商売上手な教本屋のお婆さん。
朝日が木枠の窓から差し込み、柔らかな光が部屋の床を黄金色に染めていた。
鳥のさえずりに混じって、外から人々の話し声や馬 車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。
夢ではない。そう確信できたのは、鼻をくすぐる焼きたてのパンの香りだった。
日本で毎朝嗅いでいたコンビニのコーヒーの匂いとは違う。薪で焼かれたパンと、煮込み料理のような香ばしい匂いが食欲を刺激する。
ゆっくりと着替えを整え、一階の食堂へ降りる。
食堂では数人の旅人が朝食を取っていた。
革鎧を着た青年が大きな肉を頬張り、その隣では長い耳を持つ少女が静かにスープを口へ運んでいる。
宿の主人が俺に気付き、丸太のような太い腕を大きく振る。昨夜、街道で倒れていた俺を助けてくれた髭面の主人だ。
「おう! もう出発するのか?」
「ええ。まずは、この街を見て回ろうと思います」
「おお、無理はするなよ?また倒れたら困るだろ?」
主人は豪快に笑うと、カウンターの下から古びた羊 皮紙を取り出し、机の上へ広げた。手描きらしい地図には、街を囲む城壁や広場、いくつもの建物が丁寧に描かれている。
「ここがこの宿だ。大通りを真っすぐ歩けば噴水広場がある。その左手に、剣と盾の看板を掲げた大きな建物が見えるはずだ」
「そこが冒険者ギルドですか」
「そうだ。この街で仕事を探すなら、まずはそこへ行くといい」
俺は地図の配置を頭に叩き込み、深く頭を下げた。
「助かります」
主人は少し真面目な顔になり、俺の腰元に視線を落とした。
「そういや、路銀は残ってるのか?」
俺は革袋を開き、中身を確かめる。
銀貨が八枚。銅貨が十二枚。
この世界の物価も正確な価値もまだ分からない。だが、手にした硬貨の重みからして、決して大金ではないことだけは何となく理解できた。
異世界で無一文になれば、生きることすら難しいだろう。俺は自然と革袋の口を固く縛り直した。
「少しだけあります」
「なら安心だ」
主人は再び豪快に笑う。
「無駄遣いだけはするなよ。この街は便利だからな。財布の紐が緩むと、あっという間に空っぽになる」
その言葉に、俺は思わず苦笑した。
「それだけは大丈夫です」
前世でも無駄遣いだけはしなかった。命をケチって死んだのは痛恨の極みだが、無計画に金を散財しないという根底の性格まで変えるつもりはない。
宿を出ると、朝の空気は驚くほど澄んでいた。
胸いっぱいに吸い込むと、草木の香りと土の匂いが混ざり合い、日本では味わえなかった自然の息吹を感じる。
目の前には石畳の大通りが真っすぐ続き、その両脇には木と石で造られた建物が整然と並んでいた。
店先では焼きたてのパンが湯気を立て、果物屋には見たこともない紫色の果実が山積みにされている。遠くでは鍛冶屋が鉄を打つ甲高い音を響かせ、その火花が朝日に照らされて美しく舞っていた。
荷馬車がゆっくりと通り過ぎる。その後ろを、小柄な獣人の子どもたちが笑いながら駆け抜けていく。
さらに視線を向けると、背中に大剣を背負った男、白い法衣をまとった神官らしき女性、長い耳を持つエルフらしい青年が、当たり前のように同じ道を歩いていた。
ドット絵でもCGでもない。彼らは息をし、笑い、会話を交わし、この世界で生きている。
その事実に胸が震えた。
「……本当に異世界なんだな」
思わず空を見上げる。雲ひとつない青空。ゆっくりと流れる風。
日本では決して見ることのなかった巨大な翼を持つ鳥が、城壁の向こうを悠然と飛んでいた。
俺の知る常識は、この世界では何一つ通用しないのかもしれない。
そう思うと、不安よりも期待のほうが大きかった。
この世界には、どんな人々がいて、どんな神がいて、どんな運命が待っているのだろう。
