へ転がった二十個目の聖石を拾い上げた瞬間、今までとは比べものにならないほど強烈な熱が全身を駆け巡った。
骨が軋み、筋肉が震え、全身へ新しい力が流れ込んでくる。
思わず目を閉じるほどの変化だった。
『レベル10』
頭の中へ表示が切り替わる。
==========
LEVEL UP!
Lv.9 → Lv.10
HP 260
MP 310
筋力 35
敏捷 37
魔力 58
職業選択可能
==========
「おっ……。」
思わず声が漏れる。
そういえば受付嬢が、レベル十になると職業を選べると言っていた。
ようやくそこまで来たのか。
「街へ戻ったら祭壇へ行ってみるか。」
拳を軽く握るだけで、体中へ力が満ちあふれているのが分かる。
魔力の総量は比べものにならないほど増え、火球も以前より密度が高くなっている気がした。
「これが……レベル十か。」
俺は空を見上げ、小さく笑みを浮かべる。
転生してから、まだ一日も経っていない。
朝までは右も左も分からない異世界だったのに、今では魔法を使い、聖物を倒し、自分の力で生き抜いている。
まだまだ弱い。
それでも、この世界ならやっていけるかもしれない。
そんな確かな手応えが胸の奥で静かに芽生えていた。
革袋を開くと、中には二十個もの聖石が淡い光を放ちながら転がっている。
正式登録に必要なのは五個だけだが、ここまで苦労して手に入れた成果を置いていく理由はない。
全部持ち帰り、売れるものは売り、少しでも資金へ換える。
そんな現実的な考えが真っ先に浮かぶあたり、自分らしいなと苦笑しながら、俺は夕日に赤く染まり始めた東の森を後にし、街への帰路をゆっくりと歩き始めた。
ギルドへ足を踏み入れると、昼間に対応してくれた受付嬢が俺の姿に気付き、ぱっと表情を明るくした。
「お帰りなさいませ。ずいぶん早いお戻りですね。」
その笑顔は、まだ聖石を五個ほど持ち帰った新人を迎えるような、穏やかなものだった。
「ああ、依頼の……いや、登録に必要な聖石を持ってきた。」
俺は革袋を受付カウンターの上へ置き、口紐をほどく。
すると、袋の中から白く淡い光を放つ聖石が、ごろり、ごろりと音を立てて転がり出た。
受付嬢は最初こそ笑顔のままだったが、次々と現れる聖石を見て、その表情がみるみる固まっていく。
「え……?」
目をぱちぱちと瞬かせ、小さく首を傾げる。
「こ、こんなに……?」
俺は肩をすくめながら答えた。
「全部今日の分だ。」
「きょ、今日だけで……ですか?」
受付嬢は思わず身を乗り出し、信じられないものを見るように聖石と俺の顔を何度も見比べた。
長い睫毛が震え、淡い茶色の瞳が大きく見開かれる。
驚きのあまり口元が少し開いたまま固まっている姿は、思わず見惚れてしまうほど愛らしかった。
「す、少々お待ちください!」
受付嬢は慌てて奥へ駆け込み、年配の男性職員を連れて戻ってきた。
男性職員は一つひとつ聖石を手に取り、傷や魔力の残滓を丁寧に確認していく。
「……間違いありません。すべて本日討伐された《ブック》の聖石です。」
その言葉を聞いた受付嬢は、ほっと胸を撫で下ろしたあと、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「確認が取れました。アステル様、おめでとうございます。本日をもちまして、正式に冒険者として登録いたします。」
そう言って彼女は奥から一枚の金属製カードを取り出し、両手で丁寧に差し出してくる。
銀色に輝くそのカードには、俺の名前と登録番号、そして『Fランク冒険者』の文字が刻まれていた。
俺は思わず息を呑む。
異世界へ来て初めて、自分がこの世界の住人として認められた瞬間だった。
「それと、登録に必要なのは聖石五個だけですので、残り十五個はギルドで買い取ることもできますが、いかがなさいますか?」
「もちろん売る。」
今の俺の財布はほとんど空っぽだ。聖石を抱えていても飯は食えない。
受付嬢は小さく頷くと、計算盤のような道具で素早く金額を弾き出した。
「《ブック》の聖石は一個につき銀貨一枚で買い取っております。十五個ですので、銀貨十五枚になります。」
「そんなにもらえるのか?」
思わず声が漏れた。
魔法教本を買ったせいで銅貨しか残っていなかった俺にとって、銀貨十五枚は大金だった。
「はい。聖石は魔道具の素材になりますので、需要が高いんです。」
受付嬢はそう説明すると、小さな革袋を持ってきて、銀貨を一枚ずつ丁寧に入れていく。
ちゃりん、ちゃりん、と心地よい音が響くたび、俺の頬も自然と緩んでいった。
「こちらが代金になります。」
受け取った革袋はずっしりと重い。
さっきまで銅貨十二枚しかなかった俺の財産は、一気に銀貨十五枚と銅貨十二枚になった。
「ありがとうございます。」
「こちらこそ、本日はご利用ありがとうございました。」
受付嬢はにこりと微笑み、最後に小さく頭を下げた。
こうして俺は、正式な冒険者の資格と、異世界で生き抜くための最初の資金を手に入れたのだった。




