10-3.抜け殻
首が折れそうなほどに重苦しい雰囲気の中でも、気になることは別にあった。
諸々の説明や紹介が終わり、流れが解散に傾くと、誰よりも早くに部屋を飛び出し、気づいた時には廊下を駆けていた。
目的地は定まっていた。その扉の前まで迷うことなく到着すると、そこで壊れかけたドライヤーのように吐き出される自身の呼吸に気づき、息を整えようと努める。
それが焦りなのか、あるいは不安や恐怖の類か、何にしても、できるだけ歪な感情を持ち込んではいけないと、そう思いながらコマザワは手を――熊手を持ち上げていた。
扉をノックする。扉の向こうから、微かな物音がクマの耳に届く。
声は聞こえなかった。しなかったのか、できなかったのかは判然としない。
再度、扉をノックしようかと迷ってから、コマザワはゆっくりと手を下ろした。時間をかけて整えた呼吸を糧に、静かながらも扉の向こうに届く声を発していく。
「ユーマ、大丈夫か?」
コマザワの声に静寂が返る。反応がないことに不安を懐いてはいたが、部屋の中から聞こえる物音は生きて聞こえていた。
大丈夫だと言い聞かせながら、コマザワは静寂以上の反応を待つことにする。
それ以外、今のコマザワに取れる手はなかった。
「コマザワくんかい……?」
扉の向こうから這い出るような声が耳に届き、コマザワはゆっくりと安堵の溜め息をついていた。頭の中で首を擡げていた悪い予感が無事に萎れていく。
「ああ、そうだ」
できるだけ声音に不安や安堵の色が乗らないように、コマザワは気をつけながら返答する。
そこから、再びの静寂が続く。その時間がユーマは本当に大丈夫なのかという不安を育てるが、今のコマザワには待つ以外の手段が取れない。
「心配させて、しまったよね……?」
無機質な扉は動く様子もなく、向こう側からユーマの声が響いてきた。声はとても弱々しく、赤子の寝息でも吹いて消えてしまいそうだ。
「謝ることなんてない」
ミトの話では、ジュンの生死までは触れられていなかった。ジュンによって逃がされたミトが、その後のことを知っているはずもないので、それは当然のことだろう。
ジュンは未だ生きているかもしれない。
その可能性自体は消えていないが、超人と遭遇した事実が、深手を負ってしまった事実が、その希望を持つことすら許してくれていなかった。
弟を失った。それもユーマにとってかけがえのない弟だ。怪人ではない、真人間であるユーマが怪人組合に協力しようと決意するほど、大切に思っていた弟だ。
その悲しみは大切な家族を失ったことのある人でも、想像し切れないほどのものであるはずだった。
悲しみに暮れることは当然だ。寧ろ、悲しみに暮れないことの方が異常だ。
あそこまで愛していた弟を失って、平然としていられる方が気持ち悪い。
「ご、めんね……」
そうだとしても、そう言われたとしても、謝罪の言葉は扉の向こうから聞こえてきた。僅かに嗚咽を感じさせる、少し詰まった声でコマザワの足元に転がる。
転がる言葉を見下ろすように、視線を下げたコマザワの表情が少し歪む。悲しみと僅かばかりの憤りがコマザワの心に小さく芽生える。
ユーマの反応に怒っているわけではない。ジュンを奪った超人が憎いわけでもない。
こういう状況に陥って、目の前で悲しむ友人がいるというのに、慰めの言葉一つも真面にかけられず、励ますこともできない己の無力さを感じて、コマザワは憤っていた。
「謝るな……」
引き摺られるように小さな声で、コマザワは呟く。
気づいていた。コマザワの最初の問いかけに、ユーマは未だ答えていない事実に。
気づいていた。ユーマの声を聞いても、未だ消えてくれない不安があることに。
気づいた時には、拳を握り締めるように力を込めていた。コマザワの中で確かな形を持っていく不安が、不器用なクマの手に人ほどの器用さを与えていく。
「どうしたら、いいと思う……?」
扉の向こうからユーマの声だけが聞こえてくる。それ以外の物音は聞こえない。未だユーマは動く気配がない。
「何をだ?」
「これから」
ユーマはそれだけ告げてきた。どうしたいのかという願望も、何を聞きたいのかという要望も、そこには含まれていない。
漠然とした将来を問いかける質問が、コマザワの不安を駆り立てる不穏さを伴っていた。
「悪いことを考えているわけじゃないよな?」
確認するように――あるいは、押しつけるように――コマザワはそう聞いていた。
