9-20.反省する半生
クリサンセマムカンパニーが喚阿商会と話し合いの場を設けるまで、ヒマリ達に与えられた仕事は待つことだった。もちろん、実際に場がセッティングされた後の想定などは十分に可能であるが、未だ詳細な条件が組まれていない中でのシミュレーションは状況が限られてしまう。
それがどれくらい有効か分からない中で、無駄に神経を磨り減らすことをする必要もないだろうと、ヒマリはゆっくりと休むことをシト達にも勧めていた。
そのぽっかりと空いた空白の期間の内に、ヒマリは一つ気になっていることを処理したいと考えていた。そのためにヒマリはリビングから出ると、一つの部屋の前で立ち止まる。
扉をノックする。中から物音が聞こえ、すぐに返事の声も聞こえたが、その声に返答をしなかったからか、あるいはヒマリがそこにいると察したのか、寸前に聞こえた声色とは全く違う表情のキクノが扉の隙間から顔を覗かせていた。
初対面の時から、大半はこの表情をしていると思わせるほど、顔に張りついた仏頂面で、キクノはヒマリを軽く睨みつけてくる。
「何?」
声は針を仕込んだように刺々しく、ヒマリの耳に突き刺さった。敵意や殺意すら感じてしまうほどの雰囲気だが、ヒマリは特に気にすることなく、この場に足を運んだ用件を口にする。
「逃げなかったんだな」
ヒマリが今もこの部屋にいることを確認するように言うと、キクノの眉がピクリと動いた。
「逃げた方が良かった?」
突っかかるように疑問をぶつけられ、ヒマリは少し首を傾げてから、「どちらでも良かった」と率直な感想を口にする。
「逃げるかもしれないとは思っていたが、それを選ぶなら、それで構わないと思っていた。元よりお前を家に突き返すつもりはなかったからな。家を出たいなら、好きにするといい」
「何か、嫌な言い方……」
キクノはギロリとヒマリを睨みつけてから、吐き捨てるように言葉を呟く。分かりやすく機嫌を損ねたという振る舞いで、部屋の中に戻っていってしまうが、ヒマリはそう思わせた理由が分からず、困ったように頭を掻くことしかできない。
「何が嫌なんだ?」
「ここに連れてきておいて、私には端から興味がないみたい。どうせ、私の家のことしか見ていない。私なんて、お祖母ちゃんに近づく餌くらいにしか思ってないんでしょう?」
「まあ、そうだな」
キクノの指摘を正直に肯定すると、キクノはヒマリをキッと睨みつけてから、途端に力が抜けたように溜め息をついていた。
「何か知らないけど、貴方って裏の世界の……お祖母ちゃん側の人だよね? 雰囲気からして、堅気って感じじゃないし。その感じで、うまくやってるの?」
キクノの心配すら感じさせる言葉を聞いて、ヒマリは軽く首を傾げてみせる。
「さあな。本当にうまくやっていたら、ここにはいなかったのかもしれないな」
「普通はもうちょっと隠さない。何か秘密がある感じなのに、私が逃げようとしても止める気配もないし」
「逃げて話す相手がいたら、家出なんかしてないだろう? それとも、警察にでも飛び込むか? それもいいが、そういうのは好まないだろう?」
ヒマリが確認するように聞くと、キクノはぷくりと頬を膨らまして、小さな声で「ムカつく」と呟いていた。
「興味ない癖に、グサグサ芯を突くようなことを言ってくるの、腹立つ」
「そういう小賢しさだけが取り柄なんだ」
ヒマリは開き直るように言いながら、これまでのキクノからの変化を感じていた。逃げることなく、この部屋にいる理由も、そこにあるのだろうと察して、ヒマリは質問する。
「ミライが何か言ったのか?」
その問いにキクノの動きがピタリと止まり、ヒマリから目を逸らしたまま、やや震えるような声を口から漏らしていく。
「あの子、何があったの? 何かしたの?」
「俺は何もしてない。が、詳しくは言えないが、いろいろとあったのは事実だ。まあ、それでも、前向きには生きようしているがな」
「何かさせるつもりなの?」
「俺が何かをさせるつもりはない。全部、あいつ自身が選んだことだ」
「良く分からないけど、それを止めるのが貴方達の役割じゃないの?」
「悪いが、あいつを止められるほどに俺は善人じゃない。止めて、納得させられるほどに賢くもない。俺にできることはせめて迷わないように道標を作ることくらいだ」
