第5回 偽造された起源
その夜の法務部は、笑い声の居場所を見失っていた。
昼のあいだはまだよかった。BANされた勇者が城門前で「パスワードを忘れました」と三回書き直し、ゴルムンがそれを見て「聖剣にも再設定メールって届くんだな」と感心し、リリスが「感心するな」と突っ込む余地があった。
だが、日が落ちると、机の上に残ったのは帳簿と契約書だけだ。
古い革表紙。黄ばんだ紙。乾いたインク。二百年前の事務仕事は、妙に静かに人を追い詰める。
私は法務部の倉庫にいた。
あの、第1回で見た古い契約書の箱が、今は床いっぱいに口を開けている。箱の側面には「先代魔王時代 友好条約」「共同事業覚書」「未整理」と乱暴な字で書かれていた。未整理の箱ほど、世界をひっくり返す書類が入っている。法務の経験則である。あまり嬉しくない経験則だが。
「見つかりそう?」
入口からリリスが顔を覗かせた。寝間着の上にローブだけ羽織っている。魔王としてはずいぶん締まらない格好だが、今は深夜二時なので誰も責められない。
「見つかってほしくないものほど、見つかる気配がしています」
「嫌な職業病ね……」
私は箱の底から、ひときわ厚いファイルを引き抜いた。
表題。
勇者名称共同保全契約書(草案)
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
リリスも息を止める。私は黙って最初のページを開いた。共同保全。独占ではない。保全だ。つまり、この言葉を誰かが一方的に囲い込む前提ではなく、公共的に守る発想で書かれている。
署名欄は二つ。
一つは古いギルドの前身組織。
もう一つは、魔王家・リリアーテ。
「……やっぱり」
リリスが小さく言う。
さらにめくる。添付の出願準備書面。原出願人欄には、確かに二者の連名がある。そして、その上から別の紙が貼られ、後の時代のインクで単独出願に書き換えられている。
乱暴だ。
偽造というものは、もっとこう、巧妙であってほしい。いや、巧妙であられても困るのだが、雑な偽造はそれはそれで腹が立つ。人を舐めた感じが強いからだ。
「これで繋がりました」
私は机代わりの木箱の上に資料を並べた。
「第3回の権利書類の不自然な書き換え痕。M・Rのイニシャル。第4回の共同開発契約書。全部、魔王家・リリアーテに繋がる」
「父上が、共同出願者だった」
「ええ」
「じゃあ……『勇者』って言葉を独占したかったのは、魔王家じゃなくて」
「むしろ逆です」
私は草案の条項を指でなぞる。
「ここを見てください。『名称を特定勢力の私権に属さしめず、民衆の通用語として保持する』」
「……そんなこと書いてあるの」
「先代魔王は、『勇者』を民衆の言葉として守ろうとしていた」
倉庫の空気が変わった。
紙の匂いは同じなのに、意味だけがひっくり返る。世界観の床が抜けるときは、だいたいこういう静かな音がする。
リリスはしばらく何も言わなかった。箱のふちに手を置いたまま、視線だけが古い署名欄に縫いとめられている。
「……父上が、そんなこと」
「ご存じでは?」
「知らない。だって、父上は」
そこで言葉を切る。
「何も、話してくれなかったから」
私はすぐには返さなかった。
法律家としては、事実の開示は早いほどよい。だが人間としては、真実には温度差がある。今ここで条文のように告げるのは簡単だ。簡単だが、それで正しいとは限らない。
しかし、隠す選択肢もあったうえで告げなければ、この関係は仕事以上になれない。
「リリス」
「……うん」
「あなたの父上は、この件の被害者側です」
私はできるだけ静かに言った。
「少なくとも、現時点の証拠はそう示しています。共同出願者であり、共同保全を提案した側だった。それが後から書き換えられた」
「つまり」
「奪われた」
リリスが目を閉じる。
怒っている顔ではなかった。泣いている顔でもない。ただ、長いあいだ意味を持たなかった過去に、急に意味が流れ込んできたときの顔だ。
「……ありがとう」
やがて彼女は言った。
「隠そうと思えば、隠せたでしょう」
「思いました」
「正直ね」
「法務は証拠には正直であるべきです」
「人には?」
「努力目標です」
ふっと、リリスが笑った。
小さい。けれど助かる笑いだった。こういう場面で完全に沈黙すると、部屋ごと溺れる。
「努力目標、ね」
「達成率は案件によります」
「最低」
「職業的には褒め言葉です」
そのとき、倉庫の外でこつん、と音がした。
私とリリスは同時に顔を上げる。こんな時間に倉庫の前をうろつく者は少ない。さらに音。今度は明らかに、人が木箱にぶつかった音だ。気配の消し方が下手である。素人か、相当焦っているか。
「誰です」
私が言うと、扉が少し開き、痩せた男が半分だけ顔を出した。
エクスカリバー社の旧帳簿を持ち込んだ、あの社内連絡員だった。昼に一度だけ見かけた、目の泳ぐ男である。帽子を深くかぶり、外套を裏返しに着て、どう見ても「私は怪しくありません」の反対側にいる。
「し、静かに……!」
「静かにしてほしいのはこっちです」
「すみません!」
