2話 解き放たれた少女
二〇六七年、一月 午前三時
警報が鳴り響く中、移動するストレッチャーの上で少女は目を覚ました。少女の手足はベルトで固定されており、いつも通り真っ白な病衣を着ている。
消毒液と血の臭いが鼻を刺激し、少女は朦朧とする意識の中、今の状況を把握しようと頭を起こした。自分を乗せたストレッチャーを押す男の顔が見えたが、その顔は恐怖でひきつっており、何かから逃げる事に必死なのか少女が目を覚ました事に全く気付く様子は見られない。
周囲を見回すと数人の男性が武装しており、少女を守るかのように囲んでいた。辺りでは叫び声、怒声、泣き声、呻き声が絶え間なく響いている。そんな中、ガチャガチャと耳障りな音をたてながら走り続けるストレッチャー。
少女は男たちの向こう側、流れ去る景色へと注意を向けると廊下の両側には様々な名前の部屋が並んでおり、少しだけ開いているドアの隙間から中の様子が把握出来た。
白衣を着た研究者と防護服を着た人間が『人の形をした何か』に襲われていた。一見すると人間なのだが、よく見ると腕が長く、爪や歯が鋭く尖っていたりと所々人間離れした部分が目に入る。
建物の外に出るとヘリコプターのローターがうなりをあげて回っており、傍らにいた男達が少女をストレッチャーごとヘリコプターに乗せると、それに続くように数人の研究者も乗り込み、ヘリコプターは直ぐに離陸し始めた。
「どうしてこんな事になったんだ!」
離陸直後に一人の四十代程の男性研究者が怒鳴り声を上げた。
「そんなの俺達が知る訳ないだろ!」
もう一人の研究者が反発し、男達は今の状況を素直に受け止めきれず、お互いのストレスをぶつける様にみっともなく怒鳴りあいを始めたが、離陸して数時間が経過すると、離陸直後から始まった男達の怒鳴りあいも無くなり機内は静まり返っていた。
少女はストレッチャーの隣にいる研究者へと視線を向ける。
「うッ……お、起きていたのか?」
二十代前半のいかにも新人というような身なりの研究者は少女の視線に気付き、恐る恐る横たわる少女に声をかけた。
「……起き、てた」
少女の声は弱々しく酷く掠れ、抑揚も無いせいか、ローターの回る音で声はかき消され研究者の耳には全く聞こえていない。だがそれも少女にとっては無理もない事だった。数週間前まで身体中を切り刻まれた挙げ句、臓器まで取り出されていたのだ。いくら身体が再生出来るといっても精神面、心と身体の疲労感は全く回復しない。
そして今では他の実験でこの数週間、何も食事は与えてもらえず唯一与えられるのは水だけで普通の人間ならば死んでしまってもおかしくない。
「そ、そうか……」
研究者は元々話を続ける気が無かったらしく、聞き取れなかった少女の返事にてきとうに答え目を逸らせると直ぐに手元のクリップボードへと視線を戻す。
「……ど、こに……何処、に、向かってる、の……?」
少女は今度こそハッキリと相手に分かるように尋ねた。
「わ、悪いけど、君には教えられないんだ。あ、あと、出来れば……だけどこれ以上僕には話かけないでくれ」狼狽える姿を見せたものの研究者は素っ気なく答え、少女もそれっきり何も尋ねなかった。
少女は辺りを見回すと少し離れた所に置かれている荷物が目についた。その荷物は他の物よりもパンパンに膨らんでおり、詰め込まれた物が多いのかチャックが完全には閉じられておらず、開いている隙間からは食料がとび出している。
食べ物を視界に入れた途端あまりの空腹で口の中に唾液が広がり、お腹からゴロゴロと音が鳴った。数人の男達が音に気付き少女へと視線を向ける。
