第84話 そばにいる強さ
深夜。
エルドレッサ商会であてがわれた執務室。
僕は机に突っ伏していた。
窓の外は暗い。風の音だけが聞こえる。
机の上には報告書とメモが散らばっていた。
――『ルミナ薬工房、稼働停止』
――『廃棄予定の半製品、樽数百』
――『本日の死者、多数』
――『ギルド受付嬢ミーナ、発熱。灰熱病の疑い』
ミーナの顔が浮かぶ。
あの、怒っているのか笑っているのか分からない眉。
「大丈夫ですよ、アラタさん」って、平気なふりをする癖。
彼女は物語の“登場人物”なんかじゃない。
僕の命の恩人で、僕がこの世界で最初に守るべきだと思った――“この世界の一人の人間”だ。
「……クソッ」
髪をかきむしった。
このままでは僕が殺したようなものだ――そんな言葉が喉まで上がってくる。
でも、言葉にしたら本当にそうなってしまう気がして、飲み込んだ。
材料を積めば安心だと思った。
恐怖に追われて、全員を駆り立てた。
結果、工房は重りに押し潰され、最後の砦は倒れ、特効薬の生産は止まった。
そしてミーナまで――。
逃げ道は、いくらでも作れる。
「予想外だった」「情報が足りなかった」「現場が従わなかった」――
どれも、嘘じゃない。
でも、全部、卑怯だ。
決めたのは僕だ。走らせたのも僕だ。
涙すら出なかった。
鉛みたいな無力感だけが、胸に沈んでいく。
* * *
その時。
コン、コン。
控えめなノックの音が響く。
返事をする気力もないのに、扉は静かに開いた。
「……アラタ」
凛とした声――けれど、どこまでも柔らかく、少しだけ悲しい響きを含んでいた。
顔を上げると、セラフィナが立っていた。
彼女もまた疲労を隠せない顔をしている。
それでも、その瞳だけは真っ直ぐだった。
「……少し、話せる?」
彼女は部屋に入り、そっと扉を閉めた。
その手には、湯気の立つ二つのカップが握られていた。
* * *
ふわりと、ハーブティーの甘く温かい香りが漂う。
この数日、僕の鼻を支配していたのは腐敗臭と、焦げた薪の匂いと、誰かの吐いた鉄の匂いだった。
だからこの香りは、泣きたくなるほど優しかった。
「……飲んで。少し落ち着くから」
セラフィナは、僕の隣の椅子を引いて腰を下ろした。
机を挟んだ対面じゃない。すぐ横だ。
肩が触れるほど近い距離に、彼女の体温がある。それだけで、張り詰めていた胸の内が、ほんの少しだけ緩んだ。
僕はカップに手を伸ばしかけて、指先が震えるのを見てやめた。
代わりに両手で顔を覆う。
「……合わせる顔がありません」
声が、掠れていた。
「僕のせいです。僕が現場を煽った。僕が全員を走らせた。
……その結果、トクレンさんは倒れて、ミーナは――」
「アラタ」
セラフィナが、僕の名を呼んだ。
甘やかす声でも、咎める声でもない。
静かな水面みたいに澄んだ、凛とした響きだった。
「顔を上げて」
促され、僕はためらいながら顔を上げた。
至近距離で、紫水晶の瞳が僕をまっすぐに見つめている。
失望はない。あるのは、深い慈愛と、折れない意志の光だった。
「……今回の方針で、現場に無理をさせたのは事実よ」
セラフィナは、僕の責任を否定しなかった。
仕方なかったとも言わない。
ただ事実を、事実として置いた。
それが逆に、僕の中で絡まっていた考えを、少しずつほどいていく。
「結果として、最悪の事態を招いたことも」
彼女は一拍置いて、続けた。
「でもね、アラタ。あなたの計算が、あなたの数字が支えてきたものも、確かにここにあるの」
「支えた……? 壊しただけじゃないですか」
「いいえ」
セラフィナは、小さく首を振った。
「あなたが来るまで、この商会もギルドも、どんぶり勘定で腐りかけていた。
資金の流れも、在庫の重みも、誰も“見よう”としていなかった」
彼女は机の上の帳面を軽く撫でた。
そこには、僕が整えた数字が並んでいる。
「あなたがいたから、私たちは“どこで血が止まるか”を知れた。
ここまで持ちこたえる体力を、作れたの」
セラフィナは、そっと僕の手の上に自分の手を重ねた。
白く細い指なのに、その温もりには、商会を率いる当主の強さがあった。
「もし、あなたがいなかったら――私たちはもっと早く、何も分からないまま埋もれていたわ」
「でも、今は……実際に埋もれてます」
喉が、痛い。
「僕の判断ミスで」
セラフィナは、僕の手をわずかに強く握った。
「ええ。だから――取り返すのでしょう?」
その言葉は、慰めじゃなかった。命令でもない。
“当然そうするよね”という、信頼だった。
「あの方針は私たちが一緒に、この街を守るために決めた。だから、あなた一人で抱え込む必要はないの。それなのに罪悪感を抱くのは、あなたが誠実だから。
――でも、それは自分を責めてうずくまるためじゃない」
彼女の視線が、僕の奥底に残っていた理性をまっすぐ射抜く。
「次は間違えないために。
今、何が起きているのかを正しく知るために。
――考えるんでしょう? あなたは」
考える。
そうだ。僕は会計士だ。
感情で流されるんじゃなく、事実と構造で動く生き物だ。
後悔で頭を埋め尽くしている暇があるなら、脳の一部でも多くを、解決のために使わなきゃいけない。
「……いつものあなたらしく、一度、紙の上に並べてみない?」
セラフィナは机の上の乱雑なメモを端に寄せ、真っ白な羊皮紙を一枚広げた。
そして、ペンを僕に差し出す。
受け取った瞬間、指先の震えが少しだけ収まった。
隣に彼女がいる。それだけで、呼吸ができる。
「……はい」
深呼吸をして、冷え切った肺に空気を送り込む。
「書き出します。特効薬ができるまでの、全部の流れを」




