Ch.2-2-10 次は私のクリニックで
◇2327年10月18日(月) 19:35
『何を話したんだが知らないけど、全くヒヤヒヤしたわよ』
「なかなか俺もやるだろ?」
『ま、今回に関しては認めざるを得ないわね』
これで書斎の扉を開ける”鍵”は手に入った。
鍵があるということは、それを使う扉があるということ。
俺とナオミは狂騒の中心から離れ、会場の最奥――書斎がある奴のプライベート空間へと続く通路の手前まで移動した。
『今キムから採取した声紋と網膜データを、Broが持ってるデバイスにアップロードしているぜ! あと二、三分で準備完了だ!』
スーツにはボイスチェンジャー以外にもヘンテコなガジェットが多数忍ばせてある。それでもスーツのラインが崩れていないのは、ポールの仕立が成せる技か。
ナオミと共に壁に寄りかかり、右目の端でお目当ての関門を見据える。
先程見たとおり、三人のガード。一人はクソ真面目に険しい顔で周囲を警戒しており、そのせいか少し人の密集が薄い。おかげで香水臭い空気が幾分マシなのは棚ボタだ。
残りの二人は⋯⋯随分やる気がないな。談笑こそしてないが、コソコソ話で密かに盛り上がり、緊張感の欠片も感じられない。
今もなお、原因不明の腹痛でトイレに篭っているガードもそうだった。FYVEとやらはどうやらそこまで”出来る”連中ではなさそうだ。
『ジークんが考えてるとーりだと思うよ! 豚キムが囲ってるガードはFYVEの中でも”顔選別”で入隊したやつ中心らしいから!』
チャンヒナが俺の心を読んだかのように言った。本当に俺の頭を覗いてるんじゃないだろうな?
次いで豚キムという言葉で、先程一時間は見つめ合ったキムの脂ぎった顔を思い出す。食欲が湧くんだか減退するんだか、よくわからん気分。
ええい、食事はあとあと。今はあの三人をどうにかしないといけない。時間はけして俺等の味方じゃない。さっさとこの場から立ち去るのが吉だ。
「アリス、あの三人をどかしたい。さっき言ってた騒ぎを起こせ」
『あいあい! ギー! 聞いたとおりよ! ヤッちゃいなさい!』
『Yes, Mom!!』
「お願いだから、くれぐれも騒がせすぎないでよね!」
五人の音声が錯綜し、緊張とは別に心臓が高鳴る——不安。
アリスが何かをやらかす時は、半端じゃない。身をもって体験してる。
それにギーとチャンヒナが加わったら、どうなるか。予想の斜め上は硬いな。
◇2327年10月18日(月) 19:37
「あばばばばばばばばば」
異変はすぐに起きた。
突然、参加者の数人が痙攣して倒れたのだ——恍惚とした顔を浮かべて。
『脳の報酬系を強制スパイクさせる神経同調型電子ドラッグ、”Heavens High”! 何人か防犯意識が薄いDumbたちにプレゼントだ!』
ギーの愉快げな声と共に、会場の所々から悲鳴が上がる。
口から泡を吹き、白目を剥いてアヘ顔で痙攣する礼装の紳士淑女たち。それを見てパニックに陥る周囲の有象無象。
気が緩んでいたガードたちも異常事態に少しは顔を引き締め、無線でやり取りを交わしている。
「ホランイ・ワン。こちらホランイ・セブン。複数の参加者が昏倒。テロの可能性あり。オーバー」
「こちらホランイ・ワン。状況理解。ホランイ・セブンとエイトは現場で詳細を調査。ホランイ・ナインはその場で警戒を続けろ。アウト」
「ロジャー」
二人のガードが未だざわつく密集地帯へ急ぎ足で消えていく。先程のやる気のない二人だ。
他の地点を警戒していたガードも会場中心に集まっており、人目が一気に薄くなる。
これで残るは、扉の前に立つ真面目なガード一人。
「今度は私の出番ね」
ナオミが持っていたグラスを近くのテーブルに置くと、すっと表情を変えた。
先程までの余裕のある笑みは消え、血の気を失ったような、青ざめて怯える可憐な女の顔。うーん。恐ろしい。
俺は死角になりそうなところで待機だ。
「あの、申し訳ありません⋯⋯」
ナオミが震える声で、残ったガードにすがりつくように声をかけた。
「人が倒れて⋯⋯私、血とかそういうのダメで⋯⋯気分が⋯⋯」
「お、お客様、大丈夫ですか? 今別の者が対応しているので、ご安心ください」
ガードがふらつくナオミの肩を支える。顔採用の男だからか、女の扱いは一丁前らしい。ふん。
「ごめんなさい、私ったら⋯⋯。大変心苦しいのだけど、少し、静かなところで休ませて⋯⋯あそこの、レストルーム⋯⋯」
ナオミが上目遣い、かつ震える指でレストルームを指差す。
ガードは少し迷ったようだが、パーティーの参加者を無下に扱うわけにもいかないと判断したのだろう。
けしてナオミの顔と深い胸元は関係ないはずだ。だよな?
