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第3回 商標の鎖、村を縛る


 魔王城の法務部に、土の匂いが流れ込んできたのは昼過ぎだった。


 正確には、土と汗と藁と、長距離を全力で走ってきた人間特有の、切羽詰まった匂いだ。


 扉がばたんと開き、泥だらけの少年が転がり込んでくる。年の頃は十五、六。日に焼けた顔。擦り切れたマント。腰には傷だらけの剣。立派さとは無縁で、農具を少しだけ勇ましくしたような代物だった。


「た、助けてください!」


 叫ぶなり、少年は机に紙束を叩きつけた。


 法務部の机が揺れ、ゴルムンが積んでいた仮眠用まくら――ではなく審決例集――が崩れ落ちる。


「うわ、仕事の気配!」

「法務部で何を言ってるんですか先輩」


 私は紙束を取った。


 一枚目を見た瞬間、眉間に皺が寄る。


 勇者名称使用差止請求書

 商標権侵害に基づく損害賠償請求 五億G


「五億」

 横から覗き込んだリリスが、ひゅっと息を呑んだ。

「村が三つ買える額ね」

「村がいくつか消し飛ぶ額です」


 少年は机の前で、膝をつく勢いで頭を下げた。


「俺、トールっていいます。あの、勝手に勇者って名乗ってたのは本当で……でも、でも人助けしてただけなんです!」


 その言い方が、嫌にまっすぐだった。


 私は請求書をめくる。文面はいつものように仰々しい。信用毀損、ブランド希釈化、品質保証体制への侵害、無断名称使用による市場混乱。数字も文言もやたら派手だが、やっていることは一つだ。


 言葉を独占して、弱い者を黙らせる。


「詳しく話してください」

「は、はい」


 トールは何度か喉を鳴らし、それから、ぽつぽつと話し始めた。


 村の近くに魔獣が出ること。ギルドは僻地には来ないこと。だから、自分が剣を持って追い払っていたこと。村の子どもに憧れの目で見られ、年寄りに「勇者さまだ」と呼ばれたこと。最初は冗談半分だったその呼び名が、気づけば自分の背中を支える言葉になっていたこと。


