第7回 勇者は、普通名詞だ
無効審判の当日、審判所は朝から妙に白かった。
壁も床も柱も白い。緊張すると人は視界の情報量が減るらしいが、減った結果が全部白になる場所というのもどうかと思う。法の権威は、もっとこう、木目とかで落ち着かせる努力をしてほしい。
私は入廷口の前で深呼吸した。
書類箱は三つ。文献束が二つ。碑文の拓本が一抱え。民話採録集、祭礼台本、古詩集、村歌の写し、祠札の記録。千年分の「勇者」が、紙の形をして私の腕に食い込んでいる。
「顔、昨日よりはましね」
隣でリリスが言った。
「昨日は法的に死んでいたので」
「今日は?」
「法的には半死半生です」
「生きてるならよし」
トールも来ていた。例の傷だらけの剣を、今日はきちんと磨いている。磨いても金ぴかにはならないが、その代わり見栄を張らない顔になっていた。
「先生」
「まだ始まっていません」
「でも、勝てそう?」
「勝てる筋はあります」
「それ、最初からずっと同じ言い方だな」
「法務は雑に希望を売りません」
「でも今日はちょっと売って」
「……今日は、かなり勝てる筋があります」
「よし!」
そのへんの温度管理が少年には雑に効くので助かる。
法廷に入ると、空気が変わった。
壇上の審判長は、やはり前世で私が唯一尊敬していた老弁理士によく似ていた。似ているだけだ。別人だ。わかっている。だが、人はたまに、理屈で処理できない既視感に背筋を伸ばされる。
対席にはグランドマスター。
黒い外套、静かな目、微笑んでいるのに一ミリも安心できない口元。今日の彼は、いっそ清々しいほど「制度の守護者」の顔をしていた。権利を守る側の論理を、最後まで磨き上げて持ってきている顔だ。
開廷。
まず私が証拠を提出した。
「甲第百一号証から百八十九号証まで」
書記官が読み上げるたび、机が少しずつ埋まっていく。
「古文書、民話、碑文、詩歌、祭礼記録、地方年誌、口承採録」
私は立ち上がった。
「『勇者』の語が、特定事業者の出願よりはるか以前から、社会一般において、役割・性質・称揚の普通名称として使用されていた事実を立証します」
書類をめくる音が、法廷に細かく響く。
千年前の詩歌に出る勇者。山村の祭礼台本に出る勇者。王都の童謡に出る勇者。辺境の墓碑銘に刻まれた勇者。登録も許諾も知らない人々が、当たり前のように使ってきた言葉。
グランドマスターは黙って聞いていた。
顔色は変わらない。だが指先だけが、一度だけ机を軽く叩いた。そこが急所だと、自分でも知っている動きだった。
「さらに」
私は続ける。
「原出願には共同出願人として魔王家・リリアーテが記載されており、その後、偽造により単独出願へ改ざんされた痕跡があります。共同保全契約草案の文言からも、本来はこの語を民衆の通用語として保全する構想であったことが読み取れる」
リリスが、隣で静かに前を向く。
「つまり、本件商標権は、起源においても運用においても、私的独占の正当性を欠いています」
審判長が頷く。
そこで、グランドマスターが立ち上がった。
「反論します」
声はよく通った。よく通る声というのは、それだけで少しずるい。
「たしかに歴史的用例は存在する。しかし、歴史的存在と現代における商業的識別力は両立する。むしろ当方は『勇者』の語に品質と信用を与え、市場に秩序をもたらしてきた」
彼は私を見た。
「言葉を放置すれば、無責任な自称が氾濫し、消費者も民衆も混乱する。管理なき自由は、弱者を守らない」
「その管理の結果が五億G請求ですか」
私が返すと、
「逸脱への抑止です」
「経済封鎖も?」
「秩序維持です」
「聖剣サブスクも?」
「近代化です」
傍聴席で誰かが吹き出した。たぶんゴルムンだ。あとで怒る。
グランドマスターはさらに続けた。
「そして仮に本国で無効が認められようとも、当方は各国関連法人へ権利を分割譲渡済みです。効力は限定される。世界規模で見れば、『勇者』の管理体制は維持される」
法廷がざわつく。
来た。
これが最後の悪あがき――いや、悪あがきではない。きわめて実務的で、きわめて嫌な、法的テクニックだ。権利の本体が崩れそうなら、効力範囲を逃がす。組織でしかできない逃げ方である。
だが、そのためにこちらも準備してきた。
「甲第百九十号証」
私は一枚の書面を出した。
「各国関連法人への譲渡一覧です」
グランドマスターの眉が、ほんの少し動く。
「譲渡先のうち九割は、勇者株式会社第三ファンドを起点とする実質支配関係にあり、対価も循環計上です。形式的分散にすぎず、権利濫用的な効力逃れとして評価されるべきです」
