表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

89/95

第89話 一本の流れ

セラフィナは工房と運搬役に必要な指示を出すため、商会へ戻った。

僕はルミナ薬工房へ向かう。


最初に取り掛かった仕事は、“片付け”だった。


通路を塞いでいた樽を、次々と外へ運び出す。

蓋を開ければ、まだ“使えそう”に見えるものもある。けれど――それを確かめる時間こそが、いま一番もったいない。


ドロリ、と濃緑の液体が廃棄用の溝へ流される。

酸っぱい匂いが鼻を刺し、胃が反射的にひきつった。


「……この山の一つ一つに、“誰かの善意”が詰まってるんですよね」


僕が呟くと、職人たちが黙って頷いた。


「でも、ここに置かれてしまった時点で、それはもう資産じゃない。……“ゴミ”になってしまう」


僕は、樽の側面に残った汚れた紙片――剥がれかけの札を指で弾いた。


「……だから、ルールを作ります。

“札のない樽”は全部捨てます。今日ここから先、流すのは――徹底的に検品して問題なかった“合格札つき”のフラスコだけにします」


職人たちが、息を呑んだ。

もったいない、という顔。けれど同時に、どこか救われた顔。


「“まだ使えるかもしれない”を残すと、また詰まる。迷う時間が、一番高くつくんです」


流れを止める善意は、重荷になる。

誰かを救うはずだったものが、誰かの時間を奪い、誰かの手を縛るのだ。


* * *


二時間後。

工房の床は驚くほど広くなった。空気が軽い。匂いも薄い。

壁だった樽が消えたことで、釜まで一直線の通路が戻った。


その中央に、ハインが立っていた。

顔は青い。けれど、踏みとどまっている。


「ここが、ハインさんの持ち場です」


作業台の左に、フラスコが五本だけ並ぶ。

中身は、選り抜きの“良品薬液”。

右には空瓶、封蝋、札。必要なものだけ。


「ハインさん。封印だけに集中してください。

 選別も、手直しも、段取りも――忘れてください」


僕は周囲の職人たちにも声をかけた。トクレンの弟子だけじゃない。商会から来た応援もいる。


「皆さんの仕事は、左の五本を絶対に切らさないことです。

 六本目を置く必要はありません。五本が四本になったら、最高品質の一本を補充する。

 そして、出来た瓶は即回収、即箱詰め。――ハインさんの手を止めない」


ハインが震える手で、フラスコを一本掴む。

恐怖がまだ張り付いている。“失敗したら毒になる”という恐怖が。


「大丈夫です」


僕は静かに言った。


「ここにあるのは、検品を通った薬液だけです。検品は任せてください。ハインさんは、目の前の封印だけを」


ハインは大きく息を吸い、目を閉じた。


指先で、封印紋の軌跡を二回なぞる。

息を一つ吐く。


――カチン。


彼の中で、何かが噛み合う音がした気がした。


迷いのない手つきで薬液を釜へ移す。

定型の魔方陣を展開する。

修正はいらない。悩みもいらない。型通りに、魔力を流し込むだけ。


――カチン。


硬質な音。釜の底で光が収束し、薬効が“固定”される。


ハインは出来上がった薬を小瓶に移し、封蝋を落とす。

その瞬間、待機していた職人がさっと瓶を回収し、次のフラスコをそっと置いた。


――カチン。

また一本。


――カチン。

さらに一本。


流れが、一本の線になり始めた。


* * *


一時間が経った。

工房の中は、奇妙なほど静かだった。


怒号もない。走り回る足音もない。

聞こえるのは、釜の火と、封印の「カチン」という音だけ。

一見すると、のんびりしているようにさえ見える。


だが――。


「……信じられない」


時刻と本数を記録していたルカが、帳面と時計を交互に見て目を見張った。


「これならトクレン親方がいた時のピークと同じ……いや、それ以上のペースです」


当初、ハインの能力は“一日20本”と仮置きしていた。

でも今は、それを軽く越えている。


理由は単純だ。

迷いがない。例外がない。

“良品だけ”が流れてくるなら、封印は判断じゃなく作業になる。


「次、入ります!」

「10本目、完了!」


ハインの背中から、臆病さが消えていた。

彼はゾーンに入っていた。

安全な材料が流れてくる――その安心が、技術を引き出す。

震えていた手が、いまは精密機械みたいにリズムを刻む。


忙しさは減った。

なのに、完成品は増える。


全員が限界まで走った昨日より、九割を止めた今日の方が、多くの命を救えている。

――残酷な算数だった。


これが、【全体最適】。

一日に救える命の数――いちばん大事な成果だ。


僕は、自分の身体の震えが止まるのを感じた。


(流れてる。今度こそ――届く)


頼む。ミーナに、どこかの寝台で待っている誰かに――間に合ってくれ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