Ch.2-2-7 ホワイトアウト
◇2327年10月18日(月) 19:15
アッパー・ディストリクト、”ハイ・ガーデン”。コーポ層の中でも頭一つ抜けた住宅街にある、高級コンドミニアム。
地上八百メートルの夜空に浮かぶこの楽園のエントランスで、受付担当のパクは、長年の経験が警鐘を鳴らしそうな気配を感じていた。
彼はかつてホランイ重工の特殊部隊"FYVE"として死線を超えてきた元エリート軍人だ。
数年前、怪我が元で第一線は退いたが、豊富な経験を買われ、今はキム・ドゥハンのプライベート・ガードとして雇われている。
もうすぐでこんなドブ臭い街からおさらばして、南の島で優雅に一生を過ごせる資金がたまる——彼の動機は全てカネだ。
パクの内心はどうであれ、仕事を完璧にこなすプロ意識が、彼が雇われた最大の理由である。
たとえそれが豚のように醜悪な参加者におべっかをつかうことであっても。
今宵の参列者は金に飽かせて下品に着飾っただけの、平和ボケした家畜たち。どいつもこいつも気色悪い顔に薄ら寒い笑みを貼り付けて、その目の奥は常に金の匂いを探している。
パクは抑えきれない、やるせなさを隠しながら内心あくびを抑えられずにいた。
なるほど、ひけらかしているアクセサリー、身に付けたインプラント、どれも高価でパクには手が届かぬ代物だろう。
だがそれがどうした? と彼は思う。FYVEにいた頃なら、こいつら全員を三十秒で屠殺できた。今は二分は必要だ。
もちろんそんなことはしない。もう少しで目標金額が溜まるのに、一時の気の迷いで安定収入を失うなんてバカのすることだ。
自制心の強い彼は、下らぬ妄想は脳内に留め、現実では適当に作り笑いを浮かべて、量産型共の対応をスムーズにこなしていた。
その目は一見柔和で謙っているように見えるが、その奥にある鋭い光は、パーティー参列者の一挙手一投足を見逃さない。
だからこそ、地上からの直通エレベーターが開いた瞬間、彼は警戒レベルを一つ上げた——レッドカーペットの向こうから歩いてくる”それ”は今までの豚どもと違うとすぐさま理解したから。
空気が軋む。気の所為ではない。
それが近づくたびに体感温度が下がり、同時に強まる鉄と硝煙の幻臭。
ハイ・ガーデンの対極のような存在——戦場の味。
ピリッと肌を刺す感覚が、パクの心臓を少しだけ早く叩き、だが水面はすぐに鏡に戻る。
それが受付に近づくたびに、押し出された空気がそのままぶつかってくるようなプレッシャーをパクは感じる——いるじゃないか、牙を持った奴が。
気付けばそれは彼の目の前にいた。
「招待状だ」
思ったより若い声。手渡される招待状のメモリチップ。
「拝見いたします」
パクは手元のデバイスにチップを差し込み、登録情報を確認しつつ、
およそ華やかな場に似つかわしくない男を見据えた。
身長は百八十センチ程。左手は義手。眼帯で隠れている左目もおそらくそう。
服装こそイタリア製の高級そうなスーツを着こなし、この場に適した格好だが、ただ立って待っている所作の端々に、隠しきれない”暴”の気配が滲んでいる。
重心の置き方、視線の配り方。生身の右目は、パクの挨拶など意に介さず、会場全体のセキュリティ配置、警備員の武装、そして撤退ルートをつぶさに確認しているようだった
——同類か。
パクはスーツの下に隠した小型拳銃に意識を向けた。本能と理性がこいつをパーティーに参加させてはいけない異物だと告げている。
「こんばんは。少し遅れてしまったかしら?」
パクの緊張は次の瞬間、別の種類の衝撃によって上書きされた。
周囲が歪むんで見えるほどの威圧感で見逃していたが、男の腕に親しげに腕を絡ませる同伴者の女性に今更ながら気付いたからだ。
彼女を視界に認めると同時に、パクの思考がホワイトアウトした。
ラベンダーのイブニングドレスにベージュのショール。ドレスは体のラインを柔らかく映し、花の芳香と艶気が立ち上っている。