「……なんで勇者になりたかったんですか」

 私が聞くと、トールはきょとんとした。

「え」

「危険です。得も少ない。正式登録もない。それでも、なぜ」

 少年は自分の剣を見た。


 刃こぼれだらけだ。鍛冶屋が泣くか呆れるか迷う程度には傷んでいる。だが、柄だけは布で丁寧に巻き直されていた。大事に使ってきたのがわかる。


「……だって」

 トールは言った。

「勇者って、困ってる人のところに行く人の名前じゃないんですか」


 法務部が静かになった。


 ゴルムンですら口を閉じる程度には、まっすぐな一言だった。


 リリスがふっと視線を落とす。私は請求書を机に置いた。


「その定義、私は支持します」

「じゃ、じゃあ!」

「ただし支持と勝訴は別です」

「うっ」

「ですが、戦えます」


 少年の顔が上がる。


 その目があまりにも露骨に明るくなるものだから、私は一瞬だけ困った。信頼というのは、判子より重く、紙より燃えやすい。


「まず確認です。村では、あなた以外にも『勇者』という言葉を使う人が?」

「います。子どもが勇者ごっこしたり、年寄りが昔話したり。祭りの劇でも」

「文献は?」

「文献?」

「昔から『勇者』という言葉が一般名詞として使われていた証拠です」

「う、うーん……石碑とか、古い祠の札とかなら」

「十分です」


 私は立ち上がった。


 ようやく見えた。これはただの一件ではない。個人の請求事件に見せかけた、言葉の私物化の縮図だ。


 法務の血が騒ぐ。あまり健全ではない意味で。


「行きましょう」

「どこへ?」

 リリスが聞く。

「村です」

「えっ、現地?」

「証拠は現場に落ちています」

「法務って現地行くの!?」

「優秀な法務は行きます」

 ゴルムンが小さく手を挙げた。

「私は優秀じゃないので留守番で」

「先輩は書庫整理です」

「現地のほうが安全では?」

「知りません」


 半日後、私たちは村に着いた。


 魔王城から南に馬車で三時間。舗装という概念が村の手前で力尽きた道を進み、小川を越え、畑の脇を抜けると、ようやく藁屋根の家々が見えてくる。


 空は広く、風は土臭く、村は貧しかった。


 だが、暮らしの形があった。干した洗濯物。軒先の籠。木柵に括られた山羊。子どもが棒切れを振り回し、「俺が勇者だ!」「じゃあ私が魔王!」と叫んで走っていく。


 その瞬間、私は思わず笑った。


「ほら」

 トールが小さく言う。

「みんな、普通に言うんです」


 普通に言う。


 それが何より大事だった。商標は独占できても、言葉が社会で普通名称として根づいていれば、話は変わる。いや、本来そうでなければならない。


 だが、村の中央広場に入ったところで、空気が変わった。


 荷車が止まっている。積まれているはずの小麦粉も塩も薬草もない。代わりに、腕組みした商人風の男が三人。胸にはギルドの徽章。


 そして広場の真ん中で、村長が青い顔をしていた。


「……遅かったか」

 私は呟いた。


 物資供給の停止。報復としては最もわかりやすく、最も下劣だ。


 ギルドの担当者がこちらに気づき、鼻で笑った。

「おやおや。魔王軍の法務官殿までご足労ですか」

「現地確認です」

「なら確認なさるといい。この村はギルドの流通網に依存している」

「脅迫ですか」

「契約の自由です」


 嫌な言い回しを選ぶ才能だけはある。


 村長は慌ててこちらに寄ってきた。小柄で、背の曲がった老人だった。額の皺に、長年の諦めが刻まれている。


「お願いです」

 老人はまず私ではなく、トールを見た。

「もうやめてくれ。謝って済むなら謝ろう。勇者なんて名乗らなければ……」

「でも、じいさん」

「ギルドには逆らえん。うちは小さい。冬を越せんのだ」


 その声が、妙に静かだった。


 怒鳴りもしない。泣きもしない。ただ、負ける側の理屈として完成していた。何度も同じように折れてきた声だ。


 広場の隅では、子どもが母親に引き寄せられている。荷車を見上げる目が、不安で落ち着かない。腹が減ることは、理屈より先に人を黙らせる。


 私は一歩前に出た。


「村長」

「……なんでしょう」

「この請求、支払えますか」

「無理です」

「物資停止に耐えられますか」

「無理です」

「では、法的にも経済的にも降伏一択?」

「そう、です……」


 リリスが横で拳を握るのが見えた。


 怒っている。珍しく、顔に出るほどに。


 トールは唇を噛み、剣の柄を掴んでいた。今にも飛び出しそうな腕だ。だが、飛び出して斬ってどうなる話ではない。相手はそこまで計算している。


「諦めるのが賢いんです」

 ギルド担当者が言った。

「言葉には持ち主がいる。我々は正式な権利者だ。僻地の少年が夢を見てよい話ではない」

「夢ではありません」

 トールが言い返す。

「俺は、助けてただけだ」

「その善意が市場を混乱させるのです」

「市場ってなんだよ!」

「値札のついた世界ですよ、坊や」


 あまりに綺麗に腹の立つ台詞だったので、私は逆に少し感心した。ここまで見事に嫌な役を引き受けられるのは才能である。潰す価値があるという意味で。


「書面を」

 私は言った。

「は?」

「法的通知書です。いますぐ読み上げます」

 ギルド担当者が目を細めた。

「ここで?」

「ええ。聞こえるように」


 私は鞄から羊皮紙を取り出し、広場の真ん中に立った。風が紙の端を揺らす。村人たちが遠巻きにこちらを見る。子どもの勇者ごっこも止まった。


 スマートではない。だが、こういうとき書面は剣よりよく響く。


「通知」

 私は読み上げた。

「当方は、貴ギルドによる名称独占の適法性に重大な疑義があるものと認識しています。よって本件請求について全面的に争うとともに、『勇者』商標が一般名称として社会に定着している事実の立証に着手します」


 ギルド担当者の口元が引きつる。


 私は続けた。


「加えて、貴ギルドが本村に対して行っている物資供給停止措置について、名称使用問題と実質的に結びついた報復的経済封鎖と評価しうるため、証拠化のうえ別途法的責任を追及します」

