通帳がお友達だった男
「佐藤、お前もそろそろ結婚したらどうだ? 一緒にメシ食ったり、休日に出かけたりする相手がいるのも悪くないぞ」
給湯室で缶コーヒーを片手にした同僚が、親切ぶった顔でそんな言葉をかけてくる。
またか、このやり取りはもう何回したか。
「結婚なんて、お金が掛かるだけですよ。指輪に挙式、新婚旅行に子育て……ざっと見積もっても何千万円という金が吹き飛ぶ。そんな大金を他人に分け与えるくらいなら、自分の為に使った方が幸せですよ」
俺の名前は佐藤翔太。三十七歳、独身。
世間の基準で言えば「負け組のおっさん」という烙印を押される属性なのだろうが、俺自身は自分の生き方が間違っていたと思ったことは無い。
俺は金が大好きだ。だが、豪遊したいわけでも贅沢がしたいわけでもない。ただ、自分の手元にある数字が 昨日より一万円増えている。その事実を確認するだけで、脳内に上質な脳汁が分泌されるのを感じるのだ。
会社の昼休み、同僚たちは「たまの息抜き」などと言って近くの定食屋へ向かい、八百円の日替わり定食を頼んでいる。
俺はその時、自分のデスクで、カバンから取り出した水筒のお茶と、前夜スーパーで半額になっていた二枚の食パンをかじっていた。
俺は一食あたり四十円。対して、同僚達は八百円。 差額は、七百六十円。一ヶ月続ければ一万五千円、一年で十八万円以上の差になる。
「定食に八百円……恐ろしい無駄遣いだ」
やはり、数字に換算するとゾッとする。
食事など腹が満たされれば十分だ。
味や満足感よりもコスパ。
これは、人生の法則でもあるのだ。
仕事の帰りには毎日必ず古本屋へ立ち寄り、ラノベを買いに行っている。
目指すは新刊棚ではなく、照明の暗い百円コーナーだ。
多少日焼けしていようが帯が無かろうが文字さえ読めれば、百円で数時間分の娯楽が手に入るのだ。
スマホを見て、電気を無駄遣いしなくても、情報が手に入るし、何回でも無料で読み返せる。
スマートフォンでショート動画を見て、時間と電気を無駄にするより、よっぽど充実した時間をすごせるのだ。
家に帰り、安売りのカップ麺にお湯を注ぎ、百円のライトノベルを開く。
外食なら少なくとも、千円はかかる夜を、わずか 三百円未満で完結させる。これ以上の至福がどこにあるというのか。
世間は俺のような人間を「ケチ」と笑うかもしれない。
だが、人は裏切る。会社も裏切る。景気だって明日はどうなるか分からない。だが、自分名義の口座に刻まれた数字だけは、決して自分を裏切らない。
俺は誰よりも金を信じ、誰よりも確かな数字だけを心の支えにして生きているのだった。
そんな俺の完璧な「コスパ至上主義」の人生に、決定的な亀裂が入ったのは会社で義務付けられた健康診断の再検査だった。
病院の診察室。五十代の医師は、机の上に並べられた俺の検査結果を重苦しい沈黙とともに見つめていた。やがて静かに溜め息をつき、俺の目をまっすぐに見つめて口を開いた。
「佐藤さん。結論から申し上げると、貴方は重度の糖尿病です」
一瞬、言われた言葉の意味が脳内で結びつかなかった。
糖尿病。
甘いものの食べ過ぎや運動不足でなる病気、という程度の軽い病気だ。
よくネットやニュースで見かける言葉だ。
「糖尿病による、動脈硬化がかなり進んでいます。
このままだと、心筋梗塞や脳卒中、腎不全になる可能性があるので、もしもの事態に対処出来るように、今日から入院をしてください。」
「え……入院、今日からですか?」
「はい。今すぐです」
医師の引き出しから、入院申込書や同意書が次々と取り出されていく。説明する医師の額にはうっすらと汗が滲んでおり、ペンを持つ手にも明らかな緊張が伺えた。本気で俺を止めにかかっているのが分かった。
しかし、その時の俺の頭の中を占めていたのは、恐怖などではなかった。脳内で高速の電卓が叩かれ、冷酷な損益計算が始まっていたのだ。
(入院……? 個室でなくても一日あたりの負担は相当なものになる。検査費に食事代、雑費。高額療養費制度を使ったところで、まとまった出費は避けられないな。何より、会社を長期離脱すれば有給は使い果たし、減給やボーナス査定への響きは免れないぞ……)