その答えを知るためにも、俺は冒険者ギルドへ向かって歩き始めた。
しばらく石畳の大通りを歩いていると、一際大きな石造りの建物が目に入った。
入口の上には、交差した剣と盾の紋章。その下には大きく刻まれた文字がある。
――『冒険者ギルド』。
「ここか」
思わず息をのむ。ゲームやライトノベルで何度も見てきた場所。だが目の前にあるのは、人々が出入りし、仕事を探している本物の冒険者ギルドだった。
俺は軽く深呼吸し、重い木の扉を押し開ける。
ガヤガヤという喧騒が一気に押し寄せてきた。
中は酒場と役所を足して二で割ったような広大な空間だった。朝だというのに、多くの冒険者たちが壁に貼られた依頼書の前で腕を組み、真剣な表情で仕事を選んでいる。
奥では鎧姿の男たちが酒を飲みながら大笑いし、別の席ではローブ姿の女性が地図を広げて仲間と作戦を立てていた。
鉄と革の匂い。木製の机を叩く音。誰かの笑い声。全てが混ざり合い、この場所が冒険者たちの生活の中心なのだと伝わってくる。
「いらっしゃいませ」
受付に並ぶ数人の女性のうち、一人が柔らかな笑みを浮かべた。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「冒険者登録をしたいんですが」
「かしこまりました。仮登録証はお持ちですか?」
俺は革袋から木札を取り出して差し出す。受付嬢は確認すると、小さく頷いた。
「こちらは仮登録証ですね。それでは正式登録についてご説明いたします。正式な冒険者になるには、戦闘能力を証明していただく必要があります。魔物・聖物・武物のいずれかから採取した魔石を五個提出してください」
「五個?」
「はい。自力で討伐した証明として必要になります」
「つまり、五体倒せばいいんですね」
「その認識で問題ありません」
筆記試験や面接ではないらしい。完全な実力主義だ。
しかし、聞き慣れない言葉が混ざっていた。
「魔物は分かりますけど……聖物と武物って何です?」
「あら、田舎からの旅人ですか?解説しますね。
世界には三種類の魔力生命が存在します。魔力から生まれた魔物。神力から生まれた聖物。気から生まれた武物です」
なるほど、モンスターにも発生源による種類があるらしい。
「ギルド正式登録後は依頼の受注、ランク昇格などが可能になります」
いきなり強い相手に挑んで死ぬのは御免だ。前世で自分の命をケチって落とした教訓が、ここで強く疼く。俺は素直に尋ねた。
「一番弱くて、比較敵倒しやすい相手って何ですか?」
受付嬢は少し考えると、手元の地図を広げた。
「街の東にある森でしたら、レベル2の聖物『ブック』が生息しています。この聖物は初心者の方がよく挑まれます。普段は温厚ですが、刺激すると反撃しますので注意してください」
「レベル2……」
今の俺でも勝てるだろうか。いや、そもそも戦えるのか?
そんな当たり前の疑問が頭に浮かぶ。受付嬢も同じことを思ったのか、不思議そうに尋ねてきた。
「失礼ですが……武器や魔法は扱えますか?」
俺は固まった。
武器? 魔法?
考えてみれば、一度も試していない。異世界へ来たからといって、勝手にスキルが生えてくる保証などどこにもないのだ。
「……正直、分かりません。使えるかどうかも試していません」
受付嬢は目を丸くした。
「それでしたら、先に魔法の教本を購入されることをおすすめします。初級魔法なら、教本を読むことで習得できる方がほとんどですよ」
ゲームで言うスキルブックのようなものか。だが、次の一言で俺の表情は完全に固まった。
「ただ……教本は非常に高価ですよ。」
その瞬間、財布の中の銀貨が頭に浮かんだ。銀貨八枚。
ここで全部使うようなことになったら、この先の生活はどうする? 武器も食費も宿代も必要になる。
俺は思わず革袋をぎゅっと握りしめた。
(できれば買いたくない……!)