銀糸の髪はシニヨンでまとめられ、紫の瞳はカネではけして買えない煌めきを放ち、眩さを覚えるほど。
美しい、という陳腐な言葉しか出てこない。
他人のものであると分かっていても、我がものにしたくなるような抗いがたい魔性。パクの冷静さが、初めて揺らぐ。
強張ったパクの顔を見ると、彼女はふわりと微笑み、口を開いた。
「えっと、ミスター?」
甘く、そして冷たい声。パクの背筋に、快楽にも似た戦慄が走る。
「失礼しました。まだパーティーは始まっておりません。ご安心を」
彼は瞬時に理性を取り戻し、明らかに”不自然な”二人組みを前に努めて事務的に振る舞った。
「招待状を拝見いたしました——ヴィクトル・ザイツェフ様、ナターシャ・メルゴー様」
パクのデバイスに二人の顔と氏名が表示される。
『認証完了:ヴィクトル・ザイツェフ / 東欧武器商組合長の息子』
『認証完了:ナターシャ・メルゴー / 同伴者(ヴィクトルの愛人)』
クリアになった頭でデバイスの画面と目の前の顔を照会する。相貌は同一人物で間違いない。
しかしパクのスマートレンズが、一瞬チラついた。
ほんの僅かな遅延。だが確実に、普段より長い。
違和感。それは"FYVE"で培った、けして逃してはいけないアラート。
一瞬の逡巡。豚の群に狼と美女が紛れ込むという、どう考えても異常事態。加えて信頼に足る長年の勘が、これは限りなく黒に近いグレーだと叫んでいる。
それでもスマートレンズもチップも、目の前のペアが今夜のパーティに”正式に”招待された”特定人物”であることを証明している。
おまけにこの階に辿り着くためには一つしかないエレベーターに乗る前に厳重なボディチェックを受ける必要がある。
パクは数瞬迷い——結局、会場に入るためのカードをアクティベートするためにスキャナーに通した。
パーティー会場入口のセキュリティゲートにグリーンライトが点灯する。
正規の招待客だ。パクは思うところを押し殺し、深く頭を下げた。
「確認いたしました。ザイツェフ様、メルゴー様⋯⋯お通りください」
二人がレッドカーペットを歩き、会場へと消えていく。
その背中を見送りながら、パクは無線へと手を伸ばした。
「ホランイ・ワン。こちら受付パク。オーバー」
「ホランイ・ワン。オーバー」
「狼が紛れ込んだ模様。ターゲット、ヴィクトル・ザイツェフ。いい女連れ。警戒せよ。アウト」
「ロジャー」
無線を下ろしながら、ふう、と一息つく。問題はなかったと、パクは怪しい二人組を通した判断を評価した。
自分の役割は受付であり、正規の招待客を招き、そうじゃない人物を弾くことが仕事だ。さっきのペアはリストにも載ってたし、招待状も本物だった。なら通して然るべきだ。
例え、長年の勘が叫んでいたとしても。
加えて会場内で何が起ころうとも自分の責任ではない、ともパクは思う。
中では現役の”FYVE”が警護にあたっているし、緊急事態の対応は奴らの仕事だ。
彼は懐からガムを取り出すと、無遠慮にかみ始めた。参加者のリストは先程の二人が最後。これぐらいやっても問題はないだろう。
彼の背中をパーティーの喧騒が叩いている。乱雑な話し声の持ち主たちは、檻の中に野獣が紛れ込んだとは夢にも思ってないはずだ。
平和ボケにも程がある、とパクは感じた。
彼はクチャクチャと口からガムを膨らますと、少し膨らんだ風船はパンと音を立てて弾けた。彼はふと思った。
「バックレるか」
今日の仕事は済んだ。目標金額までは達してないが、少し節制すれば生きていくのに十分な額はある。
雇い主のキムに一言も告げないというのは、思うところがないわけでもないが、それ以上に今夜この場にいると、とんでもないことに巻き込まれる予感——いや、確信。
君子危うきに近寄らず。
パクは控えのスタッフに無線を回し、会場を後にした。
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