病気の深刻さよりも、削られる資産の数字が先に立った。
働けなければ収入が減る。収入が減れば貯金が減る。貯金が減れば俺の精神的安寧が崩壊する。
俺にとって、病名などよりもそちらのほうが遙かに現実的で破滅的な脅威だった。
しばらく悩んだ後、俺はゆっくりと首を横に振った。
「やめておきます」
診察室の空気があっけなく凍りついた。医師の動きがピタリと止まる。
「……理由を伺ってもいいですか?」
「仕事がありますから。急に休めば職場に迷惑がかかります。それに……入院なんてしたら、お金がかるでしょう。」
「佐藤さん!」
医師が身を乗り出し、声を荒らげた。
「これは脅しではありません! 命の問題です! 今ならまだ間に合うかもしれません。お願いですから入院してください!」
医者がそこまで頭を下げて客を必死に説得するなど、普通ではないのだろう。
だが、俺の脳内の電卓は止まらなかった。
一ヶ月休職した際の減収分、医療費の自己負担額、将来的な昇進機会の損失。思考のすべてが損失の数字へと変換されていく。
「すみません。やっぱり帰ります」
俺は立ち上がり、診察室のドアへ手をかけた。背しろから医師の、苦々しさに満ちた呟きが聞こえた。
「……どうか、異変を感じたらすぐに救急車を呼んでください。お大事に。」
俺は振り返らずに病院をあとにした。
病院を出ると、真夏の容赦ない日差しが白く眩しく舗装路を照らしている。喉が激しく乾いていたが、病院脇の自販機で百六十円の炭酸飲料を買うことすら躊躇し、わざわざ百五十円の自販機を探して十円の節約にほくほく顔を浮かべていた。
「糖尿病なんて、野菜ジュースでも飲んで自重しておけばどうにかなるだろ。入院なんてしたら医者の思うツボだ」
十円得をした満足感に浸りながら、俺は自分の選択を何ひとつ疑っていなかった。
その夜、事件は起きた。
自室の冷房を微弱に設定し、スーパーの特売で買った百円のカップ麺を食べ終えた午後十一時過ぎ。
通販で箱買いした大容量の炭酸飲料をペットボトルから直接煽り、ソファでゴロゴロしていた時のことだ。
(今日も無駄遣いはゼロ。病院では大袈裟なことを言われたが、俺の資産は今日も無事に守られた)
口座の残高をスマートフォンで確認し、ニヤニヤとした笑みを浮かべた瞬間――胸の奥に、かつて経験したことのない違和感が走った。
「……ん?」
まさかと思って左胸を確認してみた。
しかし、いつもは定期的にトクトク動いてる心臓が動いていなかった。
次の瞬間、巨大な鉄の万力で胸郭ごと心臓を握り潰されたかのような、絶絶たる激痛と圧迫感が襲いかかってきた。
「ガっ……!? ぐっ……!」
喉から引きちぎれた悲鳴が漏れる。痛みというレベルではない。胸の中で何かが破裂し、肺が一切の空気を拒絶する。
全身の毛穴という毛穴から、滝のような嫌な汗が吹き出した。冷房の効いた部屋であるにもかかわらず、 一瞬で服が肌に張り付く。視界が急速に色を失い、ぐにゃりと歪んでいく。
「な……んだ……これ……」
立ち上がろうとした足は生ゴムのように崩れ、俺はフローリングの床へ激しく叩きつけられた。冷たい床の感触すら遠い。息が吸えない。酸素が脳に行き渡らず、意識の輪郭が急速に溶け出していく。
その時、脳裏に昼間の医師の顔が鮮明にフラッシュバックした。
『今ならまだ間に合います!』
(ああ……あれは……脅しじゃ……なかった……)
愚かすぎる理解が脳を焼く。だが、気づいた時には全てが遅すぎた。
震える右手を必死に伸ばし、ローテーブルの端にあったスマートフォンを床に引きずり下ろす。画面に汗と脂がつき、指が滑ってうまく操作できない。必死の思いで緊急通報画面を開く。
『1』……『1』……
あと一つの『9』を押せば、救急隊が駆けつけてくれるかもしれない。助かるかもしれない。
だが、最後の『9』の上に指を置いた瞬間、全身の筋肉から急速に熱と力が失われていくのが分かった。
カラン。
スマホが指先から滑り落ち、床を空しく転がった。
「あ……」
手が動かない。指一本すら、自分の意思で動かせない。視界の端から深い闇が侵食してくる。テレビの笑い声も、部屋の静寂も遠ざかっていく。
(俺は……何のために……金を溜め込んできたんだ……?)