そう聞いてしまっていた。
その確認が必要なものか、思ったとしても口にしていいものだったのか、そういうことに頭が回る前に、口が疑問を言い放ってしまっていた。
「心配、しなくていいよ」
ユーマの声が聞こえ、まずは安心する。
「何かをしようと思ってないんだ」
そして、続いた言葉にコマザワは眉を顰める。
それは寸前までにコマザワが考えていた悪い想像と、少し違う形で歪んで進むものに聞こえ、コマザワの中で萎みかけていた不安が息を吹き込んだように膨らんだ。
「何もしようと思えないんだ」
訂正するようにユーマが言った。
「憎いと感じる気持ちも、もう何もかもも捨て去りたいという感情も、何もないんだ。ジュンがいなくなったと聞いて、それが分かってしまって、もうどうでもいい気持ちなんだ」
圧倒的な虚無感に襲われ、何も思わなくなってしまった。ユーマはそう続けた。
もしかしたら、ジュンを失ったことで憎しみに駆られ、ユーマは間違った方向に突き進むかもしれない、とコマザワは恐れていた。
もしかしたら、ジュンを失ったことで絶望に襲われ、ユーマは自ら命を絶つという選択を取ってしまうかもしれない、とコマザワは恐れていた。
それらが明確に否定されたと思えたら、少しは喜んだ方がいいのかもしれない。
が、そうならないだけの重さがユーマの言葉には宿っていた。
もうどうでもいいと告げた無気力さは何かに向かうものではない。
何かに向かうための原動力、その全てを失ってしまい、空っぽの抜け殻となってしまったと伝えてくるものだ。
それは死ぬことも、復讐することもない代わりに、生きるということも行わない、緩やかな形で死に続いていくだけの置き物となってしまうことを意味していた。
死ななければそれでいいわけではない。ただ無気力に命を繋ぎ止めるだけの人生は、既に死んでいるものも同然だ。
それが生きながらに起きてしまっていることを思えば、それは死ぬことよりも悲しいことかもしれない。周りの人から見て、辛く感じてしまうことかもしれない。
そこにユーマが陥ろうとしている事実を知って、コマザワは全身を震わせていた。
そんな風にしてはいけないと、そんな風に思わせてはいけないと、コマザワは強く思った。
「やることなら、たくさんあるだろう?」
「例えば……?」
そう問われ、コマザワは言葉に悩む。何を言えば、ユーマは確かな形で繋ぎ止められるのかと考えてみるが、今のユーマにコマザワの言葉が届くとは考えづらい。
もしもユーマが聞くとしたら、それはジュンの言葉だろう。それが用意できたらいいのだが、ジュンをここに連れてくる手段は残念なことに存在しない。
なら、どうすればいいのか。コマザワは考えながら、俯く。
そこで自分の身体を目にした。毛むくじゃらのクマの身体だ。握り締められた熊手も見つめて、コマザワは思い出していた。
「ネコに餌をやらないといけない」
コマザワはそう言っていた。
「ネコ……?」
「ジュンがやっていたことだ」
「それはジュンの代わりをしろっていうことかい?」
扉の向こうからそう聞かれ、コマザワは見えもしないのに、かぶりを振ってしまう。
「代わりじゃない。代わりとかじゃない。ただジュンの思いを継いで欲しいんだ」
引き摺るのではなく、繋げて欲しい。ジュンの思いも、ユーマの日々も、全てが明日に続いて欲しい。
ただ単純に生きて欲しい。振り返りながらでもいいから、ほんの少しでも前向きに生きて欲しい。
コマザワはそのささやかながらも、確かな気持ちを伝えるために――伝わるように声を震わせて、ユーマに届けていた。
それを聞いたユーマからの返答が止まる。どう思ったのか、どう感じたのか、その答えが扉の向こうで滞る。
「少し眠ってから考えてもいいかな?」
しばらくして、ユーマは問いかけるように聞いてきた。それを否定する理由をコマザワは持っていない。
「ああ、ゆっくりでいい。考えて欲しい」
「うん、そうするよ」
「じゃあ、また明日」
「うん、おやすみ」
会話に蓋をするようにそう言いやって、コマザワは扉に背を向ける。そのまま足を動かそうとして、動きを止めた。
しばらくして、扉の向こうからユーマがベッドに潜り込む、微かな音が聞こえてくる。
その音を聞いたコマザワの心はようやく落ちつき始め、今度こそ、本当にコマザワは扉の前から立ち去るのだった。




