62.勇士サブロ
突如、その時は訪れた。
文字通り世界が歪み、崩れ溶け落ちる。鼓膜をつんざく不快な高低音が頭の中をかき乱し、手綱を握る手から力が抜けた。
何だ? 一体何が起きている? まさか、いよいよ世界の終わりが訪れたとでも言うのか。
だがそれは、何もおかしな事ではないのかもしれない。儀の生贄にされた筈の第一王子が五体満足で蘇り、言語を解する魔物と共に国へ反旗を翻す。まさに世も末だ。私がおかしいのでなく、世界そのものがおかしいのだ。
そもそも何なんだあのコボルト達は。犬亜人といえば、人間一人でもその気になれば縊り殺せてしまうほど脆弱な魔物であった筈。しかし突撃してきた重装の騎兵共は恐ろしく力が強く、こちらの武具と防具を容易く破壊し命を刈り取る。魔術を操る兵だって何人もいる! まさに悪夢と言う他ない。
「ーーー! ーーッ!」
おそらく前方から聞こえる仲間の指示。もう上手く聞き取れない。視界も聴覚も、平衡感覚も全てが狂ったまま、ぐらりと視界が大きく回り自身の体が強く地面に叩きつけられる。
ああ……俺はもうこれまでか。ドルガノ様は無事だろうか。クソッ、忌まわしい魔物共め。フィリス王子は女神を蘇らせるだか何だか言ってたそうだが、馬鹿馬鹿しい。きっと彼も、この恐ろしい魔物共に惑わされ騙されてるに違いない。
聖痕騎士団は、確かに腐敗した組織だ。でもドルガノ様だけは違う。俺達は彼に付き従い、女神の力を正しく民衆の為に振るってきた。寄付金の寡多に関わらず、時に私財を投げ打ってでも魔物達と戦った。ああ女神よ。もしフィリス王子の言うことが誠であるなら、これはあんまりな仕打ちではないか!
不快な歌声と遠くから轟くような地鳴りの音。俺が最後に目にしたのは、コボルト共が駆る一角獣ユニコーン。かの女神に付き従った聖獣の蹄がこちらに振り下ろされる無情な光景であった。
「チッ、思いの外対処ガ早ぇ」
ドルガノの本軍後方に追い付いたハーピー達。彼女らは皆、『幻惑』の効果を持つ魔術を操ることが出来る。
俺たちコボルトは、個体に応じて得意とする魔術の特性が異なるが、ハーピーに関してはほぼ全員が似た魔術適性を持つ。俺たち魔物は同じ闇より出でたと語られているが、種としての起源は異なるのかもしれないとペトロス様は……ああ、今こんなこと思い返してる場合じゃねぇ。
ハーピー達が奏でる魔術の歌により、部隊後方はほぼ壊滅。だが肝心の、ドルガノがいる前方部分は皆耳を塞ぎ逃げに徹している。中央の部隊は、前方にハーピー達を近付けないよう弓や秘術で攻撃し、その結果ハーピー達は魔術攻撃を止めて逃げ惑っていた。
レミアス隊……騎士団の中ではまともに訓練された兵揃いだという前情報は確かなようだ。ドゥーバの砦、トゥーリの街、チェティリ要塞で戦った騎士達より、おそらく遥かに手強い。その事実を肌で感じつつ、しかし自身らのやるべき事は一つだ。
「……オメェら! 『聖鎖』をヨンカが食い止めテるウチに、俺達でドルガノを討ち取るゾォ!」
「オオーー!!」
壊滅した後方部隊を蹴散らし、ハーピーらを攻撃する部隊に突撃をかける。竜の牙により作られたグレイブを振り回し、視界に入るなるべく多くの騎士達に手傷を負わせた。『鷲獅子』グリフォンの竜骸で強化した腕力は、一振りで鎧越しにも騎士達に致命傷を与える。
……しかしやはり、この騎士達は手強い。攻撃を受ける際にも巧みに急所を避け、連携した動きでこちらに反撃を加えてくる。防具と護符の消耗が早い。俺は一刻と迫り来る死の気配に、久しく忘れていた本能的な恐怖を思い出す。