今の少女にとって目の届く範囲に食べ物があるという状況はとんでもなく堪え難い物だった。少女は数週間の絶食で堪りに堪った空腹を抑える事が出来ず、何とか食べ物を手に入れようと必死に何度も手足を動かそうとするがベルトでストレッチャーにきつく固定されているため当然のように動く事が出来ない。
少女の行動に気付いた男達は少女が何をしようとしているのか直ぐに見当がついたが誰も止めようとはせず、無駄な行動でただ体力だけを削っている少女に呆れたような視線を向けるだけで、中には失笑する者すらいた。だがその事にも全く気にすることなく、少女はストレッチャーの上で何度も手足を動かそうと試みるが――
「オイ! 何見てんだ!」
突然、武装した男に怒鳴られ、驚いた少女は慌てて視線を荷物から離す。
「うるせぇぞ! 大人しくしてろ、怪物め!」
武装した男は少女に近付くと耳元でドスの利いた声で暴言を吐くと髪を乱暴に掴みストレッチャーに叩き付けた。
「うっ!」ガン! という鈍い音が響き少女は痛みで顔を歪める。
「俺、思ったんだがよぉ……研究所の周りにいた怪物も、防壁を乗り越えて来た奴等も実はお前がおびき寄せたんじゃないのかぁ? 違うのか違わないのか応えろ! 糞っ――何とか言えよ! このっ怪物めッ!」
武装した男は理不尽に少女を怒鳴りつけると頭を何度も叩き付けた後、ブツブツと嫌味を言いながら足で食料の入った荷物を押しやり、少女の見えない所まで移動させ男は少女を睨み直ぐに顔を反らした。
“これだから人間なんて……”
「暴れなきゃいいのに……」
別の男が小声で呟くと少女は声が聞こえた方へと視線を向ける。
「な、何だよ……何かようか?」
男は一瞬たじろいだものの直ぐに敵意をむき出しにして少女を睨み付けた。
「……何でも、な、い」
“この人達に逆らうとまた理不尽な暴力を受けてしまう……”そんな考えが頭の中をよぎり少女は手足を動かす事を止めた。
“もう……いいや”希望や尊厳も何一つ持つ事さえ許されず、あまりにも理不尽で残酷な運命を与え続けられた少女は、自らの意志や感情を持つ事を諦め、これからも自分に起き続けるであろう残酷な運命を受け入れようとした――――――
「う、うわああぁぁ! な、何だこいつら!」
不意に操縦席の方からそんな悲鳴が聞こえ、男達は慌てて操縦席の方へと視線を向ける。
「ど、どうした? 何があっ……ひぃっ……!」
一人の男が操縦席の方へと向かい目の前の光景を見て情けない声を上げ、男は口元を抑えその場にしゃがみ込んだ。他の男達もその光景を目撃した途端に顔色が真っ青になる。
ヘリコプターのフロントガラス一面に、体長二十センチ程もある“蠅のような生物”がびっしりと埋め尽くす様に張り付いていた。
“蠅のような生物”は全身が黒光りする皮膚に覆われ、体の所々が獲物を捕らえる為なのか鉤爪の様に鋭い形に変形しており、怪物と言ってもいいようなその風貌は元々の蠅とは面影等全くと言っていい程感じられない。
「あ、ああ……」
幾つもの真っ赤に染まった複眼が、獲物を狙っているかのようにコックピット内を凝視する。それだけではなく蠅達は非常に攻撃的なようで、変形している部位を驚くほどの力で何度もフロントガラスにぶつけていた。変形している部位はかなりの強度があるらしく、ぶつけるたびにガンガンという大きな音が機内に響き渡り、あっという間にフロントガラスに小さな亀裂が入る。
蠅達はひびが入った所に無理矢理口を捩じ込むと消化液を噴出し徐々にひびを自分達が入れるような穴へと広げていく。その光景は、もはや悪夢としか言いようがなかった。
「うわあああぁぁぁぁ!」
一人が、桁外れの恐怖に耐えきれず悲鳴を上げた途端、それが合図だったかのように他の男達も次々と叫び声をあげる。
