第90話 死者が出ない日
夕方。中央広場の臨時診療所。
寝台の一つに、見覚えのある姿があった。
あの日、商会の前でぐったりした女の子を抱きしめていた、若い母親だ。
看護師が、泣き崩れそうになっていた母親の肩をそっと叩いた。
「え……?」
母親が顔を上げる。
高熱でうわされ、肌が土気色になっていた幼い女の子。
その頬に、ほんのり赤みが差していた。呼吸が穏やかで、玉のような汗をかいている。
「熱が……下がってきてる。もう大丈夫よ」
看護師の手には、出来立てのアッシュ・キュアの空き瓶が握られていた。
ほんの一時間前に届いたばかりの薬。
「ああ……ああぁっ!」
母親が女の子に縋りついて泣いた。
細い肩が何度も震える。
「よかった……よかった、もう駄目かと思った……」
その時、女の子のまぶたがゆっくり持ち上がった。
「……おかあ、さん?」
たったそれだけの、掠れた声だった。
母親は声も出せず、何度も何度も頷きながら、小さな身体を抱きしめた。
隣の寝台で、別の家族が口元を押さえる。
看護師が目尻を拭いながら、次の患者へ走った。
診療所の入口には、次々と商会の馬車が到着する。
荷台から降ろされる木箱には、真新しい封蝋の瓶がぎっしり詰まっている。
「……今日は」
医師団代表が日報を見つめ、震える声で言った。
「……診療所で亡くなった患者が、一人もいない」
その言葉が、さざ波のように広がっていく。
薬がある。助かる。
その事実が、病そのものよりも強く、人々の心を治していった。
* * *
夜。ルミナ薬工房は、静かに稼働を続けていた。
怒号はない。腐臭もない。
(忙しさが、成果じゃない)
僕は工房の隅で、何度も心の中で反芻した。
完成した瓶が、コトン、と音を立てて箱に収まる。
その音は、凍りついていた街の心臓が、また鼓動を始めた音のように聞こえた。




