第6回 最後の証人、立て
審判所は、法の顔をした劇場だった。
白い石造りの大広間。高い天井。やたら響く足音。壁には歴代審判長の肖像画が並び、そのどれもが「私は感情では動きません」という顔をしている。たぶん若い頃は感情で動いていたくせに、描かれる段階になるとそういう顔になるのだ。権威とはだいたいそういうものである。
私はその中央通路を歩いていた。
足が重い。
理由は寝不足だけではない。昨夜、グランドマスターに突きつけられた一言が、頭のどこかに粘ついて残っている。
前世で負けた案件。依頼人の名前。
忘れたことはない。忘れられる種類の名前ではなかった。
「顔色、悪いわよ」
隣を歩くリリスが小声で言った。
「魔王軍法務部の威厳に関わる」
「うちにそんなものがあった時代、まだ来てないんだけど」
「では個人の問題です」
「もっと悪いじゃない」
審判所の傍聴席には、村人たち、ギルド関係者、記録係、小鬼が紛れ込んでいた。なんでいるのかと思ったらゴルムンが後ろから「社会科見学」と囁いたので、あとで怒ることにした。
「先輩」
「おう」
「なぜ小鬼に傍聴券が」
「泣けば通るかと思って」
「通ったんですか」
「通った」
「審判所の運営が心配です」
だが、そんな小さな混乱がありがたいくらい、場の空気は張っていた。
本件は「勇者」商標の無効審判、その前段階にあたる資格審理も兼ねている。ギルド側は正面から商標の有効性を守るだけでは足りないと見たのだろう。まず私を代理人席から剥がしに来た。
やることが実に嫌らしい。実に正しい敵である。
開廷前、私たちは控室に通された。
狭い。硬い椅子。冷たい水。壁に「私語は慎むこと」とだけ書かれた札。慎めと言われると逆に喋りたくなるのは、人類共通の反応だと思う。
私は机に書類を広げた。資格関係、出自の争点整理、代理権の法理構成、前例。積める理屈は積んだ。だが理屈を積めば積むほど、心のどこかが静かになっていく。嫌な静かさだった。嵐の前ではなく、倒れたあとに近い静けさ。
そこへ、扉もノックもなくグランドマスターが入ってきた。
相変わらず、礼儀作法のすべてを把握したうえで一番腹の立つ角度だけ外してくる老人である。
「失礼」
「本当にそう思うならノックを」
「今さら形式にこだわりますか」
「法務ですので」
グランドマスターは笑った。
「昨夜はよく眠れましたか」
「最低の挨拶ですね」
「眠れていない顔をしている」
「褒め言葉として受け取りません」
老人は私の前に立った。距離が近い。声は低い。親切に聞こえる音量で、人の古傷をえぐるのが上手い。
「あの案件で、お前は人を守れなかった」
私は無言だった。
「商標の普通名称化。証拠不足。敗訴。依頼人は廃業」
「……」
「正しかったかどうかではない。結果だ」
「わかっています」
「なら、なぜまた同じ土俵に立つ」
「今度は負けないためです」
「前もそう思っていたはずだ」
胃の底に、古い鉛が沈む。
会議室。白い蛍光灯。押印の音。依頼人の、無理に作った笑顔。先生、仕方ないですよ、と言われた時の、仕方ないわけがない感じ。
あの敗訴は、書類上は一件だった。だが人の人生にとっては、一件では済まない。
「お前は知っているだろう」
グランドマスターが囁く。
「証拠が足りなければ、どれだけ正しくても負ける」
「ええ」
「そして負けた法務は、依頼人のその後まで責任を取れない」
「……ええ」
「なら、今すぐ降りろ。これ以上、守れないものを増やす前に」
鎧の継ぎ目に、細い針を差し込まれる感覚だった。
的確すぎる。
私の一番深いところにある「法務である前に失敗した人間」という部分へ、迷いなく届く言葉だ。論理ではなく傷に入ってくる理屈ほど、防ぎにくいものはない。