男達の悲鳴はあっという間にヘリコプター内を満たし、パイロットも目の前の光景を見て冷静でいられるわけがなく、ヘリコプターは次第にバランスを失っていく。
「なっ……ま、まずい!」
ヘリコプターのバランスが崩れた時の衝撃で何とか冷静さを取り戻した別のパイロットが急いでヘリコプターの体勢を立て直そうとするが、目の前のフロントガラス一面に蠅が張り付き前がろくに見えない状態では操縦など出来る筈もなく、ヘリコプターは制御する事が出来なくなりぐるぐると回りながら落ち始める。
「な、何かに掴まれ!」
武装した男が叫ぶ。研究者達は男の指示に従い直ぐに身近にある物にしがみついた。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」
まるで壊れたかのように叫び続けている者もいれば、泣いている者、パイロットに向かって「何とかしろ!」と怒鳴って無茶を言っている男達が見える。
“墜落したらどうなるのだろうか? かなりの損傷で修復能力が発揮せず、そのまま死んでしまうのではないか?”不意にそんな疑問が少女の脳裏に浮かぶ。
“もし……墜落しても生きていたらどうなるのだろう――たとえ生き残っていたとしても、ヘリコプターの墜落を知った研究者の仲間に直ぐに捕まり、また理不尽な実験を続けられるのではないか? そうなるのならば、もういっそ――でも、死ぬ事が出来たなら? いくら修復能力を備えた寄生虫の細胞とは言っても完全に燃えてしまえば……墜落してどんなに強い痛みを受けたとしても、一瞬だけの痛みで直ぐに楽になれる……”
「お、落ちるッ!」男達が口々に叫ぶ。
ヘリコプターは空中で何度も転がり少女は吐き気がした。ストレッチャーは倒れ、その拍子に破損したらしく、少女を拘束していたベルトはその効力を無くし少女は床へと投げ出され転がり激しく身体全体を打ち付ける。
「――うッ」呻き声が漏れ、身体を起こすと、「――ヒィッ!」一人の研究者が少女を見て悲鳴を上げた。
“こんな絶望的な状況でまだ、何をそんなに怖がる事があるのだろう……”
少女は研究者の視線が気になったが、近くに落ちているガラスの破片が視界に入った途端、研究者が何に怯えていたのかその正体が理解出来た。
“あぁ……私は何て表情をしているのだろう”
それがガラスに映る自分を見て一番最初に感じた事だった。
少女は自由になった腕を持ち上げ、自分の口元に触れる。
「ア、 アハハ……ハハハ……どうしたんだろ? 私……」
少女の口角は不気味に歪み、うっすらと笑っていた。
「――ッ!」
少女の酷く掠れた笑い声は、この絶望的な状況の中ではかなり異質な物だった為、笑い声は機内に響き渡り、それに反応した数人の男達が少女を見て声にならない悲鳴を上げる。
“何で笑っているんだろう……ぁあ……でも、もうどうだっていいや……これで、もう苦しまなくてすむ、やっと終われる……これで――”
不気味に響く笑い声。それは自分に酷い事をし続けた研究者達の哀れな姿を見てではなく、やっと苦しみから解放されるという安堵からくる物だった。
頬に水滴の様な物がつたう。
「……やっと死ねる――」
その時、少女の耳に何処かでガラスが割れる大きな音が聞こえ、蠅達がフロントガラスを突き破り、数えきれない程の数がヘリコプター内に雪崩れ込んで来る。
蠅の群れは目の前の男達を一瞬の内にのみ込むと少女目掛けて一斉に押し寄せて来た。
蠅の群れが少女の一メートル先にまで迫って来た時、大きな音と共に地面に激突する強い衝撃がヘリコプターに加わり、ヘリコプターはあっという間に炎上し見るも無残な状態へと形を変えた。
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