後悔が、猛毒のように全身を駆け巡った。
旅行にも行かず、美味いものも食わず、誰かを愛することもなく、親孝行らしい親孝行もせず。ただ通帳の数字が増えることだけに執着し、自分の命の値段すらケチって死んでいく。
俺が死んだら、あの苦心して溜め込んだ何千万円という金はどうなる?
誰も使わないし、気づいてもくれない。
俺の人生の思い出には何ひとつ化けない。
ただの無意味な、ただのデジタルな数字の羅列として残るだけだ。
(こんな……こんな惨めな……最後……)
叫びたかった。やり直したかった。だが、声はもう出なかった。
そして、ぼんやりと青白く光るスマホの画面――『11』の数字を残したまま、俺の三十七年の人生はあっけなく幕を閉じた。
暗闇が明けたとき、俺の身体から苦しさは完全に消え去っていた。
頬を撫でる風は驚くほど心地よく、肺へ吸い込む空気は生まれて初めて味わうほど澄み切っている。ゆっくりと瞼を開くと、視界いっぱいにどこまでも広がる真っ青な空が映り込んだ。
「……ここは……?」
起き上がると、足元には磨き抜かれた白い石畳。
その先には雲海が広がり、まるで天空に浮遊する神殿のような場所だった。
人の胴体ほどもある太い円柱が何本も立ち並び、静寂だけが世界を支配している。
「気が付きましたか」
後ろから澄んだ声が届き、俺は振り返った。
そこに立っていたのは、純白の衣を身に纏った銀髪の美しい女性――女神だった。
神々しい雰囲気を漂わせる彼女は、穏やかな、しかしどこか憐れむような目をして俺を見つめている。
「落ち着いて聞いてください。。あなたは先ほど、地上の世界で心臓が止まったことにより、命を落としました」
「……やっぱり、死んだんですね」
取り乱す気力すら湧かなかった。冷たい床で力尽きたあの瞬間の敗北感が、まだ魂に刻み込まれている。
もう。俺の貯めてきた金はもう戻ってこないのだ。
「はい。そして本来ならば、人間の魂は生前の信仰や行いによってそれぞれの行き先が決まるのですが……あなたには行き先がありません」
「行き先がない?」
「ええ。あなたは神を信じず、人を信じず、ただ『お金』という概念と数字だけを信仰して生きておられました。そのため、あなたを導くべき天界の領域が存在しないのです」
女神の言葉は、ぐうの音も出ないほど正論だった。俺が人生で祈りを捧げていた対象といえば、銀行のATMと通帳記入の機械だけだ。
「そのため、あなたには異なる世界へ渡り、二度目の人生を生きていただきます」
「異世界……ですか」
「はい。あちらの世界でのあなたの人生はすでに完全に終了し、火葬も済んでいます。戻る術はありません。ですが……次の世界であなたは、新しい身体と人生を得ることになります」
女神がそっと右手を差し出すと、その掌から柔らかな光が溢れ出し、俺の全身を包み込み始めた。
「今度こそ、あなたが本当の意味で『価値がある』と思えるものに、その命とお使いなさい」
光が視界を覆い尽くし、浮遊感とともに意識が引き上げられていく。
俺は遠のく意識の中で、冷たくなった通帳の残高を思い出していた。二度目の人生……もし本当にやり直せるのなら。俺はもう、金を溜め込むだけの奴隷にはならない。
「おい兄ちゃん! 目が覚めたのか!」
豪快な声とドタドタという足音が響き、俺は急速に意識を取り戻した。
目を開けると、そこは木造の荒削りな天井だった。目の前には、立派な髭をたくわえた丸太のような腕を持つ中年男が、心配そうに俺を覗き込んでいる。エプロンをつけた宿の主人らしい。
「街道の脇で倒れていたところを担ぎ込んできたんだが、丸一日眠りこけてたぞ。体調はどうだ?」
「助けていただき……ありがとうございます……」
掠れた声で礼を言いながら、俺の脳内の「前世の習性」が即座に作動した。
(待て。街道から運んでもらい、宿に一泊。治療費や介助料、部屋代……いくら請求される? 異世界の物価も分からない状態でぼったくられたら――)
そう思い、聞いてみた。
「あの.....。宿の代金はどれくらいでしょうか?」
身構える俺を見て、主人は可笑しそうに豪快に笑い飛ばした。