男は周囲を確認してから中に滑り込んできた。両腕に紙束を抱えている。しかも紐が切れかけていて、途中で一枚落としたら最後までばらける顔をしていた。
「追加資料です」
「昼にも出していましたね」
「あれだけじゃ足りないと思って!」
「ありがたいですが、持ち込み方が雑です」
「人生で初めて内部告発してるんです! 美しい所作まで求めないでください!」
もっともである。
男は肩で息をしながら紙束を差し出した。内容は、原出願時の議事録写し、補助メモ、担当印の比較表。どれも重い。証拠価値も、持ってくる側の胃への負担も。
「なぜここまで?」
私は男を見る。
「正義感ですか。報酬ですか」
「え」
「動機です」
「そんな、法務部みたいな聞き方」
「法務部ですので」
男はしばらく口をぱくぱくさせ、それから観念したように肩を落とした。
「……両方です」
「正直で結構」
「正義だけじゃ腹は膨れません。でも、報酬だけならこんな怖い橋は渡らない」
「でしょうね」
「俺、ずっと見てたんです。言葉が金になるのはわかる。でも、金になるからって口まで所有されたら、何も残らないじゃないですか」
男は帽子のつばを握りしめた。
「それが、だんだん嫌になって」
リリスが黙ってその男を見ていた。
私は資料を受け取り、ざっと目を走らせる。十分だ。いや、十分すぎる。ここまで揃えば、偽造に基づく出願だったことの立証が現実味を帯びる。
「協力に感謝します」
「じゃ、じゃあ報酬は」
「戦いが終わってからです」
「急に正義寄りになった!」
そのやり取りの途中で、倉庫の外の空気がまた変わった。
今度は素人の気配ではない。音がしない。だが、いる。そういう「よく訓練された嫌な感じ」が、扉の向こうに立っていた。
次の瞬間、音もなく扉が開く。
「深夜の法務部は繁盛していますね」
入ってきた老人を見て、私は無意識に背筋を伸ばした。
背の高い男だった。老人と呼ぶには立ち姿が鋭すぎる。白髪を後ろで束ね、黒い外套をきっちり着込み、杖すら持っていない。ひと目でわかる。組織の頂点にいる人間の歩き方だ。
顔には笑みがある。だが、その笑みは安心させるためのものではなく、相手の警戒心の形を確かめるための道具に見えた。
「……グランドマスター」
リリスが低く言う。
老人は優雅に一礼した。
「はじめまして、法務官殿。噂は聞いています」
「悪いほうでなければよいのですが」
「法務の評判に良い悪いはありません。ただ、厄介かどうかです」
「では、たぶん良い評判です」
内部告発者が、音もなく私の後ろに隠れた。気持ちはわかる。私もできれば誰かの後ろに隠れたい。だがこの場で一番前にいるのが私なので無理だ。
グランドマスターは散らばった資料を一瞥しただけで、だいたいの状況を理解したようだった。理解が早い人間は嫌だ。だいたい敵側にいるから。
「単刀直入に申し上げましょう」
老人は言った。
「その証拠は、ここで消えるべきです」
「斬新な交渉ですね」
「見返りはあります。魔王軍に対する今後一切の訴訟リスク免除。勇者ギルドとの不戦協定。名称使用に関する限定許諾。悪い取引ではない」
「ずいぶん大盤振る舞いだ」
リリスが睨む。
「それほど困るんですか。その紙が」
「組織は、正しさだけで回るものではありません」
グランドマスターは穏やかに答えた。
「守るべき規模がある。妥協すべき場面がある。理想のために市場を壊せば、救われるはずの者まで巻き込む」
「合理的ですね」
私は言った。
「部分的には」
「部分的にでも理解できるなら、話は早い。若い法務官殿、あなたは勝てる案件だけを見ている。私は、勝った後に崩れる秩序まで見ている」
「秩序」
「ええ。独占は醜い。だが管理されない言葉は、もっと早く腐ることもある」
敵の理屈として、よくできていた。
腹が立つのは、その一部に現実味があるからだ。完全な悪党は楽でいい。だが合理性を持った敵は、こちらの胃に長く居座る。
「それでも」
私は答えた。
「偽造は駄目です」
「理想論だ」
「実務論です。証拠がある以上、こちらは進める」
「進めれば、多くが傷つく」
「止めれば、最初から傷ついていた者が固定される」
倉庫の空気が張りつめる。
リリスは私を見ていた。信じるとも、止めるとも言わない。ただ、どちらを選ぶかを見ている目だ。
私は机の上の共同保全契約書を押さえた。指先に紙の乾いた感触がある。ここで折れれば、安全は買える。魔王軍の訴訟リスクも減る。法務としては、組織防衛の観点から理解不能ではない。
だが、それを選んだ瞬間、この案件は二度と「勝つ」ことができなくなる。
「お断りします」
私は言った。
「法務としても、人としても」
グランドマスターはしばらく私を見つめ、それからわずかに目を細めた。
「なるほど。そういう種類の人間ですか」
「よく言われます」
「では、最後に一つだけ」
老人は踵を返しかけて、ふと止まった。
そして、まるで世間話の続きを置いていくような軽さで言った。
「あなたが前世で負けた案件――覚えていますか? 依頼人の名前を」




