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第86話 五つの仕事

ルミナ薬工房に足を踏み入れた瞬間、肺の奥まで刺すような匂いがした。


夜明け前。窓の外はまだ鉛色なのに、工房の中だけが蒸し暑い。樽が積まれ、瓶が転がり、床石の目地にまで緑黒い染みが入り込んでいる。


――昨日まで、“希望”だったはずの色だ。


「アラタさん……商会長も。すいません、片付けもまだで……」


一番弟子のハインが振り向いた。目の下の隈は紫に近い。師匠が倒れてから、一睡もできていない顔だった。

隣でセラフィナが一礼する。執務服のまま、髪もまとめきれていない。それでも背筋だけは真っ直ぐだ。


「片付けは後で大丈夫です。今は、状況を“分けて”教えてください」


僕は作業台の脇に立て掛けてあった木の板を引き寄せ、チョークを握った。

セラフィナが黙ってランプの芯を上げる。淡い光が木の板を照らした。


「トクレンさんが行っていた作業を、詳しく教えてもらえますか? 順番に、全部です」


「え……? は、はい」


ハインはぽつりぽつりと言葉を落とした。


「まず……樽の中身を嗅いで、舐めて、見て……劣化の具合と、不純物の有無を確認します」


「確認。……それから?」


「ダメになりかけてたら、中和剤を足したり、濃縮液で補強します。魔力の“癖”をならすんです」


「手直しですね」


「はい。それでも危ない時は……封印の魔方陣を、その材料に合わせて組み替えます」


「魔方陣の調整……と」


「最後に、高位の魔力を注いで、効きを固定して封じる。……それから、封印の紋様と濁りを見て最終確認」


僕は木の板に番号を振って書き出した。


1.確認(劣化・混入の判定)

2.微調整(中和/補強)

3.魔方陣の構築・調整

4.高位魔力注入・封印

5.最終検品


書き終えた瞬間、異常さが浮き彫りになった。

これは“作る”工程じゃない。半分以上が、悪い材料を“救う”工程だ。腐りかけたものを、薬にねじ込むための仕事。


「親方は……凄かったんです」


ハインの声は誇りと無力感が混ざっていた。


「どんな樽でも、匂いだけで『中和剤を三滴、魔力を二割』って言い当てる。魔方陣も、その場で線を足して削って……悪い材料が暴れるのを押さえ込んでた」


――だから倒れた。


「ハインさん」


僕は木の板から目を離さず言った。


「……ハインさんには、1番から3番の工程ができますか」


ハインは苦しそうに首を振った。


「無理です。あんな調整はできない。あれは親方にしかできない芸当です。……失敗したら、薬じゃなく毒になる」


拳を握りしめ、視線を落とす。


「怖いんです。釜に火を入れるのが。もし誰かを殺したらって……」


その恐怖が、工房を止めている。

技術不足じゃない。責任感だ。


――だからこそ。


「なら……もし、調整がいらなかったら?」


ハインが瞬きをする。


「1.確認、2.微調整、3.魔方陣の組み替え。これが不要で、最初から完璧な状態の“薬液”だけが目の前にあったら――4.封印だけを、型通りに回せますか」


ハインはしばらく黙り込み、やがてゆっくり頷いた。


「……できます。定型の魔方陣があって、薬液が良品なら。

 封印の手順も、魔力の流し方も、親方の手元を毎日見てきました。型通りなら回せます」


その言葉を聞いた瞬間、僕の中でピースがはまった。


【ボトルネック】は“トクレンがいないこと”じゃない。

“悪い材料を救おうとすること”だ。


僕は木の板の1~3を手のひらで隠した。

セラフィナが、静かに頷く。


「ということは、アラタ。“悪い材料”を、そもそもこの工房に入れなければいいのね」


「はい」


僕は息を吸い、言葉を選ばずに続けた。


「入れてはいけない。救ってはいけない。“もったいない”を切り捨てる」


僕は視線を落とす。

樽の側面に貼られた、汚れて読めない札。たぶん、誰かが命懸けで運んだ印だ。

喉の奥が、酸っぱい匂いと一緒に焼ける。


「……ここにある樽――全部、捨てましょう」


ハインの顔から血の気が引いた。


「ぜ、全部……!?」


「分かっています。中には“まだ使えるかもしれない”ものもある。

 でも、それを見極めるのは誰ですか。――ハインさんですか。それとも、目を覚ました親方ですか」


ハインは答えられない。


「見極めようとした瞬間、工房はまた詰まります。封印の時間が削られる。結果、完成品はゼロに戻る」


「……」


工房が重い沈黙に包まれた。


「……確認も手直しも要らない、良品だけが流れてくるとして、一日に何本まで回せますか?」


僕が聞くと、ハインは考え込んだ。


「……最初は20本くらいなら、なんとか」


――20本。トクレンの三分の一の水準。それでもゼロよりははるかに良い。

今、上から流れ込んでいるのは、その十倍だ。だから九割を止める必要がある。


止める勇気。

僕は舌が冷たいのを感じながら、それでも言い切った。


「今日から流すのは“きれいな流れ”だけです。ハインさんの一日の封印本数に合わせて、それ以上は入れない。入口を絞ります。上流を――九割止めます」


セラフィナが短く言った。


「私が止める。商会の工房も、運搬も。あなたが決めた量だけ動かすわ」


ハインの肩がわずかに落ちた。


ここから先は、もう工房の判断じゃない。

命懸けで走っている街全体に、“止まれ”と納得させなければならなかった。

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