3話 様変わりした日常
東京都、午後四時十分
その男が外に出てかなりの時間が経過していた。街灯が一つも生きていないその街は不気味と呼べる程に静まりかえり、道路には人っ子一人いない。
そんな廃墟と化した街並みを爬虫類みたいに感情が乏しい様に見える両眼が何かを探る様、周囲の建物へと視線を走らせる。
その男、『ロギア・オルバース』はその色白の肌に大粒の汗を流しながら荒い呼吸を繰り返していた。荷物がパンパンに詰まったバッグを肩に担ぎ、足早に廃墟となった街を通り抜けて行く。常日頃、髪の手入をしてないせいもあるが長く伸びた髪の毛が汗と血で汚れ、額にべっとりと張り付く事に不快感を覚えながらも髪をかき上げる。
「流石に――そろそろ切らないと邪魔臭いな……」ロギアはそう呟きながら、なんとなくその匂いを嗅ぎ、そのあまりの悪臭に顔が歪む。
「駄目だ――不潔だな……これじゃあ……」
自分のその現状に軽くショックを受けながらも、その脚は歩みを止める気配は無く、街を抜け見渡す限り誰もいない荒野の中を進んでいた。
「――」
不意に耳に聞き覚えのある獣の甲高い鳴き声が響き、ロギアはピタリと足を止め慎重に音がした方を探る。すると二十五メートル程離れた場所に音を出した獣の姿を確認する事が出来た。甲高い鳴き声を出したのは体長が百七十センチ程あるであろう大人の鹿だった。
近くにある瓦礫に身を潜め鹿の様子を伺うと、鹿は既に何者かに襲われた後だったらしく、かなりの深手を負い足を引き摺るように移動している。
更に詳しく鹿の状況を把握する為、背負っているバッグから双眼鏡を取り出し、二十五メートル程先にいる鹿が奴等に寄生されていないか調べる事にした。
瞳の色を見て紅く染まっていない事を確認すると、続いて傷口が何によって出来た物なのかを見る。双眼鏡を使っても鹿との距離がかなりある為、詳しくは判別出来ないが、奴等によってつけられた物ならば殆どが抉られたような傷跡が多いので一目で判断する事が出来る。
鹿の傷口を見た限りでは傷跡は抉られておらず、銃痕に似ている事から銃によってつけられた物だと判断した。
そして最後に鹿の行動を注意深く観察する。そこまでの一つ一つの手順が一々手間がかかり面倒くさい物だったとしても今の世界では安全に生き残る為に決して欠かせないものだ。鹿は引き摺っていた足を止め周囲を警戒している様だった。
寄生された生物に見られる行動、同じ場所を何度も往復したり、身体中が痙攣を起こしている等の異常な箇所はこの鹿には何処にも見られない。
“よし……”
ロギアは久しぶりに普通の動物を見て胸が高鳴ったが、いくら鹿がボウガンの矢で一撃で倒せるような状態でも直ぐには仕留めようとはしなかった。その理由は簡単で自分よりも前に鹿を襲撃した奴となるべく鉢合わせする事を避けたかったからだ。
今ここで欲を出し過ぎて直ぐに鹿を仕留めて解体を始めてしまうと、その最中に鹿を襲った何者かに自分が襲撃される可能性は十二分にある。
安全を考えると、その襲撃者が姿を現した時には鹿を諦める方が良いのだが、ロギアはボウガンを構えたまま動きを止めた。
今の世界ではどんな食料でもかなり貴重とされており、高く取引されている。その中でも鹿の肉は中々手に入らない事もあり、かなりの値がつく代物だ。値がつくといっても現在では金銭での取引は殆ど行われておらず、全てが物々交換で取引が行われている。なのでどんな物でも持っていて損などはする事がなく、むしろ限度はあるが沢山物を持っていればそれだけ生き残っていく為に必要な物資が数多く確保出来るのだ。そんな事もあり、もしその襲撃者が現れても目の前の獲物を易々と諦めるつもりは無い。
