表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/7

第5回 偽造された起源


 その夜の法務部は、笑い声の居場所を見失っていた。


 昼のあいだはまだよかった。BANされた勇者が城門前で「パスワードを忘れました」と三回書き直し、ゴルムンがそれを見て「聖剣にも再設定メールって届くんだな」と感心し、リリスが「感心するな」と突っ込む余地があった。


 だが、日が落ちると、机の上に残ったのは帳簿と契約書だけだ。


 古い革表紙。黄ばんだ紙。乾いたインク。二百年前の事務仕事は、妙に静かに人を追い詰める。


 私は法務部の倉庫にいた。


 あの、第1回で見た古い契約書の箱が、今は床いっぱいに口を開けている。箱の側面には「先代魔王時代 友好条約」「共同事業覚書」「未整理」と乱暴な字で書かれていた。未整理の箱ほど、世界をひっくり返す書類が入っている。法務の経験則である。あまり嬉しくない経験則だが。


「見つかりそう?」

 入口からリリスが顔を覗かせた。寝間着の上にローブだけ羽織っている。魔王としてはずいぶん締まらない格好だが、今は深夜二時なので誰も責められない。


「見つかってほしくないものほど、見つかる気配がしています」

「嫌な職業病ね……」


 私は箱の底から、ひときわ厚いファイルを引き抜いた。


 表題。

 勇者名称共同保全契約書(草案)


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 リリスも息を止める。私は黙って最初のページを開いた。共同保全。独占ではない。保全だ。つまり、この言葉を誰かが一方的に囲い込む前提ではなく、公共的に守る発想で書かれている。


 署名欄は二つ。


 一つは古いギルドの前身組織。

 もう一つは、魔王家・リリアーテ。


「……やっぱり」

 リリスが小さく言う。


 さらにめくる。添付の出願準備書面。原出願人欄には、確かに二者の連名がある。そして、その上から別の紙が貼られ、後の時代のインクで単独出願に書き換えられている。


 乱暴だ。


 偽造というものは、もっとこう、巧妙であってほしい。いや、巧妙であられても困るのだが、雑な偽造はそれはそれで腹が立つ。人を舐めた感じが強いからだ。


「これで繋がりました」

 私は机代わりの木箱の上に資料を並べた。

「第3回の権利書類の不自然な書き換え痕。M・Rのイニシャル。第4回の共同開発契約書。全部、魔王家・リリアーテに繋がる」

「父上が、共同出願者だった」

「ええ」

「じゃあ……『勇者』って言葉を独占したかったのは、魔王家じゃなくて」

「むしろ逆です」

 私は草案の条項を指でなぞる。

「ここを見てください。『名称を特定勢力の私権に属さしめず、民衆の通用語として保持する』」

「……そんなこと書いてあるの」

「先代魔王は、『勇者』を民衆の言葉として守ろうとしていた」


 倉庫の空気が変わった。


 紙の匂いは同じなのに、意味だけがひっくり返る。世界観の床が抜けるときは、だいたいこういう静かな音がする。


 リリスはしばらく何も言わなかった。箱のふちに手を置いたまま、視線だけが古い署名欄に縫いとめられている。


「……父上が、そんなこと」

「ご存じでは?」

「知らない。だって、父上は」

 そこで言葉を切る。

「何も、話してくれなかったから」


 私はすぐには返さなかった。


 法律家としては、事実の開示は早いほどよい。だが人間としては、真実には温度差がある。今ここで条文のように告げるのは簡単だ。簡単だが、それで正しいとは限らない。


 しかし、隠す選択肢もあったうえで告げなければ、この関係は仕事以上になれない。


「リリス」

「……うん」

「あなたの父上は、この件の被害者側です」

 私はできるだけ静かに言った。

「少なくとも、現時点の証拠はそう示しています。共同出願者であり、共同保全を提案した側だった。それが後から書き換えられた」

「つまり」

「奪われた」


 リリスが目を閉じる。


 怒っている顔ではなかった。泣いている顔でもない。ただ、長いあいだ意味を持たなかった過去に、急に意味が流れ込んできたときの顔だ。


「……ありがとう」

 やがて彼女は言った。

「隠そうと思えば、隠せたでしょう」

「思いました」

「正直ね」

「法務は証拠には正直であるべきです」

「人には?」

「努力目標です」


 ふっと、リリスが笑った。


 小さい。けれど助かる笑いだった。こういう場面で完全に沈黙すると、部屋ごと溺れる。


「努力目標、ね」

「達成率は案件によります」

「最低」

「職業的には褒め言葉です」


 そのとき、倉庫の外でこつん、と音がした。


 私とリリスは同時に顔を上げる。こんな時間に倉庫の前をうろつく者は少ない。さらに音。今度は明らかに、人が木箱にぶつかった音だ。気配の消し方が下手である。素人か、相当焦っているか。


「誰です」

 私が言うと、扉が少し開き、痩せた男が半分だけ顔を出した。


 エクスカリバー社の旧帳簿を持ち込んだ、あの社内連絡員だった。昼に一度だけ見かけた、目の泳ぐ男である。帽子を深くかぶり、外套を裏返しに着て、どう見ても「私は怪しくありません」の反対側にいる。