ああ、フィリス様とヨンカと三人で、ドラゴン退治に赴いた時のことが懐かしい。
俺はいつだって勇猛果敢で、ドラゴン相手にも臆せず立ち向い……その結果、何度も死にかけた。今俺がここにいるのはフィリス様の助けがあったからだ。頭に血が昇りやすく、前のめりになりがちな自身の気質。それは知性を得る前も後も変わらない。きっと自身はこういう生き方しか出来ないのだろう。しかし。
「ッマダだ……」
攻撃は最大の防御。俺は、自身に降りかかる攻撃を捌くことを目的に、槍の穂先を操り騎士達の腕や乗っている馬を狙う。俺は、何としてもドルガノの元に辿り着かねばならないのだ。ドラゴン退治の時を思い出せ。致命傷を食らわぬよう立ち振る舞え。今の自身にはもう護符の守りも、フィリス様の助けも無い。それでも、ここで無責任に倒れることなどあってはならないのだ。
やがて数多の敵を乗り越え、視界の先にドルガノ・レミアスの乗る馬車を捉える。
ドルガノは満身創痍のていながらも立ち上がり、こちらを睨み据え呪文を詠唱していた。その姿に、あの気丈な雌コボルトの姿が一瞬俺の脳裏をよぎる。ああ、そうか。しくじっちまったか。
「ヨンカ」
俺はそう彼女の名を呟いた後、自身の懐からフィリス様に託されたあるものを取り出す。大丈夫だ、お前のおかげで俺様はここまで来れた。第四遠征部隊長ヨンカ、お前の働きと献身……犠牲を、俺が決して無駄にはさせない。
手に持ったそれを馬車に向けて投擲し、ついで煙信号を付ける。攻撃を止めた俺の隙を見逃さず、近くにいた騎士が武器を持った俺の肩を槍で突き、もう片側の騎士が聖痕の秘術の呪文を詠唱する。
……まだだ、まだ終わってない。信号灯を掲げる俺の腕から指先に至るまで、発動したドルガノの『聖鎖』により瞬く間に縛り上げられ、身動きが取れなくなる。その間にも、自身の身に刻一刻と死が迫っているのが分かった。
「……俺様ハ! 第三遠征部隊長サブロ!!」
本能的恐怖を紛らわすよう、俺は大声で叫ぶ。
生き物である以上、誰だって死にたく無い。皆きっと、生きながらえたい筈だった……その数多の意思を踏み躙り、俺は沢山の敵を殺し屍を積み上げた。今度はそれが自分の番になっただけの話。怖い。死にたく無い。そんな弱音を吐く自分の臆病な心を、自分自身が一番に許せないのだ。だから。
「俺ハ、ロクス、ゴロス、ヨンカ、ニクス! そしてイチロよりずっと強イ!」
騎士の呪文が完成し、赤黒い輪郭を帯びた白い光の矢がこちらに向けられる。
「コボルト一の戦士、サブロはフィリス様の臣下トして、ココに勝利を捧げル!! 我が剣と槍ハ貴方と、そうして全てのコボルトの為にアル だからお願いしまス! ドウカ……」
ああ、栄誉と勇猛は、戦いの最中に一時的な死の恐怖を忘れる為にあるのだ。迫り来る矢が頭を貫こうとする刹那、待ち望んでいたその光景が瞳に映る。
「……ドウカ、残されタ仲間達ヲ 幸福な世界へとお導きクダさい 我らがフィリス王」
「ああ、約束しよう」
ーー暗闇に落ちる意識の最中。自身が投擲した『八足馬』スレイプニルの骨杭により現れた男の声を確かに聞き届ける。
血飛沫を上げ倒れるドルガノの姿と、金茶の髪と瞳を持つ我らが王の姿。その瞳の中にあるものを認め、俺はこの戦場で初めて、死の恐怖からの解放と束の間の安堵を得て、深い常闇の眠りについた。