グランドマスターが去ったあと、控室には数秒、何の音もしなかった。
その沈黙を破ったのは、リリスだった。
「最低」
短く、はっきり言った。
「え」
「今の。あいつ。最低」
「法的評価としては同意します」
「法的じゃなくても同意して」
彼女は机の向こうから私を見た。
怒っている。だが、私にではない。私が傷ついたことに対して、外に向けて怒っている顔だ。
それが妙に、効いた。
「……リリス」
「なに」
「もし私が資格を剥がされたら」
「信じる」
「証拠がなくても?」
「信じる」
「法務の人にそれを言いますか普通」
「逆よ」
彼女は一歩近づいた。
「あなたが今までずっと、証拠のあるものを信じてきたのは知ってる。でも私は、証拠がなくてもあなたを信じる」
「それは」
「たぶん、あなたが今いちばん持ってないやつでしょう」
参ったな、と私は思った。
書類では補えない種類の支えを、こういう場面で真正面から出されると、理屈の鎧が一瞬だけずれる。ずれた隙間に、少しだけ呼吸が入る。
開廷の鐘が鳴った。
私たちは法廷に入る。
高い壇上。左右の当事者席。中央には証人台。そこだけ、妙に明るい。あの場所はいつもそうだ。人が最も裸になる場所ほど、照明が強い。
グランドマスターはすでに着席していた。今日の彼は、もはや企業の代表というより、制度そのものの代弁者みたいな顔をしている。腹立たしいほど似合っていた。
審判長が口を開く。
「まず、代理人資格に関する申立てから審理する」
きた。
ギルド側は整理された声で主張した。私は外来者であり、前世の記憶という不正な知識を持ち込み、公平を損なっている。現地の資格制度に基づく正規登録も曖昧であり、重大案件の代理人として不適格。要するに、「強いから退場してほしい」を制度語に翻訳した文書である。翻訳精度が高くて嫌になる。
そして次に、私の前世の敗訴案件が出た。
「なお当該代理人は、前世において同種の普通名称化争訟で重大な敗訴歴があり」
書記官が読み上げる。
「その結果、依頼企業は事業継続不能に至ったとの情報もある」
傍聴席がざわめいた。
言葉は刃物より広く届く。しかも法廷という場所では、それが勝手に公的な重みを持つ。誰も詳細を知らなくても、「敗訴」「廃業」「守れなかった」と並べられれば、人は十分に想像してしまう。
私は立ち上がって反論しようとした。
だが、その一瞬、言葉が遅れた。
前世の会議室が頭をよぎる。依頼人の名前。閉じる店。最後の電話。あの時の「先生は悪くないです」が、今でも一番悪い。
審判長がこちらを見る。
「代理人、反論は」
言える。理屈はある。出自は資格欠格事由ではない。前世記憶の存在は不正取得知識にあたらない。同種敗訴歴は法的評価と無関係。
全部、言える。
なのに喉が一瞬だけ、動かなかった。
そのとき、傍聴席から声が上がった。
「証人申請します!」
場内がざわつく。
立ち上がっていたのは、トールだった。
場違いなくらい真っすぐに背を伸ばし、あの傷だらけの剣を両手で抱えている。村から持ってきたのだろう。布で丁寧に巻かれた鞘の先が、少しだけ震えていた。怖くないわけがない。だが、それでも立った。
「君は誰だ」
審判長が問う。
「トールです。村の……その、勇者って呼ばれてたやつです」
「本件との関係は」
「あります。すごく」
法廷が少しだけ揺れた。感情ではなく、空気が。
グランドマスターが眉をひそめる。予定外なのだろう。私も予定していない。していないが、こういう予想外は、たまに世界を救う。
審判長はしばし考え、証人席を見た。
「証人申請を許可する。前へ」
トールが歩く。
村の少年の足音が、白い石の法廷に響く。やけに大きく聞こえた。たぶん、誰もこの場で、いちばん守られるべき側が、自分で前に出てくるとは思っていなかったのだ。