「推認にすぎない」
「加えて」
私は止まらない。
「譲渡契約の締結日は、当方から無効主張通知を受けた三日後に集中しています」
書面を掲げる。
「逃げ足が速すぎる」
傍聴席がどよめいた。
グランドマスターは笑った。初めて、少しだけ苦い笑いだった。
「たいしたものだ」
「ありがとうございます」
「だが、言葉は市場で守られる。民衆に委ねれば、やがて空洞化する」
「違います」
私は言った。
「空洞化したのは、そちらです」
法廷が静まる。
ここだと思った。
私は最後の書面を持った。無効宣言書案ではない。最終弁論の骨子だ。紙は必要だが、最後に立つのは紙の上の言葉ではなく、口から出る言葉でなければならない。
「商標は重要です」
私はゆっくり言う。
「信用を守る。品質を守る。市場の秩序を作る。私もそれを否定しません」
グランドマスターを正面から見る。
「だが、商標は人の口を縛れない」
白い法廷の空気が、そこだけ少し温度を持つ。
「言葉は、はじめから、民衆のものです」
一拍。
「誰かを助けた者を勇者と呼ぶ自由まで、出願書類の中に閉じ込めることはできない。まして偽造された起源に立つ独占で、それを永続化することは許されない」
紙を置く。
「本件で争われているのは、一つの名称だけではありません。言葉が誰のものか、その原則です」
沈黙。
その沈黙は重くなかった。川が海に入る直前みたいな、流れの決まった静けさだった。
◇ ◇ ◇
審判長が長く目を閉じ、そして口を開く。
「主文」
誰も動かない。
「登録商標『勇者』につき、その登録を無効とする」
空気が、ほどけた。
「本件各関連譲渡についても、権利逃れを目的とした一連の形式移転として、その対抗力を本件当事者間で否定する」
槌が落ちる。
「以上」
終わった。
爆発みたいな歓声ではなかった。
もっと深い、長い息だった。傍聴席の誰かが泣き、誰かが笑い、ゴルムンがなぜか「法務すげえ……」と呟き、小鬼たちが意味もわからず拍手し、リリスが目を閉じたまま肩の力を抜く。
トールはその場で固まっていた。
たぶん、勝つということが自分の体に届くまで、少し時間がかかっているのだ。
グランドマスターは静かに立ち上がった。
「……見事でした」
「ありがとうございます」
「これで世界は少し面倒になる」
「ええ」
「だが、それでも必要な敗北というものはある」
彼はそう言って、初めてほんの少しだけ、敵ではない顔をした。
「次に会う時は、もう少し穏当な案件で」
「その希望は薄いですね」
法廷を出たあと、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。
白すぎた朝と違って、今はちゃんと色がある。
リリスが私の隣に来る。
「……終わったわね」
「はい」
「これからどうするの?」
「まずは実務です。無効の周知、関連請求の整理、村への物資流通の回復、勇者ギルドからの嫌味の受領」
「最後のはいらない」
「でも来ます」
「来るでしょうね……」
彼女は少し笑ってから、窓の外を見た。
「でも、変わる」
「変わります」
「だったら、魔王軍法務部も続けましょうか」
「おすすめしません。忙しいので」
「今さらすぎるわよ」
続編への扉、というほど大げさではない。
ただ、勝ったあとにも仕事は続く。世界が変わるなら、変わった後の実務が要る。それだけの、ひどく法務らしい未来だった。
階段の下で、トールが待っていた。
剣を抱えて、でも前より姿勢がまっすぐだ。
私は彼の前で立ち止まる。
言うことは、最初から決まっていた。
「おめでとう」
少年が目を瞬く。
「君はもう、勇者だ」
トールはしばらく何も言えなかった。
やがて、顔をくしゃっとさせて笑った。その笑い方は、登録番号も許諾書も知らない、ただ誰かを助けたいと思う者の顔だった。
たぶん、それでいい。
魔王城へ戻る馬車の中、私は無効宣言書の写しを膝に乗せた。
最後の欄に、自分の印鑑を押す。
ぐ、と紙に沈む感触。第1回から手放さなかった、本物を証するための道具。権威を作るための印が、今日は権威の独占を壊した証になる。
皮肉で、だからこそ綺麗だった。
窓の外で、村へ続く道に子どもたちの影が見えた。
誰かが木の棒を掲げ、遠くで叫ぶ。
「勇者だー!」
もう、その言葉を止める紙はない。
なお、俺が元いた世界においても「勇者」は某社の登録商標である。
この異世界では今日から違う。




