第85話 工程図を描け
ペン先が紙の上を走り始めた。
最初はぎこちない。けれど、矢印を一本引くたびに、頭の中の霧が晴れていく。
僕が描いたのは、工程図だ。
灰葉草が山から採られ、選別され、前処理され、特効薬として仕上げられて、患者の口に入るまで。
箱と矢印で、流れを“見える形”にする。
「一番上が『①採取』」
紙の上端に大きな箱を描く。
「ここは冒険者。現状、人も集まっているし、動機も強い。採れる量は……少なくとも今は、上限が見えない」
「報酬を上げたおかげで、山が丸裸になったと聞いたわ」
セラフィナが苦笑する。
笑える状況じゃないのに、その苦笑に、張り詰めていたものがほんの少し緩んだ。
「次に『②検品・選別』。ここで鮮度の落ちた束や、混ざりのある束を弾く」
「そして『③前処理』。洗浄、刻み、煮出し、一次抽出」
矢印を下へ伸ばす。
箱を並べる。
「②はギルド倉庫裏の検品所、③は商会傘下の工房群が担当。人も設備も投入した。今の処理能力は高い。……ここまでは流れてます。むしろ流れすぎている」
セラフィナが紙の上を指でなぞる。
「まるで鉄砲水ね」
「はい。そして、この激流が流れ込む先が――」
僕はペンを止めた。
紙の中央下部に、小さな四角を一つだけ描く。
「『④最終調合・封印』。ルミナ薬工房です」
そこからさらに矢印を伸ばし、『⑤完成・配送』と書く。
配送の先には、『⑥診療所』。
描き終えた瞬間、残酷なほど分かりやすい図になった。
①~③の箱は大きい。太い矢印で繋がっている。
なのに④だけが極端に小さい。
しかも今、その箱の蓋は閉じている。トクレンが倒れたからだ。
「……こうして見ると、逃げ場がないわね」
セラフィナが息を吐いた。
「上からものすごい量の水が流れてきて、ここで全部詰まる。
行き場を失った水は、当然あふれる」
「はい。あふれた水は、仕掛品として通路と倉庫を埋め、時間とともに腐って、廃棄ロスに変わる」
僕は④の箱の周りに、黒いインクで渦を描き込んだ。
いま工房で起きている惨状そのものだ。
――僕はずっと、原因を取り違えていた。
足りないのは、原材料だと思っていた。
だから、とにかく“全体に量を入れる”ことばかり考えていた。
でも、全体の出力を決めるのは、一番頑張っている工程じゃない。
一番能力の低い工程――【ボトルネック】だ。
瓶の口が一番細いなら、どれだけ上から注いでも、出ていく量は“口”が決める。
この図でいえば④。
ここが一日に十本しか仕上げられないなら、上流から千本分を流そうが一万本分を流そうが、出てくるのは十本だけ。
残りは、腐って終わる。
「……馬鹿だ」
自分が描いた図を見て、ようやく胸の奥が冷えた。
こんな簡単な理屈、落ち着いて考えれば分かったはずだ。
焦りと恐怖が、僕の目を曇らせていた。
どこかで、トクレンなら何とかしてくれると――甘えていた。
「僕たちは、トクレンさんに“仕上げ”だけじゃなく」
僕はペンの先で④の箱を叩いた。
「“検品”と“手直し”という余計な仕事まで押し付けて、彼の能力を削り取っていた」
セラフィナが、静かに頷いた。
「だから、倒れた」
言葉が胸を刺す。
でも、刺さるからこそ、次に進める。
僕は顔を上げた。
さっきまでの涙は乾いていた。残っているのは、冷徹な計算と、燃えるような執念だ。
「……トクレンさんを復活させる魔法はありません」
僕は言った。
「でも、“トクレンさんが何に時間を使っていたか”を分解することはできます」
「分解……?」
「親方の手が止まっていた理由は、仕上げが遅いからじゃない。
材料がバラバラで、確認と手直しに追われたからです」
なら――。
僕はペンを置いて立ち上がった。
「見に行きましょう」
セラフィナも静かに立つ。
彼女は、ふわりと微笑んだ。
傷ついた青年を慰める笑みじゃない。戦場に立つ仲間に向ける笑みだ。
「ええ。行きましょう、アラタ」
* * *
商会を出ると、夜明け前の街は凍えるほど寒かった。
遠くで鐘が鳴る。重たい音が、街の屋根を撫でていく。
風に乗って、怒号のような声が聞こえた。
商会の前か、ギルドの前か。薬を求める人々が、まだ座り込んでいるのだろう。
その声を聞くたび、胸が締めつけられる。
ミーナの熱に浮かされた顔が、脳裏を刺す。
怖い。
逃げたい。
今すぐ布団を被って、耳を塞ぎたい。
その瞬間、震えそうになった僕の腕を、隣を歩くセラフィナが強く掴んだ。
彼女は前を向いたまま、何も言わない。
ただ、握る強さと体温だけで“一人じゃない”と伝えてくる。
僕は歯を食いしばり、一歩を踏み出した。
向かう先は、腐敗臭と絶望が渦巻く場所――ルミナ薬工房。
あそこで起きていた“詰まり”の正体を暴く。
そして、流れを取り戻す。
それが、僕が犯した失敗に対する、唯一の償いだ。
「急ぎましょう」
特効薬の生産が止まってから、もう丸一日が過ぎている。
残された時間は長くなかった。
白い息を吐きながら、僕たちは走り出した。
鉛色の空の下、希望という名の細い糸を手繰り寄せるために。