だが、魔法を覚えなければ魔石は集められない。魔石がなければ冒険者になれない。冒険者になれなければ収入はゼロ。
つまり――これは浪費ではない。稼ぐための投資だ。
前世の自分は、命を守るための投資すらケチって死んだ。その愚を二度と繰り返してなるものか。俺は小さく息を吐いた。
「……仕方ない。その教本屋、どこにありますか?」
受付嬢は微笑み、地図の一角を指差した。
「大通りを西へ進んだ先にある『教本屋』です。この街で最も品揃えが豊富なお店ですよ」
俺は革袋を握り直し、できることなら一冊でも安く買えないものかと考えながら、教本屋へ向かうことにした。
受付嬢に教えられた場所を頼りに大通りを外れ、細い路地へ入る。さっきまでの賑わいが嘘のように人通りはほとんどない。
建物同士が肩を寄せ合うように並び、昼間だというのに日差しは差し込まず、どこか薄暗い雰囲気が漂っていた。
「本当にこんな場所に店があるのか?」
不安になりながら歩いていると、路地の突き当たりに一軒だけ古びた建物が姿を現した。色あせた木製の看板には、かろうじて文字が読める。
――『教本専門店 黒梟堂』。
「……ここか」
店全体から妙な圧迫感を感じる。窓ガラスは煤け、ショーウィンドウも真っ黒で中が見えない。
(絶対に普通の店じゃないだろ……)
それでも魔法を覚えなければ冒険者にはなれない。覚悟を決め、重たい木の扉を押し開けた。
カラン――。
鈴の音だけが静かな店内へ響く。
壁という壁が天井まで届く本棚になっており、分厚い革表紙の教本が隙間なく並んでいた。古びた羊皮紙の匂い、乾いたインクの香り、薬草のような独特な臭いが混ざり合っている。
「へぇい……坊や、いらっしゃい……」
店の奥からしゃがれた声が聞こえた。ゆっくりと姿を現したのは、小柄な老婆だった。
背中は弓なりに曲がり、真っ黒なローブを羽織っている。腰まで伸びた白髪を一本に束ね、皺だらけの口元には不気味な笑みが浮かんでいた。だが、獲物を狙う猛獣のように鋭い瞳だけが、俺の全てを見透かしているようだった。
「初めて見る顔だねぇ。旅人かい?」
「ええ。魔法の教本を探していて……」
「ほぉ?」
老婆は杖をつきながら近づいてくると、頭の先から足先までじろじろと眺め始めた。視線が妙に居心地悪い。まるで値踏みされているようだった。
「坊や……まだ魔法を一つも覚えちゃいないね」
「え? 分かるんですか?」
老婆は喉の奥で笑った。
「クックック……三百年も教本を売ってりゃ、嫌でも分かるようになるさ」
「三百年!?」
本気で言っているのか。それとも長寿の種族なのか。判断がつかない俺をよそに、老婆は棚から一冊の分厚い教本を取り出した。黒い革表紙に、銀色の文字で大きく刻まれている。
『初級魔法教本』。
「初心者なら、まずはこれ一冊で十分さ」
受け取ると、ずっしりとした重みが手に伝わる。ページを開くと、火、水、風、土、さらに生活魔法や簡単な治癒魔法まで、びっしりと図解付きで書かれていた。
「ちなみに……これ、おいくらですか?」
老婆は一切迷うことなく答えた。
「一冊、銀貨十枚」
「……はい?」
「銀貨十枚だよ」
高い。高すぎる。俺の今の全財産は銀貨八枚と銅貨十二枚だ。
(ヤベェ.....足りねぇ……!)
異世界に来て一日目で破産なんて笑えない。
そんな俺の狼狽を見抜き、老婆がニヤリと笑った。
「高いと思うかい?」
「思いますよ! 初心者向けで銀貨十枚って、高すぎませんか!」
「なら買わなきゃいい。その代わり、魔法も覚えず森へ行って、聖物に返り討ちにされるだけさ」
「ぐっ……」
痛いところを突かれた。受付嬢も同じことを言っていた。これは贅沢品ではなく、生き残るための必需品なのだ。
それでも簡単には諦められない。前世で培った値切り交渉の血が騒ぐぜ。
「銀貨五枚でどうです?」
「九枚」
「いきなり半額は無理でしたか。じゃあ六枚」
「九枚」
「七枚でどうでしょう!!」
「八枚」
(下がった!もう少し。)
「七枚と銅貨十二枚!」
「八枚」
「七枚半!」
「半枚なんてないよ」
老婆は肩を揺らして笑う。完全に遊ばれていた。
「……商売上手ですね」
「三百年やってりゃ、値切り方も値切られ方も覚えるもんさ」
300年?冗談なのか本当なのかの区別がつかない。
老婆は湯気の立つ茶を一口すすり、真剣な顔になった。
「坊や。金は大事だ。誰よりも大事さ。だがね、生きてる者しか金は使えないんだよ」
静かな声だった。さっきまでの不気味な笑みは消えている。
「この教本一冊あれば魔法を覚えられる。魔物を倒せる。依頼を受けられる。金を稼げる。逆に魔法がなければ、財布の中に銀貨百枚あっても森で死ぬだけだ。これは本じゃない。命を買うための教本さ」
その一言が、前世で命をケチって死んだ俺の胸に強烈に刺さった。