証人席に置かれたのは、あの剣だった。
金ぴかではない。光らない。認証済みユーザーとも表示されない。ただの、傷だらけの剣だ。
でも、その場の誰よりも嘘が少なく見えた。
「証言を」
審判長が言う。
トールはごくりと喉を鳴らした。
「難しいことはわかりません」
第一声がそれだった。
「法律とか、資格とか、普通名称とか。先生たちが言ってること、半分くらいしかわかんないです」
傍聴席のどこかでゴルムンが「俺も」と呟き、即座に係員に睨まれていた。あとで怒る。
「でも」
トールは剣を見た。
「勇者って、名札じゃないと思うんです」
静かだった。
「許可証とか、登録番号とか、そういうのもあるのかもしれない。でも俺の村で勇者って言葉は、困ってる時に来る人のことです」
少年は顔を上げた。
「この人は」
まっすぐ、私を見た。
「俺たちがもう駄目だって思った時に来ました。紙持って」
法廷の何人かが、そこで少しだけ肩を揺らした。笑うには不謹慎、でもちょっと面白い、あの絶妙な揺れだ。
「剣じゃなくて、紙で来た。でも逃げなかった。怖い顔で、すごい長い文を読んで、ギルドの人が嫌そうな顔して」
そこで明確に笑いが漏れた。審判長が咳払いしたので、みんな慌てて真顔に戻る。法廷は忙しい。
トールは続ける。
「俺、最初は変な人だと思いました。でも、この人がいたから、村のみんなは初めて『逆らってもいいのかも』って思えた」
剣の柄を握る手に力が入る。
「勇者って、たぶんそういうやつのことだと思うんです」
少年の声は、震えていた。
「だから俺は、言葉を取り返したいです。商品じゃなくて、怖い人だけのものじゃなくて、誰かを助けたい時に言える言葉に戻したい」
そして、最後に。
「……先生は、前に誰かを守れなかったのかもしれないけど、今は俺たちを守ってます」
それは、法的意見ではなかった。
証拠能力の説明としては穴だらけで、適法要件だけ見ればかなり雑で、理屈としてはおそらく私が一番突っ込みたい類の証言だ。
でも、その場にいる誰よりも本件の核心を言っていた。
私はそこで初めて、息を吸えた気がした。
審判長は長く沈黙し、書記官に何事かを伝えた。そして、こちらを見た。
「代理人」
「はい」
「反論を述べよ」
今度は、言葉が出た。
「私の前歴は争いません」
私は立ち上がる。
「同種案件で敗訴し、依頼人を救えなかった。それは事実です」
傍聴席がまた静まる。
「ですが、その失敗は本件で私を退場させる理由にはならない。むしろ逆です。私はその失敗が何を奪うか知っている。だからこそ、ここに立っている」
自分でも驚くほど、声は安定していた。
「前世の記憶は不正ではありません。知識は武器であっても、資格剥奪事由ではない」
グランドマスターを見る。
「そして、守れなかった過去がある者に、二度と守る機会を与えない制度を、私は公正とは呼びません」
法廷の空気が、じわりと戻ってくる。
完全に勝ったわけではない。まだ何一つ終わっていない。だが少なくとも、私は今、床から少し浮き上がれた。
守られる側が、守る側に回った。
その逆転が、こんなにも人を立たせるとは思わなかった。
審判長が槌を置く。
「代理人資格に関する本日の判断は留保する。次回、本件無効審判を正式に開廷する」
鐘が鳴る。
ざわめきが戻る。
傍聴席の小鬼たちが、なぜか感動した顔で鼻をすすっていた。お前たちは何を学んで帰るつもりなのだ。
法廷を出る直前、私は振り返った。
高い壇上の中央。審判長の顔が、ようやく正面から見えた。
白い眉、深い皺、少しだけ曲がった鼻筋。そこに宿る、理屈を最後まで聞く人間の目。
息を呑んだ。
前世で、私が唯一尊敬していた老弁理士に、驚くほどよく似ていた。




