3.夜
鳥に似たその鳴き声は学名Cocaine with Squirrel、日本語でいうコカトリスが発するものであり、騒々しさが下水の空洞構造によって増強されていた。そしてクソみたいな語源だ。語源っていうのはいつもクソだ。語源が人を救ったことがあるのか。一度だってないし、むしろ語源の存在が人々から表現自由を奪うことさえある。人を救わないものはクソなのか。ああ、全人類と政治家とあの鳥はクソだ。言うまでもなく語源もクソだ。ああ、アイツの鳴き声がうるさくてたまらない。頼むから早く起きてくれ。
目が覚めると海から下水道に泳ぎ着いていた。漂流したと言った方が確かかもしれないが、ただ漂っているだけでは下水には辿り着けないはずで、僕は川や下水処理の流れを上ってここに来たらしかった。あの虹色のズボンは手元からなくなっていた。暗くてよくは見えないが手を回した辺りには落ちていないようだ。下水道は妙に温かい場所で、湿度も高かった。加えて臭いしうるさいしで、僕は早く下水から出て行く必要があった──間違っても泳いでまた海に脱出なんかするなよ。どこかから梯子を登って出て行くんだぞ。濡れた靴底で梯子から足を滑らすなよ。外に出たときの太陽の光にびっくりするなよ。びっくりしても梯子から足滑らすなよ。もし足滑らしたときは膝使って上手く着地しろよ。痛くても泣くなよ。暗くても泣くなよ。お化けが出ても泣くなよ。家が恋しくても泣くなよ。誰もお前のことなんか憶えていなくても悲しくなるなよ。というか死ねよ。死ぬために起きたんだろ。下水で溺れて死ねよ。鼠に食われて死ねよ。コカトリスに鳴き殺されて死ねよ。臭過ぎて死ねよ。蒸し焼けて死ねよ。死んだらちゃんと死にきれよ。密かに死ねよ。わるい、冗談だ。早く行こう。
この下水は実際広いのだろうが梯子自体は案外すぐに発見された。梯子は材質に腐敗もなく普通に登れて、突き当りの蓋も力を込めて押せばすぐにどかすことができた。外に上がると雪の降る夜だった。まったく見覚えのない場所で他に見る物もない、たった一つだけ、雲に吸い込まれるほど巨大な建物がある以外は何もなかった。その建物には煌びやかな装飾が施されていた。壁を過剰に点すことでいくつも取り付けられたライトの存在自体はむしろかき消され、ツル植物のようにどこまでも無数の電線、水道管が纏わりついた姿を夜の暗がりに浮き上がらせていた。現代技術の宮殿と言ってもいいその建物はバロック様式の威厳を放ち、ゴシック様式の飛び杼に支えられた尖塔を掲げ、ギリシャ建築の彫が凝った柱、ロマネスク様式のアーチに次ぐアーチで波打ち、各所にロココ様式のコロコロした家具の埋め込みなど、当時の支配者たちの意思を堅実に受け継いだ造りはバカバカしく圧巻だった。僕みたいな者が接近を許されるような場所ではなかった。
宮殿の輝きに魅了されしばらく気が付かなかったが、ふもとには段ボールとブルーシートでできた集落が出来上がっていた。宮殿の放つ明かりは階下まで届いておらず、集落では焚火をつくってそれを中心に人々が群がっている──あんな場所じゃ嫌でも比べて見てしまう。本当に小さいな。歓迎されるか分からないが、あそこの様子を見に行こう。
歩きだしてから積雪が深いことに気が付いた。底の地面に着くまで踏みしめて雪に埋まった足を高く持ち上げて前へ突き出し、今度は反対の足を高く持ち上げて突き出す。そういう不慣れな動きは疲労を急速に溜めながら、この刺すような寒さを解消することは一向になかった。どれだけ進もうとあの焚火の照らす集落へ近づいている実感はなく、空から地上へ降りかかる宮殿のビル鳴りが歩みを奪う雪の質量に拍車をかけている。
荒い息遣いを引きずって遠吠えが聞こえた。一匹から始まったその鳴き声は連鎖し、向こうから四つ這いの一団がこちらへ走ってくる。一団の背後にはさらにたくさんの人が騒ぎを聞きつけて集まっているのが見える。血気盛んな騒ぎも一緒に聞こえる──逃げろ!
だが遅かった。逃げ出すタイミングも雪に取られるお前の脚も何もかもが遅かった。お前はすぐさま追いついてきた十数匹の犬に背後から食いちぎられる。やったな。これで予定通り死ねたじゃないか──。