「ハハハ! 金の心配なら要らんぞ! 俺が善意で助けただけだからな。」
見返りを求めない親切。
前世の俺なら「裏があるはずだ」と疑ってかかっただろう。だが、男の笑顔には何の嘘もなかった。
「それより兄ちゃん、名前は?」
「名前……」
佐藤翔太、と答えようとしたその瞬間――頭の奥で激しい火花が散った。
「ぐっ……!?」
頭の中で激痛が襲う。
まるで、脳を掻き回されているようだ。
記憶の洪水だ。知らない街並み、見たこともない硬貨の感触、異世界の言語、そして……この身体の元々の所有者であった少年の記憶が、三十七歳のおっさんの意識と凄まじい勢いで衝突し、融合していく。
(アステル……十五歳……孤児……冒険者を目指して王都へ向かう途中で力尽きた……)
激しい激痛を耐え抜き、俺は自分の口から洩れた新しい名前を噛みしめた。
「……俺の名前は....アステル、です」
「そうか! アステルか! まあ無理せずゆっくり休めよ!」
主人が部屋を出て行ったあと、俺はベッド脇に置かれていた小さな手鏡を手に取り、恐る恐る自分の顔を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、三十七歳の冴えないおっさんの顔ではなかった。
黒髪に強い光を宿した黒い瞳。若さと野心の残る、十五歳ほどの引き締まった少年の顔立ちだった。細いがしなやかな筋肉がついた手足。身体が驚くほど軽い。前世の訛った身体とは雲泥の差だ。
「本当に……若返って、異世界に来たんだな……」
ベッドの脇には、古びた革袋が一つ置かれていた。
中身を改めると、鈍い光を放つ銀貨が五枚と、見慣れない文字が刻まれた木札が一枚。
『冒険者ギルド 仮登録証』
アステルとしての記憶が教えてくれる。この世界では、銅貨、銀貨、金貨が流通しており、銀貨5枚の価値は平民が質素に一ヶ月暮らせる程度の蓄えだろう。
十五歳の孤児が命からがら集めた、全財産だった。
窓際へ歩み寄り、木の鎧戸を開ける。
眼下に広がっていたのは、石畳の道を往来する馬車や、武具を身に纏った冒険者たちの姿だった。露店からは香ばしい肉の焼ける匂いが立ち上り、見たこともない巨大な鳥が青空を悠々と横切っていく。活気に満ちた、本物の異世界。
俺は自分の小さな、しかし若さに満ちた手のひらをじっと見つめた。
前世の俺は、金を愛しているつもりで、その実、金に支配されていた。
通帳の数字を増やすことだけに執着し、自分自身の健康も、時間も、人間関係も、人生のあらゆる豊かさを犠牲にして「死んだ数字」を積み上げていた。そして最後は、わずか数万円の入院費をケチった結果、溜め込んだ全財産を何ひとつ使えないまま惨めに野垂れ死んだのだ。
何という愚かさ。何という無価値な人生。
(金は……溜め込んで拝むための本尊じゃない)
俺は革袋の中の銀貨を強く握りしめた。
金とは、自らの人生を切り拓き、大切なものを守り、自分の選択肢を広げるための「最強の道具」だ。道具に使われて命を落とすなど本末転倒。正しく稼ぎ、正しく使い、自分の価値を高めるために回してこそ、金は本当の価値を発揮する。
前世で培った徹底的な損益計算の思考。一文の無駄も見逃さない冷徹な数字の感覚。それらは決して無駄ではない。
今度はその計算力を、ただ溜め込むためではなく、「圧倒的に勝利し、最高の後悔なき人生を買い叩くため」に使ってやる。
「冒険者ギルド、か」
木札に刻まれた文字を指でなぞる。
リスクは高いが、ハイリターンを狙える職業。
前世の安全第一主義な俺なら絶対に選ばなかった道だ。だが今の俺には、前世の金融・計算知識と、この若く健康な身体がある。
「見ていろよ、女神様」
俺は黒い瞳に鋭い野心の火を宿し、静かに呟いた。
「今度の俺は、金に買われる側じゃない。この世界の あらゆる価値を、俺自身の力で買い占めてやる」
革袋を腰に括り付け、俺は一度も振り返ることなく、新しい人生の第一歩を踏み出していった。
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