ヒマリの返答は質問の曖昧さもあって、具体性を欠くものだった。そのためか、ヒマリが何を答えても、キクノが納得した表情を浮かべることはなかった。
それでも、仕方がないとヒマリが思っているように、キクノも思っていることだろう。ヒマリが曖昧な返答しかしないように、キクノも曖昧な質問しかしようとしていないのは、その先にあるものが簡単に踏み入れていいものではないと察しているからだ。
それなりの覚悟がないと触れてはいけないことがある。そのことをキクノは家柄からか、既に知っているのだろう。
キクノは部屋の中でヒマリに背を向けたまま、ぽつりとその場に零すように言葉を呟き始める。
「あの子と話していて、私は自分が思っているよりも、家のことを知らないことに気がついたの。家のことも、周りの人も、碌でもないとか思っていながら、実際のところは何をしているのかとか、そういう部分をちゃんと知ろうとしていなかった。その方がいいって思ってたから」
「まあ、それはそうだろうな。正しい判断だ」
不用意に情報を得れば、キクノの存在にいらない付加価値がついてしまう。それはキクノの立場を強める一方で、キクノの身の安全も十分に保障されなくなることを意味している。
家出する隙もないほど、キクノの周囲に監視の目が置かれていないのは、キクノが踏み込もうとしなかったからだろう。
知ることで自身の身を守っているトムとは対照的に、キクノは知らないことで自身の身をうまく守っていた。それは間違いないことだった。
「けど、私は何も知らない家のことを拒絶した。具体的に何をしているかとか、そういうことを知る前から、嫌って避けた。自分自身はそういう名前だけで嫌われることを一番恐れていたのに、私は平然とそれをしていた。そのことに気づいちゃった」
自身の生まれに背を向けて、走り去ろうとしていたキクノだったが、その途中で一度も振り返ったことがないことに気づいた。ただ家の名前で判断されることを嫌いながら、家の名前で判断している自分がそこには立っていた。
そのことにどうして気づいたのかは分からないが、気づいてしまった以上は見て見ぬふりをできないようで、キクノは部屋の中で立ち止まったまま、どうしていいか悩んでいるように見えた。
「さっきも言ったが、お前が望むなら、この部屋から出ていくことも止めない。その理由が逃げ出すことではなく、前を向くことでも同じことだ。家に帰るなら帰るといい。一人が厳しいなら、ミライでも犬でもつけてやる」
ヒマリがキクノの背中を押すように告げると、キクノはゆっくりと振り返り、ヒマリの顔を見上げていた。その表情は逢ってから、今までに見たことのないほど、穏やかなものだ。睨みつけるわけでもなく、ただ見つめられているのはヒマリがキクコの名前を出してから、初めてのことかもしれない。
「お祖母ちゃんが何をしているか、ちゃんと見てみたい。でも、家に帰って、それを伝えても、見せてくれるとは思えない」
「まあ、そうだろうな」
キクノが知らないことを選んだように、キクコもキクノには教えないことを選んだから、今の距離感があるはずだ。キクコはキクノがいろいろなことを知って、自身に近づけば近づくほど、キクノの存在が自身の弱点となると理解していたのだろう。
今の距離感はキクノを守るためにキクコが用意したものでもあるのだ。
「どうしたらいいと思う?」
ヒマリが最初に向けたのだから、キクノから正直な言葉が出てきても不思議ではなかったが、このタイミングでそれを出すのかと、ヒマリは頭を掻くこととなった。キクノは知らないのだろうが、ヒマリに相談するタイミングとして、あまりに最適であることに、才能の恐ろしさを感じずにいられない。
ヒマリは少し迷うように息を吐いてから、部屋の中にいるキクノにゆっくりと近づいていく。
「一つあるが、それを話す前に一つ約束してくれ」
「約束……?」
首を傾げるキクノに、ヒマリは一度、自身の背後を気にしてから、話すための条件を突きつける。
「何があっても、ミライの手を握ってあげてくれ」
「えっ? う、うん。それくらいは当然……?」
ヒマリの突きつけた条件が意外なものだったのか、キクノはきょとんとした顔をしてから、当たり前のようにそう答えていたが、それが嘘ではないことをヒマリは心の底から祈ってしまうのだった。