節約は大切だ。だが、自分の命と未来への投資まで惜しむのは、ただの愚か者だ。
俺は深く息を吐いた。
「……分かりました。買います。八枚ですね」
「いいのかい?」
「ただし、条件があります。教本を売るだけじゃなく、使い方まで教えてください」
老婆は目を細め、じっと俺を見つめた。
「普通なら講習料を取るところだけどねぇ……クックック! 面白い坊やだ。いいだろう、今日だけはサービスしてやる」
俺は革袋をそっと机の上へ置いた。異世界で手にした全財産が、静かな音を立てて木の机の上へ転がった。
銀貨を一枚ずつ机の上へと並べていく。
カチリと乾いた音が、静かな店内へと響き渡る。
一枚置くたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛む。銀貨一枚で何日暮らせるのかもまだ分からない。未知の世界だからこそ、その一枚の価値は重く感じられた。
それでも俺は手を止めなかった。
七枚目の銀貨を置き、そして最後の八枚目を置く。
革袋を逆さにしても、残っていたのはわずか銅貨十二枚だけだった。急に軽くなった革袋を見て、ため息が漏れる。
「……これで全財産か」
「毎度あり」
老婆は銀貨を手際よく回収し、満足そうに目を細めた。
「さて、魔法教本は文字を読むための本じゃないんだよ」
「え?」
「知識だけ詰めても魔法は使えやしない。料理の本を読んでも包丁は上手くならないだろう? 実際に手を動かして体に叩き込むんだよ。……胸に当ててごらん」
言われるままに教本を両手で抱え、胸へと押し当てる。
「目を閉じな。自分の体の奥を探るんだ」
ゆっくりと息を吐き、意識を内側へと向けていく。
体の奥を意識した、その瞬間だった。
胸のさらに奥、心臓の近くに温かな何かが灯る。熱いわけでも痛いわけでもなく、ただ優しい温もり。まるで春の日差しのように、静かに広がっていく感覚だ。
「それが魔力さ。その流れを教本へと流し込むんだよ」
意識すると、その温もりが腕を伝い、教本へと滑らかに吸い込まれていった。
すると教本のページが勝手にめくれ始める。淡い青白い光が全体を包み込み、文字が浮かび上がった。
「なっ……!?」
驚く間もなく、次の瞬間、頭の中へ膨大な情報が激流のように流れ込んできた。
火、風、水、土――四つの属性の魔力操作が一斉に脳裏へ映し出され、魔力の構築方法が刻まれていく。
しかし、その感覚は長く続かなかった。
風の知識へ意識を向けた瞬間、それは霧が風に吹き散らされるように消え去った。水の知識も指の間から零れ落ちる砂のように崩れ、土の知識も音もなく砕け散っていく。
「な、なんだ……!?」
必死に繋ぎ止めようとしても、三つの属性は俺を拒絶するように消えていく。
最後まで残ったのは、燃え盛る炎のように赤く輝く知識だけだった。
火球を生み出すための魔力の圧縮。
炎へ熱を与え、形を維持し、燃焼を制御する感覚。
その知識だけが、焼き印を押されるように俺の魂へ深く刻み込まれていく。
「ぐっ……!」
頭が割れるような激痛に思わず膝をつき、床へ手をついた。数秒後、痛みが嘘のように消え去り、頭の中には火属性の知識だけが当たり前のように残っていた。
「終わったようだねぇ」
老婆は小さく口元を緩めた。
「どうやら火属性だけが定着したようだね」
「火属性だけ……?」
「人には生まれつき魔法の適性がある。ほとんどの者は一つ、多くても二つや三つ。それがお前さんは火に選ばれたってことだ。適性のない属性は、教本を使っても知識が定着しないんだよ」
頭は驚くほどすっきりしていて、初めて扱うはずの魔法の使い方が理屈ではなく感覚として分かっていた。
「これであんたも初級魔法使いの仲間入りさ」
俺はゆっくりと立ち上がり、右手を前へと突き出した。
深く息を吸い込み、魔力を掌へと集めていく。頭の中に自然と火球のイメージが浮かび上がる。魔力を圧縮し、球体を作り、そこへ熱を与える。
シュッ――。
小さな音とともに、手のひらの上に赤い火球が生まれた。
炎が揺れながらも、確かにそこにある。
「……できた」
胸の奥が熱く高鳴る。人生で初めて、自分の意思で生み出した魔法。ゲームでも映画でもない、本物の炎が手にあった。
老婆は満足そうに静かに頷いた。
「その感動を忘れちゃいけないよ。魔法は教本を買っただけでは強くならない。何度も使い、失敗し、生き残って初めて力になるんだ」
俺はその言葉に、深々と頷いた。
教本を革袋へと丁寧にしまい直す。残された所持金は、銅貨十二枚。
もう後戻りはできない。ここから先は、自分の力で稼ぎ、生きていくしかない。
店の扉を開けると、強い昼の光が差し込んできた。
俺は東の森の方角をじっと見つめる。レベル2の聖物『ブック』が待つ場所だ。
胸の力強い鼓動を感じながら、俺は異世界での最初の戦いへ向けて一歩を踏み出した。