「し、静かに……!」

「静かにしてほしいのはこっちです」

「すみません!」


 男は周囲を確認してから中に滑り込んできた。両腕に紙束を抱えている。しかも紐が切れかけていて、途中で一枚落としたら最後までばらける顔をしていた。


「追加資料です」

「昼にも出していましたね」

「あれだけじゃ足りないと思って!」

「ありがたいですが、持ち込み方が雑です」

「人生で初めて内部告発してるんです! 美しい所作まで求めないでください!」


 もっともである。


 男は肩で息をしながら紙束を差し出した。内容は、原出願時の議事録写し、補助メモ、担当印の比較表。どれも重い。証拠価値も、持ってくる側の胃への負担も。


「なぜここまで?」

 私は男を見る。

「正義感ですか。報酬ですか」

「え」

「動機です」

「そんな、法務部みたいな聞き方」

「法務部ですので」

 男はしばらく口をぱくぱくさせ、それから観念したように肩を落とした。

「……両方です」

「正直で結構」

「正義だけじゃ腹は膨れません。でも、報酬だけならこんな怖い橋は渡らない」

「でしょうね」

「俺、ずっと見てたんです。言葉が金になるのはわかる。でも、金になるからって口まで所有されたら、何も残らないじゃないですか」

 男は帽子のつばを握りしめた。

「それが、だんだん嫌になって」


 リリスが黙ってその男を見ていた。


 私は資料を受け取り、ざっと目を走らせる。十分だ。いや、十分すぎる。ここまで揃えば、偽造に基づく出願だったことの立証が現実味を帯びる。


「協力に感謝します」

「じゃ、じゃあ報酬は」

「戦いが終わってからです」

「急に正義寄りになった!」


 そのやり取りの途中で、倉庫の外の空気がまた変わった。


 今度は素人の気配ではない。音がしない。だが、いる。そういう「よく訓練された嫌な感じ」が、扉の向こうに立っていた。


 次の瞬間、音もなく扉が開く。


「深夜の法務部は繁盛していますね」


 入ってきた老人を見て、私は無意識に背筋を伸ばした。


 背の高い男だった。老人と呼ぶには立ち姿が鋭すぎる。白髪を後ろで束ね、黒い外套をきっちり着込み、杖すら持っていない。ひと目でわかる。組織の頂点にいる人間の歩き方だ。


 顔には笑みがある。だが、その笑みは安心させるためのものではなく、相手の警戒心の形を確かめるための道具に見えた。


「……グランドマスター」

 リリスが低く言う。


 老人は優雅に一礼した。

「はじめまして、法務官殿。噂は聞いています」

「悪いほうでなければよいのですが」

「法務の評判に良い悪いはありません。ただ、厄介かどうかです」

「では、たぶん良い評判です」


 内部告発者が、音もなく私の後ろに隠れた。気持ちはわかる。私もできれば誰かの後ろに隠れたい。だがこの場で一番前にいるのが私なので無理だ。


 グランドマスターは散らばった資料を一瞥しただけで、だいたいの状況を理解したようだった。理解が早い人間は嫌だ。だいたい敵側にいるから。


「単刀直入に申し上げましょう」

 老人は言った。

「その証拠は、ここで消えるべきです」

「斬新な交渉ですね」

「見返りはあります。魔王軍に対する今後一切の訴訟リスク免除。勇者ギルドとの不戦協定。名称使用に関する限定許諾。悪い取引ではない」

「ずいぶん大盤振る舞いだ」

 リリスが睨む。

「それほど困るんですか。その紙が」

「組織は、正しさだけで回るものではありません」

 グランドマスターは穏やかに答えた。

「守るべき規模がある。妥協すべき場面がある。理想のために市場を壊せば、救われるはずの者まで巻き込む」

「合理的ですね」

 私は言った。

「部分的には」

「部分的にでも理解できるなら、話は早い。若い法務官殿、あなたは勝てる案件だけを見ている。私は、勝った後に崩れる秩序まで見ている」

「秩序」

「ええ。独占は醜い。だが管理されない言葉は、もっと早く腐ることもある」


 敵の理屈として、よくできていた。


 腹が立つのは、その一部に現実味があるからだ。完全な悪党は楽でいい。だが合理性を持った敵は、こちらの胃に長く居座る。


「それでも」

 私は答えた。

「偽造は駄目です」

「理想論だ」

「実務論です。証拠がある以上、こちらは進める」

「進めれば、多くが傷つく」

「止めれば、最初から傷ついていた者が固定される」


 倉庫の空気が張りつめる。


 リリスは私を見ていた。信じるとも、止めるとも言わない。ただ、どちらを選ぶかを見ている目だ。


 私は机の上の共同保全契約書を押さえた。指先に紙の乾いた感触がある。ここで折れれば、安全は買える。魔王軍の訴訟リスクも減る。法務としては、組織防衛の観点から理解不能ではない。


 だが、それを選んだ瞬間、この案件は二度と「勝つ」ことができなくなる。


「お断りします」

 私は言った。

「法務としても、人としても」

 グランドマスターはしばらく私を見つめ、それからわずかに目を細めた。

「なるほど。そういう種類の人間ですか」

「よく言われます」

「では、最後に一つだけ」


 老人は踵を返しかけて、ふと止まった。


 そして、まるで世間話の続きを置いていくような軽さで言った。


「あなたが前世で負けた案件――覚えていますか? 依頼人の名前を」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