4.夜また夜
起きろよ。生きるっていうことはどこまで行ってもクソの連続らしい。しかも今回は思わせぶりだったから尚更酷い。おい、全部お前の責任なんだから、お前が確認しなければ意味がないだろう──眼前に骨だけになった両手を広げて見ている。疑う目がない以上この景色を何と捉えればいいのか。この思考に従って動く指の一本一本の細かい骨を自分と思っていいものか。足は靴が脱げて骨だけになっていて、身体だって服も何もかも消えて骨だけになっていた。全てが無問題に、不思議な力によって以前まで通りの骨格を維持している。僕は骨になってまでもまだ死ねないのだった。
骨だけになって生きているのがそんなに不思議か? オレみたいに頭の中でだけ生きている奴と喋っていながらまだそんなつまらない、クソレイシスト野郎だったんだな。博物館に行けば大量の恐竜の化石が生き生きと展示されているじゃないか。生き生きっていうのは生きていないと実現しないだろ。お前はさっきから生き生きと困惑していて、中々良い線行っていると思うぞ。もしも骨が動くこと自体に驚いているんだとしたら、逆に肉体が動く様子を見るまでは逆行の世界に来たとでも思えばいい。大体なあ、肉体のあった頃のお前は自信を持って生きていたと言えるのか? 自信があったとしてそれは事実なのか? あくまで事実は犬共に食われたことであって、その後に死んだかどうかはまだ確認の途中だった。お前は今その結果を確認したんだ。だからこれまで同様、現状を受け入れるしかないだろう。
辺りはまだ夜のままだったが、すでに雪は止んでおり晴れた星空が広がっていた。向こうにあった集落の火が落ちていた。そして相変わらず宮殿のビル鳴りが一帯を支配している。宮殿を見上げれば暴力的なまでに煌びやかな姿で、その方角の空には全く星を望めなかった──もう帰ろう──どう帰ればいいのか──お前には歩く以外に能がないだろう。
疲れを知る身体も寒さに染みる身体もないということは、歩く以外何もできない僕にとっては一番の武器になった。雪に覆われた大地を超えて草原を超えて海上を越えて、砂漠を超えてカジノを超えて時代を超えて歩き続けた。死んだ云々は置いておいて、少なくとも社会人としての僕は死んだのだ。時間を惜しむ必要はない。まず必要などということがない。歩き続けることはどこまでも行けるということに繋がる。これでは宇宙へは行けないし次元も越えられないし、色々と限度はあるかもしれないが、僕には次元を観察する数学的素養すら宇宙飛行士ライセンスさえも、まず歩くことしかできないのだった。もう骨しか残っていなかった。
どれくらい掛かったかは定かではないが問題でもない。僕は僕の部屋へ帰ることに成功した。部屋の中はあの日出かけた時と変わらず、ボロボロの茶色いソファだけが置かれていた。だがソファに近づくと異変に気が付く。ソファの上には赤ん坊の先客があった。へその緒を繋げたままそれはソファの隙間から伸びていて、このとき嫌な予感が的中する。
「ウンギャー!」……バァン!
産声を上げた赤ん坊はそれと同時に破裂してソファに血と肉をまき散らした。僕はそれを見て瞬時に悲しくなったことが不思議だった。普通ならば状況の処理が追い付かずパニックになっていてもおかしくない出来事に対峙して、状況の処理すらもできないはずの骨の上にこうして悲しいという感情が走る心地が奇妙だった。僕はあえて冷酷に振る舞ってやろうと、汚れたソファに寝転がった。肉の破片を潰して、血液が擦れた骨の曲面を表面張力で微細によじ登る。こんなのは気分が悪いだけだ。ソファの中から赤ん坊の母親が泣く声が聞こえる。僕はちぎれたへその緒を垂らしたその隙間から、ソファの内部へと潜り込んだ。
その先には質素な一人用の病室という風な部屋が広がっていて、母親はベッドの上に腰をかけて泣いていた。母親は顔も上げずに問う。
「あなたが殺したんですか。」
僕は首を横に振った。母親は見もせず泣き続けた。アイツならこの状況で何を言っただろうか。まず不思議なのはソファの中にこんな部屋があること、その部屋には一人の女がいて、彼女はおそらく母親で、さらにその子供がさっきソファの隙間から生まれてきて途端に破裂した。正直言ってどこから手を付けていいのか分からない。僕は考えることを止め、コツコツと床を鳴らして近づき、少し間隔を開けて母親の隣に腰をかけた。ベッドが1.1人分沈み込む。母親は泣いたままだ。だが僕は喋りかけることができない。喋れるのは紛れもなく彼女の方だった。能力のある人間は時間の圧力に屈して動き始める。母親は多少落ち着きを取り戻した頃、語りだした。
「あの子はかわいい子だった。あの子は私が産んだわけではないしつくってなんかもいないけれど、ここから出て行くまでの間は私があの子の母親だった。あの子が全てだった。ここにはあの子と私と私たちの必要とする物以外何もない。私もあの子もお互いにお互いが必要だった。きっとまだ私が付いていてあげなくちゃいけなかったんだ。それなのに私は無責任にあの子を……。」
語ろうが満ち足りるなど程遠く、途方もない虚しさに母親はすすり泣きを延長する。僕はその母親の肩に手を置き、彼女の温度が伝わってくると手を側に戻し、来た道をまたコツコツと鳴らし部屋へ帰って行く。最初入ったときには簡単だったことが、今度は出て行こうとするとなかなか難しい。時代を超えるほどじゃないが、出て行くまでにはとても時間がかかった。もう夜は深かった。午前2時28分、何百万人という数が死について考える時間に一人の生命が産声を上げた。




