第89話 一本の流れ
セラフィナは工房と運搬役に必要な指示を出すため、商会へ戻った。
僕はルミナ薬工房へ向かう。
最初に取り掛かった仕事は、“片付け”だった。
通路を塞いでいた樽を、次々と外へ運び出す。
蓋を開ければ、まだ“使えそう”に見えるものもある。けれど――それを確かめる時間こそが、いま一番もったいない。
ドロリ、と濃緑の液体が廃棄用の溝へ流される。
酸っぱい匂いが鼻を刺し、胃が反射的にひきつった。
「……この山の一つ一つに、“誰かの善意”が詰まってるんですよね」
僕が呟くと、職人たちが黙って頷いた。
「でも、ここに置かれてしまった時点で、それはもう資産じゃない。……“ゴミ”になってしまう」
僕は、樽の側面に残った汚れた紙片――剥がれかけの札を指で弾いた。
「……だから、ルールを作ります。
“札のない樽”は全部捨てます。今日ここから先、流すのは――徹底的に検品して問題なかった“合格札つき”のフラスコだけにします」
職人たちが、息を呑んだ。
もったいない、という顔。けれど同時に、どこか救われた顔。
「“まだ使えるかもしれない”を残すと、また詰まる。迷う時間が、一番高くつくんです」
流れを止める善意は、重荷になる。
誰かを救うはずだったものが、誰かの時間を奪い、誰かの手を縛るのだ。
* * *
二時間後。
工房の床は驚くほど広くなった。空気が軽い。匂いも薄い。
壁だった樽が消えたことで、釜まで一直線の通路が戻った。
その中央に、ハインが立っていた。
顔は青い。けれど、踏みとどまっている。
「ここが、ハインさんの持ち場です」
作業台の左に、フラスコが五本だけ並ぶ。
中身は、選り抜きの“良品薬液”。
右には空瓶、封蝋、札。必要なものだけ。
「ハインさん。封印だけに集中してください。
選別も、手直しも、段取りも――忘れてください」
僕は周囲の職人たちにも声をかけた。トクレンの弟子だけじゃない。商会から来た応援もいる。
「皆さんの仕事は、左の五本を絶対に切らさないことです。
六本目を置く必要はありません。五本が四本になったら、最高品質の一本を補充する。
そして、出来た瓶は即回収、即箱詰め。――ハインさんの手を止めない」
ハインが震える手で、フラスコを一本掴む。
恐怖がまだ張り付いている。“失敗したら毒になる”という恐怖が。
「大丈夫です」
僕は静かに言った。
「ここにあるのは、検品を通った薬液だけです。検品は任せてください。ハインさんは、目の前の封印だけを」
ハインは大きく息を吸い、目を閉じた。
指先で、封印紋の軌跡を二回なぞる。
息を一つ吐く。
――カチン。
彼の中で、何かが噛み合う音がした気がした。
迷いのない手つきで薬液を釜へ移す。
定型の魔方陣を展開する。
修正はいらない。悩みもいらない。型通りに、魔力を流し込むだけ。
――カチン。
硬質な音。釜の底で光が収束し、薬効が“固定”される。
ハインは出来上がった薬を小瓶に移し、封蝋を落とす。
その瞬間、待機していた職人がさっと瓶を回収し、次のフラスコをそっと置いた。
――カチン。
また一本。
――カチン。
さらに一本。
流れが、一本の線になり始めた。
* * *
一時間が経った。
工房の中は、奇妙なほど静かだった。
怒号もない。走り回る足音もない。
聞こえるのは、釜の火と、封印の「カチン」という音だけ。
一見すると、のんびりしているようにさえ見える。
だが――。
「……信じられない」
時刻と本数を記録していたルカが、帳面と時計を交互に見て目を見張った。
「これならトクレン親方がいた時のピークと同じ……いや、それ以上のペースです」
当初、ハインの能力は“一日20本”と仮置きしていた。
でも今は、それを軽く越えている。
理由は単純だ。
迷いがない。例外がない。
“良品だけ”が流れてくるなら、封印は判断じゃなく作業になる。
「次、入ります!」
「10本目、完了!」
ハインの背中から、臆病さが消えていた。
彼はゾーンに入っていた。
安全な材料が流れてくる――その安心が、技術を引き出す。
震えていた手が、いまは精密機械みたいにリズムを刻む。
忙しさは減った。
なのに、完成品は増える。
全員が限界まで走った昨日より、九割を止めた今日の方が、多くの命を救えている。
――残酷な算数だった。
これが、【全体最適】。
一日に救える命の数――いちばん大事な成果だ。
僕は、自分の身体の震えが止まるのを感じた。
(流れてる。今度こそ――届く)
頼む。ミーナに、どこかの寝台で待っている誰かに――間に合ってくれ。




