Ch.2-1-2 狂気の王冠
◇2327年10月8日(木) 13:12
――親殺しさん。
言葉が、脳の奥で反響した。HUDが赤に滲み、呼吸が一拍遅れる。次の瞬間、右手が勝手に胸ぐらを掴んでいた。
ナオミが短く声を上げ、止めに入ろうとする気配がする。
「あん、乱暴なのね。嫌いじゃないけど」
慌てるでもなく、どこまでも人をおちょくるその態度が、俺をさらに苛立たせた。
「訂正しろ。ここから出ていけ」
自分でも驚くほど低い声が出る。右腕はほとんど女を浮かせていた。それでも女は余裕を崩さない。
「人ってね、本当のことを言われた時、一番動揺するものよ。自分でも負い目があるんでしょ? 彼を殺したのは自分だって」
パシンと乾いた音が響いた。ナオミが女の頬を叩いたのだ。
「あなたねえ、一体どれだけジークが苦しんだか知ってるの?」
ナオミが振り絞るような声で小さく叫んだ。目が潤んでいる。
女の頬が紅潮してきたが、その目は俺を捉えて離さない。紅い口が笑みの形のまま開く。
「やっぱり、いい目をしてる」
その目を見て思わずゾッとした。深いヘーゼルカラー。どこまでも透き通っていて、瞳孔の黒は見たもの全てを吸い込む欲深さ。恐怖など一切ない。その対極にある前へ進むことしか見ていない瞳。
俺は頭を占めていた怒り、失望、後悔が女の眼光に吸い取られたかのように小さくなっていくのを感じた。空いた余白に一つの考えが浮かぶ。こいつ――アリスは俺をあえて煽ってる? 次に来るのは疑問。なぜ?
理性が戻ってきた分、体の力が抜ける。アリスの胸元を掴んでいた右手の力が緩んだが、両手を首に回され顔と顔の距離が近づく。
甘い香りが鼻腔を洗い、場違いに喉が鳴った。
嫌悪か、それとも別の何かか、自分でも分からない動揺。
「おいちょっと待てこの」
再びナオミが短く声を上げた。およそ聞いたことがないほどドスが効いている。
最後に聞こえた単語は、ナオミからはついぞ聞いたことがない侮蔑の言葉。
アリスは騒ぎ立てるナオミを無視し、強制的に視線を絡ませてくる。底抜けに未来しか見ていないその目は、今の俺に足りないものだった。逆に彼女は俺を見て、何を思っているのだろう?
少しずつ近づく距離。唇同士が触れ合う直前、彼女は腕を離した。去り際に俺の左腕を愛おしそうに撫で、診察台に腰掛ける。そして足を組みながら言った。さながら王座に上がった女王。
⋯⋯ナオミ、本気で脛を蹴るのはやめろ。骨に響く。
「やっぱり、私の見立てに狂いはなかった。あなたは怒っている。この理不尽な世界に、スラムの泥濘に、そして無力な自分自身に。魂が燃え盛る中で叫んでる――全部壊したいって」
片腕でも制せる小さな女の存在が、見上げるほどに大きくなっていく。
「HelixだのTiānqǐだのトノヤマだの⋯⋯。本当にくだらない。会社の名前なんて、飼い主の名前でしかないのに、それに気付かぬバカばっか」
見上げているんじゃないかと錯覚するほどに巨人となった女が両手を広げた。
「私もね、全部ひっくり返したいの、この世の中。あなたと一緒。仮初の自由はまっぴら。飼われるんじゃなくて、飼いたい。支配したいのよ」
ずっと騒いでいたこの部屋の主ですら、女の迫力かそれとも戯言かに、思わず息を呑んだのが隣から伝わった。
女が再び立ち上がり、俺の左手を自分の首に持っていく。
もちろん締めるようなことはしない。ただそれすらも分かっているような表情に、再び苛立ちの感情が芽生えた。
「私、あなたが欲しいの」
女が男に使うフレーズとは別の意味で上気した頬を赤くさせ、アリスが言った。
「私は飼いたいの。あなたも、メガコーポも、世界を丸ごと私のペットにして、首輪をつけてやりたい。そのためには力がいる⋯⋯あなたも、同じじゃない?」