襲撃してきた何者かと戦闘になった場合、身を隠す所が少ない場所で常に持ち歩いている狩用件護身用のボウガンとナイフだけでは非常に心許ないし銃は常に携帯してはいるが、発砲音で奴等を呼び寄せる危険性があるため緊急事態以外の使用は極力避けている。
そのため銃を使用する又は相手に使わせるような事態になるに事だけは出来る限り避けなければならない。勿論、襲撃者が複数人いた場合は諦めざる終えないが――
ロギアはしばらくの間鹿の様子を伺い、鹿を襲った何者かが姿を現すのを待つ事にした。
「……来ないな」
額から噴き出す汗をボウガンを離さない様服の袖で拭い取ると周囲へと視線を走らせる。待ち始めてから数分が経過しても一向に鹿を襲った何者かが姿を現す事はなかった。
鹿の方も相変わらず足を引き摺りながら少しずつ移動してはいるがロギアとの距離はさほど離れてはいない。
“まさか……鹿を追うのに夢中になり過ぎて、油断している所を奴等に襲われたんじゃないだろうな……だとしたら、とんだ間抜け野郎だな……”
鹿を襲った何者かに対してふとそんな事を思ったが、かくゆう自分も周囲の警戒を怠るというミスを何度もし、その度に命の危険を何度も体験している為、他人の事をとやかく言う事は出来ないのだが。
ロギアは日没の時間も近い為、これ以上待つ必要はないと考えボウガンを構えると慎重に鹿の首に狙いを付け、矢を放った。放たれた矢は真っ直ぐ飛んでいき、標的である鹿の首筋に命中する。矢は深々と首筋に刺さり、既に弱りきっていた鹿は痙攣を起こし時間をおかず絶命した。
動かなくなった鹿に近付くと厚手のゴム手袋をはめ解体作業に移り、回収出来るだけの肉を切り離す。それを終えると視線を鹿から外し、再び周囲をぐるりと見回した。
解体作業の最中にも周囲を警戒していたのだが、鹿を襲った何者かは結局姿を現さなかったのだ。
「奴等が近くにいるのかもしれないな……」
血の臭いに誘われて奴等が集まって来る可能性を考え、感じていた不安のようなものがいっそう強くなり背中を撫でる。
“急いでこの場から離れた方が良さそうだな”
切り離した鹿の肉をゴム手袋と一緒にビニール袋に入れるとそのままバッグに詰め込み急いでその場から離れた。
三百メートル程進んだ所で、ようやく肩の力を抜き、息切れを少しでも直そうと歩く速度を緩める。鹿の血の臭いを嗅いで奴等が集まって来たとしても、ここまで来れば一先ずは安全だ。
しかし安心したのもつかの間、廃墟となった建物の横を通り過ぎた時に辺りに漂う新鮮な血の臭いがロギアの鼻を刺激する。
「――ッ!」
再び肩に力が入り、恐怖、緊張からくる物なのか身体から汗が吹き出す。直ぐに周囲を見回すが建物や木材の瓦礫が目につくだけで他は何も見当たらない。
ロギアはボウガンを構えると、念のため臭いの原因となっている物を確認すべく建物の影になっている所へ視線を向け、その光景を直視した瞬間息を呑んだ。
そこには鹿を襲ったであろう何者かが、見た所年齢は四十代後半程である男が無惨にも身体を切り裂かれ、血まみれの状態で事切れていた。ほんの少し前までは生きをしていたのか、切り裂かれた身体からは未だに濃い血液が流れ出ており、かすかにだが男の死骸には少なからず体温が残っている。
更にゾッとさせたのは臓器を引き摺った様な跡が近くの草むらへと続いており、微かに咀嚼する様な音さえ聞こえる。
“俺もコイツの二の舞にならないようにしないとな……”
無惨な死骸を見て、先程の自分の考えを身に染みて痛感し、そして草むらへ注意を向けつつゆっくりと男の持ち物に使えそうな物がないか探し始めた。
死骸を漁る、という行為は数年前までなら考えられない事だったが今現在、《世界が終わってしまった後》ではその時の常識やモラル等はすっかり変わってしまっている。
