第82話 ボトルネックの崩壊
「親方が倒れたッ!」
その叫びは、腐敗臭の漂うルミナ薬工房の空気を、鋭く引き裂いた。
僕が駆けつけた時、トクレンはすでに工房の床に横たえられていた。
荒い呼吸。土気色の顔。手は冷たく汗ばんでいる。
昨夜、砕けたフラスコの破片が、まだ片付けられずに隅に集められていた。床石には、灰緑色の染みが残っている。
弟子たちが半円を作って取り囲み、緊急で呼ばれた医師が膝をついて、トクレンの胸に手を当てた。
医師は短く息を整え、指先で小さな魔力紋をなぞる。結晶のような淡い光が一瞬だけ走り――すぐに消えた。
「……魔力枯渇。それに重度の過労だ」
医師の声は、淡々としているのに残酷だった。
「命に別状はない。だが、限界を越えている。
これ以上、世界光を引っ張れば魔力回路が焼き切れる。――一週間は魔力使用禁止。絶対安静だ。魔法は論外」
「そ、そんな……!」
一番弟子のハインが膝をついた。
いつもは完璧主義で、言葉を飲み込む男が、今は声を震わせている。
「一週間も……? じゃあ、誰が仕上げをやるんだ。俺たちじゃ、まだ……」
言いかけて、噛み切るように唇を閉じた。
彼が言わなくても分かる。
この街で――いや、この工房で、状態がバラバラな半製品を“薬にするか、毒にするか”の境目で見分け、整え、封印まで持っていけるのは、トクレンただ一人だった。
そのトクレンが、倒れた。
次の瞬間、頭の中で何かが乾いた音を立てた。
昨日まで“少ない”“遅い”だった完成品が、いま“ゼロ”に落ちる。
――一日に救える命の数が、ゼロになる。
* * *
だが、時間は止まらない。
そして――材料の流入も止まらなかった。
「おい、どけ! 次の樽が入るぞ!」
事情を知らない運搬係が、樽を抱えて工房の入口に押し寄せてくる。
外では遠征帰りの冒険者が、ギルドに薬草を積み上げている。
商会傘下の加工場では、止めろと言われるまで、職人たちが必死に煮出し続ける。
巨大な慣性が働いている。
列車は、急ブレーキでは止まれない。
「入れるな! もう置き場がない!」
ハインが叫ぶ。喉が枯れている。
だが運搬係も必死だった。
「こっちだって廊下がいっぱいなんだよ! とりあえず置いてく! これを持ったままじゃ、戻るに戻れねえ!」
ドン、ドン、と樽が置かれる。
床が埋まり、積み上がり、壁になって通路が消える。
酸っぱい匂いが、濃くなる。
昨日まで“希望の材料”だったはずの液体が、いまは泡を吹いている。
ここまで押し込んだ緑の山は、もう資産じゃない。
重りになり、障害物になり、じわじわと現場を押し潰す圧力になる。
「……どうするんだよ、これ」
誰かが呻いた。
「親方がいなきゃ、これ全部、ただの濁った水だ。明日には腐るぞ」
腐臭が濃くなり、捨てろという怒号と悲鳴が、狭い工房の中で跳ね返った。
喉の奥で、鉄の味がした。
(止めないと――)
止めなきゃいけない。――でも、何を? どこを?
止めれば、いま助かるはずだった命が救えなくなる。
止めなければ、明日には全部が腐って、もっと多くが救えなくなる。
どちらを選んでも、行きつく先は地獄だ。