「ば、馬鹿を言うな!」

「なお」

 私は一切止まらない。

「本日以降、碑文、民話、祭礼記録、祠札、古文書その他一切の資料を保全します。隠匿、破棄、改ざんが確認された場合、悪質性の評価事情として積み上げます」

「そんなもの、証拠になるか!」

「なります」


 広場の空気が、少しだけ変わった。


 たぶん村人たちは法的構成など理解していない。だが、理解する必要もない。大事なのは一つだ。


 ギルドに向かって、誰かが正式に「お前たちは正しくない」と書面で言った。


 それだけで、空気は変わる。


 トールが私を見ていた。驚いた顔だ。たぶん、剣も抜かずにここまで堂々と喧嘩を売る人種を初めて見たのだろう。私も異世界に来るまで見たことはなかった。


「それでは」

 私は通知書を畳んだ。

「受領拒否は自由です。ですが、拒否した事実も記録します」

 ギルド担当者は顔を真っ赤にしながら、通知書を乱暴にひったくった。

「覚えていろ」

「そのために書面があるんです」


 担当者たちは荷車を引いて去った。


 物資は置いていかない。当然だ。やり口が丁寧に下品である。


 広場には、去ったあと特有の居心地の悪い静けさが残る。誰も勝ったとは思っていない。ただ、今までと違う音がした。そんな顔だ。


 村長が震える声で言った。

「……あの、法務官どの」

「はい」

「本当に、勝てるのですか」

「最終的なことはまだ言えません」

「では、なぜ」

「勝てる筋があるからです」


 私は広場の石碑を見た。


 古びた表面に、風化しかけた文字がある。村の建設記録らしい。私は布で表面をこすった。出てきた文字を見て、口元が少し上がる。


 勇ある者、里を守りし時――


「リリス」

「ええ、見えた」

「トール、祭礼の記録は」

「神社……じゃなくて祠の倉に古いやつが」

「村長、案内を」

「い、今から?」

「証拠は鮮度が命です」

 ゴルムンがいない代わりに、今日はリリスが疲れた顔をした。

「法務って本当に現場仕事なのね……」

「机上だけで勝てる案件は、だいたい相手が弱い案件です」


 祠の倉は、埃と木箱と、長年放置された紙の匂いに満ちていた。


 中で私は夢中になった。


 祭礼台本。村歌。古い婚礼の祝詞。子どもの落書き帳。そこかしこに「勇者」の文字がある。公認でも登録でもない、生活の言葉としての勇者だ。


 トールが横で目を丸くしていた。


「そんなのまで証拠になるのか?」

「なります」

「すげえ……」

「生活の中で普通に使われる言葉は強いんです」

「剣より?」

「場合によっては」

「やっぱ法務こわいな……」


 夕方、倉の奥から一本の古い剣が出てきた。


 鞘は朽ち、柄は擦り切れている。だが鍔元に刻まれた紋様が、妙に整っていた。どこかで見た線だと思った瞬間、リリスが首を傾げる。


「……これ、うちの紋章に少し似てる?」

「魔王家の?」

「完全には同じじゃないけど」


 トールが慌てて言う。

「それ、うちの家に代々あったやつだ。じいちゃんが、昔の勇者の剣だって」

「由来は後で聞きます」

 私は即答した。

「今は保全。布を」

「は、はい!」


 役割以外を足さない。法務官として今やるべきは、謎を広げることではなく、証拠を失わないことだ。


 私は剣を受け取り、夕日に透かした。


 傷だらけだ。だが安っぽくはない。生き残ってきた物の顔をしている。


 村に戻る頃には、広場に小さな焚き火が灯っていた。


 配給は来ない。夕食は乏しい。それでも村人たちは、昼より少しだけましな顔をしていた。敵に背を向けて黙るしかなかった空気に、別の選択肢が差し込んだからだ。


 トールが私の横に座る。

「先生」

「まだ先生ではありません」

「じゃあ、法務の人」

「はい」

「俺、やっぱり勇者って名乗っちゃ駄目なのかな」


 焚き火の向こうで、子どもが棒を掲げている。昼の続きをやっているつもりらしい。勇者ごっこは、配給停止くらいでは滅ばない。


 私は少し考えてから答えた。


「名乗るな、とは言いません」

「ほんとに?」

「ただし、今は喧嘩の最中です」

「う」

「だから、軽々しくは言わないでください。その言葉を取り返す戦いを、これから始めるので」

 トールはしばらく黙り、それから真剣な顔で頷いた。

「……わかった」


 私は請求書の束をもう一度開き、最後のページを見た。


 権利の根拠資料。開示された商標書類の写し。その出願者欄に、妙な不自然さがあった。


 紙の色が違う。インクの沈み方も違う。あとから書き直した跡だ。


 私は火に透かす。消された名前の下に、かろうじて残った線。


「M……R?」


 口に出すと、リリスが覗き込んだ。

「何かあるの?」

「出願者欄です」

「偽造?」

「断定はまだ。ただ、明らかに書き換えの痕があります」

 私は紙を丁寧に畳んだ。

「消された名前がある」

「誰の」

「そこまではまだ読めません」


 だが、匂いはした。


 情報の匂い。読めば読むほど、その先に大きなものがいるとわかる匂いだ。


 五億Gの請求書の奥にあるのは、ただの脅しではない。もっと古く、もっと構造的な歪みだ。


 焚き火がぱちりと鳴る。


 村人たちの顔を照らす赤い光の中で、私はその紙を鞄にしまった。


 いいだろう。


 言葉を鎖で繋いだつもりなら、その鎖の起点まで遡ってやる。


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