「頭の治療が必要なようね。ここは専門外だから、とっとと中間層あたりのクリニックに行ってきて頂戴」
俺が口を開く前に、ナオミがツッコみ、俺とアリスの距離を離した。彼女の潤んだ目は少し赤くなり、ただそれは涙のせいだけではなさそうだ。いつも冷静なナオミが珍しく、肩を戦慄かせている。
「アリス、そもそもあなたはジークと初対面だし、言っていることが滅茶苦茶だわ。ジークを飼いたい? 都市をペットにして首輪をつけたい?」
一回大きく息を吸って続けた。
「いい趣味してるわ。そんなに男が欲しいなら、その格好でそのまま出ていきなさい。野犬が腰振って近寄ってくるから」
ナオミが右手でドアを指差す。
「私あなたのことを前から変な子だと思ってたけど、”Tiānqǐ”辞めて追われて、いよいよ頭のネジが全部飛んじゃったの?」
至極真っ当な指摘。だがアリスは、悪びれるどころか、きょとんとした顔をした。
「失礼ね。私の頭にネジは最初から一本もハマらないわよ。だから物事をフラットに、全方位で、フィルターなく見ることができるの」
「話をややこしくしない!」
「ナオミ。この世界で”狂ってない人間”なんて、どこにいるの?」
アリスの目が据わる。 一瞬だけ、そのヘーゼルカラーの瞳から底知れない闇が覗く。一拍置いて、ゆっくりと言葉を発した。
「皆、自分はマシだと思って足を引っ張り合う。自己保身と欺瞞に必死で、与えられた檻の中でひたすら“自由だ”って叫んでる——自分の言葉すら持たない、ヒューマノイド。人形よ」
アリスの言葉は、まるで自分の中から出てきたみたいにスッと入ってくる。理解できてしまう。彼女は、俺と同類——反逆者だ。
「この街は、白痴を人間と呼び、人間を狂人と呼ぶ。なら、私は喜んで狂気の王冠を戴くわ」
アリスは雄弁に語り、ナオミの言葉を鼻で笑い飛ばした。対するナオミはこめかみを指で押さえている。実験以外のことであれば良識派の彼女にとっては、アリスの言葉は理解の外のはずだ。
ナオミは「私、もう知らない」と呟き、部屋の奥に消えた。コーヒーでも淹れるのだろう。実験で昂った時に自分を落ち着かせるための癖。
一対一となった状況で、アリスは不敵な笑みを崩さず、俺に言った。
「あなたの目を見て、分かったわ。私と同じ、この街におけるバグだって。この檻を壊したいって。同類でしょ? だからあなたがいいの」
一歩。距離が詰まり、香りが濃くなる。長い睫毛がよく見えた。
「で? 同じバグだとして俺に何を望む? バグだって共喰いすることもあるだろ?」
試し、試されている。俺の問いにアリスは間髪入れずに答えた。
「素敵。やっぱり思ったとおりだったわ。私の話をすぐに理解できるなんて、最高に狂ってる」
「狂うぐらいであの男を殺せるなら安いもんだ。俺の全て、あるなら来世分含めて売ってやるよ」
俺の言葉に彼女の顔が崩れた。表れたのは俺とそう変わらなさそうな、まだ幼い笑顔。
「それじゃあ、ビジネスの話をしましょう」
◇2327年10月8日(木) 13:25
アリスが空中にホログラムウィンドウを展開する。表示されたのは、”Tiānqǐ(天啓)”のロゴと、数名の顔写真。そしてミッションの詳細。
俺は両手にコーヒーカップを引っ提げて来たナオミから一つもらい、話の続きを促した。もちろんもう一つはナオミの分で、アリスの分はない。アリスはそれを意にも介せず続ける。
「ミッションはシンプル。私の元勤め先のTiānqǐからの刺客を撃退すること。ランクで言えば”星二つ”相当ね」
星二つ。武装したプロフェッショナル集団が出張るレベル。
