3話 出会2
「私は久遠千景よ!」
千景は胸に手を当て、堂々とそう名乗った。
「それでね、最初に聞きたいんだけど――」
そこで一度、言葉を止める。
ほんの一瞬だった。
千景の表情が、わずかに強張る。
「先生と、常盤凪紗は……どういう関係?」
その名前を口にした瞬間だった。
自信に満ちていた千景の表情が、わずかに歪んだ。
憎悪。
後悔。
あるいは――助けを求めているようにも見えた。
いくつもの感情が混ざり合い、赤い瞳の奥で濁っている。
暁人には、その理由がまるで分からなかった。
常盤凪紗。
暁人の家の近所に住んでいる、ごく普通の高校生だ。
幼いころから家族ぐるみの付き合いがあり、気づけば十年以上一緒にいる、いわゆる幼馴染というやつである。
成績は普通。
性格は穏やかで、誰かに頼られると断れない。
容姿だって、客観的に見れば可愛い方だと思う。
ただ、小さいころから一緒にいたせいだろうか。
周囲が言うほど、暁人自身が凪紗を異性として意識したことはなかった。
少なくとも――目の前の少女から、これほどの敵意を向けられるような人間ではない。
「……ただの幼馴染だけど」
千景の気迫に押され、暁人は小さく答えた。
「…………」
返事はない。
千景が、じっと暁人の目を覗き込んでいる。
一歩、近づく。
「…………」
さらに一歩。
「えっと……近いんだけど」
思わず暁人が身を引いた。
だが千景は構わない。
その赤い瞳は、暁人の奥底にある何かを確かめようとしているかのようだった。
そして――
「先生は、常盤凪紗のことが好きなの?」
「は?」
「なにぃ!?」
なぜか清志が暁人以上に大きな声を上げた。
教室に残っていた生徒たちが一斉にこちらを見る。
「やっぱり怪しいと俺は思ってたんだよ! 暁人と凪紗ちゃんはもう長年連れ添った夫婦みたいなもんだからな。うん。知ってた!」
「お前は何を知ってたんだよ」
勝手に腕を組んで納得している清志を、暁人は無視した。
「好きとかは別にない。家が近いから登校が一緒だし、小中高とずっと一緒だからってだけ。腐れ縁だよ」
暁人は、凪紗に対する自分の評価を正直に口にした。
「…………」
だが、その答えに納得していないのか。
千景はさらに一歩、ぐいっと距離を詰めた。
「お、おい……!」
思わず暁人は後ずさる。
しかし、その速度を上回るように千景が迫ってくる。
一歩下がれば、一歩。
もう一歩下がれば、さらに一歩。
気づけば、唇と唇が触れてしまいそうなほどの距離まで追い詰められていた。
近い。
あまりにも近い。
鮮やかな赤い瞳と、暁人の黒い瞳。
互いの瞳に、互いの顔が映り込むほどの距離。
千景の吐息が、暁人の唇をかすかに撫でる。
身体のどこにも触れられていない。
指一本、触れてはいない。
それなのに――千景という存在そのものに、全身を覆われてしまったような錯覚に陥る。
「じゃあ……」
千景の唇が、ゆっくりと動いた。
その瞬間。
教室中の視線が、二人へと釘付けになった。
部活へ向かおうとしていた者も。
帰宅しようとしていた者も。
廊下から騒ぎを覗き込んでいた者も。
誰一人として、その場を動かない。
先ほどの質問。
この距離。
そして、千景が次に紡ごうとしている言葉。
誰もが固唾を呑んで、その続きを待っていた。
千景の顔が、さらに近づく。
「ちょ、待っ――」
唇が重なる。
そう思った、その寸前。
千景はするりと顔を左へ逸らした。
銀色の髪が、暁人の頬をさらりと撫でる。
そして、その唇を暁人の耳元へと寄せた。
甘く。
囁くように。
どこか艶美な色香さえ漂わせながら――千景は静かに問いかけた。
「常盤凪紗が死ぬとしたら――」
「…………え?」
その言葉だけが、場違いなほど冷たく響いた。
暁人の身体が固まる。
千景はそのまま、耳元で続きを囁いた。
「先生は――凪紗を見捨てることができる?」
「…………」
まるで、世界から音が消えたようだった。
先ほどまで二人を面白半分に見ていた者たちからも、声が消えている。
暁人はゆっくりと千景を見る。
近すぎて、その表情のすべてを見ることはできない。
ただ――
すぐそばにある赤い瞳だけは、はっきりと見えた。
憎んでいるようにも見えた。
怯えているようにも見えた。
そして何より。
その瞳はまるで――
今度こそ違う答えを言ってくれと、暁人に縋っているようだった。