「分かりました。お連れします」
けっ。お前もか。
あとは簡単な仕事。さっきと同じ結末。
◇2327年10月18日(月) 19:40
四つ個室があるトイレってのもなかなか役に立つ。特にこんなに腹痛持ちのやつがいる部隊には必須だろう。
ナオミ謹製のよく分からない薬剤によって白目をむいた男の手元から各種デバイスを取り出し、小細工。
とはいっても、時間はそこまで稼げないだろう。
もともと書斎入口は三人で固めていたのだし、あの二人がいつ戻ってくるかわからない。
「急ぐぞ」
「ええ」
トイレを出ようとドアに歩みを進めようとしたその時だった。
「ふう、ただのオーバードーズかよ。ハイソもヤクは止められねえんだな」
「同じブツだろ? 最近流行ってんのかね?」
まずい。
先程様子を見に行っていた二人のガードの足音と話し声がレストルームの入り口へと近づいてくる。
個室の鍵は閉めているとはいえ、何かの拍子に勘付かれたらまずい。
素知らぬ顔して出るべきか? それとも奴らもここで堕とすべきか?
いや、流石に二人同時は危険だ。殺すなら話は別だが、バイタル感知されてたら一巻の終わり——どうする!?
一瞬。だが数多の考えが頭を埋め尽くす。
思考の糸がほどけないまま数秒が過ぎ、ドアの取っ手がゆっくりと下がるのが見えた。
——殺るしかない。
体中の筋肉が緊張しだしたその時だった。
「目を閉じて」
蕩けるような囁き声と共に、ネクタイが引っ張られ、強制的に顔が下を向かされる。
そのまま右目が何かに遮られ、暗くなった視界を甘い香りが埋め尽くし、唇に柔らかい何かが押し付けられた。
「!?」
思考がホワイトアウト。
誰かの腕——ナオミしかいない——が俺の首に腕を回し、体を押し付けてきている。
胸板に感じる豊かな胸の柔らかな感触。
シャンパンの芳醇なアルコールの匂いと、彼女がつけていたラベンダーの香水の香り。
ナオミの唇が、俺の口を塞いでいる。
「んっ⋯⋯ぁ⋯⋯」
ナオミの喉の奥から、甘く艶めかしい吐息が漏れる。
これは演技だ。分かっている。
だが、俺の後頭部に回された彼女の指先は熱く、俺の髪を掻き乱すように這い、本物の情熱と錯覚するほどの熱量を帯びていた。
無意識に生身の右手で、彼女のしなやかな腰を抱き寄せる。
ドレス越しの体温は、左手が溶けそうなほど熱かった。
レストルームのドアが開く音。
目は閉じたままキスを続ける。俺達は今盛りがついたカップルを”演じている”のだから。
「⋯⋯っと、失礼しました」
「マジか⋯⋯口うるさいボスもどっか行ってるし、ちょっくら外の空気吸いに行こうぜ」
「ああ、にしてもお熱いバカップルだな」
小声で気まずそうに話していたガードたちが遠ざかっていく。
足音が完全に消えるまで、数秒。
それは永遠のように感じられた。
気配が完全になくなってから、ナオミがゆっくりと唇を離す。
名残惜しい感触が唇から消え、俺も閉じていた目を開けた。
既にナオミはレストルームの鏡でリップを引き直している。
ただ鏡越しに映る彼女の紫の瞳は薄く潤みを帯び、普段よりも気持ち艶やかな表情をしているように見えた。
『ちょっと! ジーク! 突然視界を塞いだりして、何かあったの!?
ナオミの様子も分からないし、ガードはどうしたの!?』
今まで”音声だけしか聞こえていなかった”アリスの、焦りが滲む声が脳内に響く。
ありがとう、アリス。お前の声で今のが夢じゃなかったってよく分かったよ。
「⋯⋯ああ、問題ない。ガードは排除した。これから奴の⋯⋯えーと豚の書斎に向かう」
『了解。全く、心配させないで! 次何かあったら作戦は中止よ』
『NOOOO! Bro! お前は死んでもいいから、なんとしてもやり遂げろ!』
『やり遂げろ!』
ナンセンスな応援を耳に受けながら、俺はナオミを見つめた。
既に化粧を直した彼女は、俺を見つめて挑発的な顔をして言った。
「機転が利くでしょ? おかげで危機を乗り越えられたわ」
ナオミが口元のリップを親指であでやかに拭いながら、悪戯っぽく笑う。
俺は今更ながら自分の胸の鼓動が早まっていることに気付いた。
なんだよ。今までナオミに注射されたヤバい薬よりも、彼女自身の方がよっぽど劇薬じゃねえか。
ナオミは今まで見たことがない表情で俺に近づき、俺の耳元で囁いた。マイクに拾わないよう小声で。
「次は私のクリニックで続きをしましょうか? ちゃんとバイタル測定しながらね。興奮すると心拍数がどう変わるか、興味があるの」
甘い声と香りが俺から遠ざかり、レストルームから出ていく。
からかっているのか、本気なのか。この女の底は全く見えない。
ナオミといいアリスといい、俺はなかなか刺激的な女にもてあそばれる運命のようだ。
相変わらずワーギャーとイヤホン越しに騒いでいる三人が今は救いだ。
「⋯⋯行くか」
俺もレストルームを抜け、今は無人の会場の最奥、書斎に続く扉の前へと移動した。
ナオミは会場で待機。さり気なくこちらを見てるのが分かる。
俺は唇に残る熱をそのままに、誰にも見られていないことを確認して、体を扉の中へと滑り込ませた。
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