タナカをデリバリーした時と同難易度で、相手次第だが今の俺一人でもなんとかできるだろう。
達成できれば、毎食ホットドッグにチーズとハラペーニョトッピングしたやつを一年は食えるぐらいの報酬は硬い。つい出てしまった唾液をコーヒーで流した。
「ただの脱走社員一人に星二つだと? お前、一体何を持ち出したんだ?」
「顧客リスト」
アリスはあっけらかんと言った。
こいつ、アホだ。星二どころか三でも足りないくらいじゃねぇか。ナオミもコーヒーを吹き出しそうにしていた。
「はい、解散。アリス、今までのツケ全部今ここで払って。早ければ明日にはあなた”人形”になってそうだから」
ナオミが手を叩いていった。それを無視してアリスは続ける。
「Tiānqǐの裏帳簿とも言える重要機密。これが他社に渡れば、株価は大暴落、役員は全員物理的に首が飛ぶわね。あとついでに、役員の一人がファンだったアイドルの限定グッズのデータも頂いちゃってる」
「お前、まじでぶっ飛んでるな。何考えてるんだ?」
褒めてないから舌を引っ込めろ。
「どうせ盗むなら、一番大事なものじゃないとつまらないでしょ? 期限は一ヶ月。ただし、条件がある」
「ねえ、聞いてる? ツケ払わないなら、その綺麗な腎臓と眼球、私が頂くけどいい?」
「”積極防衛”。刺客を待つんじゃなくて、こちらから仕掛けて殲滅する」
こいつ、人の話を聞かないくせに、自分の話は進めやがる。ナオミの眼鏡越しに、目尻がヒクつきだしたのが見えた。
「今のところ、私の居場所はバレてない、絶対に。保証するわ。でも、Tiānqǐの探索網は優秀よ。バレたらその時点でジ・エンド。数で押し切られて終わり。だから、先手必勝。奴らが私を見つける前に、奴らの目と耳、そして牙を全部折る」
「先行部隊を潰しても相手はメガコーポだ。第二部隊が来るだけだろ」
当然の疑問。その質問を待っていたかのようにアリスが人差し指を振って答えた。
「今回、初動を抑えれば第二部隊はこないわ。やるのはあくまで先行部隊だけ。そこさえ潰せれば、逃げ切れる。だから星二つなの」
「なぜ言い切れる?」
「奴らはリストを誰が持ち出したか分かってない。同時期に複数人逃げ出したから。それに、私が持ってるリストの中身をライバル企業に一部リークする。そうすればTiānqǐは社内防衛と株価対策で手一杯になる。たかが一人の脱走者を追うリソースなんて残らない」
胸を張ってアリスが答える。乱れた胸元から白いレースの何かが見えたが目を逸らした。ナオミ、俺は見てないぞ。
加えて、とアリスが続けた。
「今朝のGMTC見た? 他のコープの脱走者も含めて情報を流して、マンハントのターゲットをバラけさせたの。戦力の分散に次ぐ分散ってわけ」
「あなた、随分前から計画を立ててたわね? よくまあそんな悪どいこと思いつくわ」
ピンポーンとアリスはナオミを指さしてケタケタ笑った。ヘーゼルカラーの瞳が俺の目を見据える。
「できるわよね? 最強の番犬さん」
アリスの言っていることは無茶苦茶だ。
だが、それでも彼女についていきたくなる危うい魅力があった。落とし穴だらけの道を下を向かず、前だけ見据えて進んでいく豪胆さ――カリスマ。
「⋯⋯で、作戦は?」
「あるわよ。とびきりの餌を撒くの」
アリスは地図データを展開した。スラムと中間層の境界、”狭間”と呼ばれるエリア。
「私の居場所についての偽情報を、ある情報屋に流させる。”ヴァクシム・ワスプ”。あんたも名前くらいは聞いたことあるでしょ?」
にやりと上がる口角。俺も釣られて笑った。引きつったとも言う。
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