“だから――恐らく今では生存している者のほぼ全ての人間がその《死骸漁り》を行っている筈だ。昔の様に綺麗事だけでは生き残って行く事なんて出来やしない、そんな奴は必ずその馬鹿げた考えに足を取られ直ぐに命を落とす――そう……綺麗事だけでは――”
驚いた事に男の死骸には物々交換に使えそうな物、時計等は一切身に着けておらず、唯一発見出来た物は死骸の近くに落ちている狩銃と背負っているバッグだけだった。
ロギアは死骸からバッグを剥ぎ取り中身を確認する。中には狩銃の弾と懐中電灯、ペットボトルに入った水、乾パン等が入っていた。それら全部を自分のバッグへと移動させると、近くに落ちている狩銃を拾い上げ、足元にある生気の無い顔を一瞥する。
“悪いけど、もうアンタには必要無いだろ? ……なら俺が代わりに使わせて貰うぞ、ありがとな”
勿論、何かが近くに潜んでいる状況もあり流石に声には出さなかったが一応心の中でその男の死骸に向けて感謝する。
自分でも馬鹿な事をしていると認識はしているが人と話すのは物々交換等、重要な時しかない為、何かしらある度に独り言、状況によっては心の中でそんな事を呟いてしまう。そんな自分に呆れつつも未だに聞こえてくる咀嚼音に耳を傾けながら急いでその場を跡にした。
世界が終わりを迎えた時、全ての人間に対し避難命令が出され、大半の人間は政府が決めた避難場所に移動する事になった。
しかしその避難場所も奴等の襲撃を受け瞬く間に壊滅してしまい、多くの人間が命と大切な物を同時に失う事になった。唯一生き延びる事が出来た人間も、奴等にではなく同じ人間から死の宣告を突き付けられる形になった。
政府は生き残っている人の中から少人数の民間人と技術者等の国の有能人材を選ぶと極秘で設立していた隔離地域へと移動し、隔離地域に入る権利さえ貰えなかった者達、権利を貰えた者、技術者でも政府が指定した場所に時間通りに来れなかった者達、いわゆる溢れ組は放浪者となり奴等からいつ襲われるか分からないサバイバル生活をおくらなければならなかった。勿論ロギア自身も隔離地域には入れず多くのものを失い、集まった数人の放浪者でコロニーを結成しそこで生活をしており今では他の放浪者も加わりけっこうな集団となっている。
暗くなる前に荒野を抜け市街地に入ったロギアは辺りを警戒しながら大通りを抜けた。
「この調子だと暗くなる前にコロニーに着けそうだな……」
人影が全く見当たらず生き物の気配さえない道を、コロニーへと向け歩を進めて行く。
静まりかえった街を歩き続け交差点の先にスーパーマーケットを見つけた。コロニー周辺の店には食糧等は既に取られており何も残っていないのだが、その内の数か所にはコロニーに住んでいる者達共有の施設等がある。
施設と言っても置かれているのは運搬が難しい機械や外では度々必要になる事が多い工具等が置いてあり、勿論その一つ一つにロックがかかっていて一応コロニーに住んでいる人間しか扱う事は出来なくなっている。見張りもかねて何人かはそこで生活しているのでよそ者に奪われるケースは滅多にない。
ロギアは丁度見張りの為に建物から出てきた男に軽く会釈をしその前を通り過ぎる。相手方も軽く手を挙げた。たまにあるこんな光景でさえロギアにとっては数少ない交流の一つだ。
スーパーマーケットを通り過ぎ、いくつか廃墟となった建物を潜り抜けた先、いつもとは全く違う景色に出くわし唖然とする。
「何だこれは……」
それは二百メートル先に輸送用のヘリコプターの残骸と黒焦げの何かが散らばっており、自分がいる距離にも焦げ臭さが漂い無残としか言いようのない光景に遭遇したのだった。
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