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第81話 最後の砦、陥落

ルミナ薬工房の入口を樽が塞いでいた。


搬入口から溢れ出した樽が、バリケードのように入口を塞いでいる。

中から怒鳴り声が聞こえた。


「こんな腐りかけを持ってくるんじゃねえ! 突き返せ!」

「でも親方、捨てたらもったいないです! 調整すればまだ……!」

「調整する時間がねえんだよ!」


ガラスの割れる音がした。

僕は樽の山をかき分け、工房へ滑り込む。


蒸し風呂のような熱気。

釜の蒸気。薬草の匂い。焦げた薪の匂い。

そして、酸っぱい腐臭――外より濃い。


トクレンは、その中心にいた。

一週間前には岩のようだった背中が、今はひと回り小さく見える。頬がこけ、目が異様にぎらついていた。


「……アラタか」


彼は手を止めずに言った。

その手元を見て、僕は息を呑む。


トクレンは――薬を作っていなかった。

ひしゃくで樽の中身をすくい、匂いを嗅ぎ、舌先で舐め、顔をしかめる。

薬液に何かを足して、また嗅いで、また舐める。


「……ダメだ。酸味が出てやがる。中和剤を足せ」

「……こっちは香りが飛んでる。濃縮液で補強しねえと使えねえ」


次々と持ち込まれる半製品の“検品”と“手直し”に追われている。

釜の火は赤いのに、肝心の仕上げが進んでいない。


「トクレンさん……それは、お弟子さんに任せられないんですか?」


僕が小声で言うと、トクレンは吐き捨てた。


「無理だ」


視線だけで樽の山を睨む。


「遠くから運んで傷んでる。煮出し方が荒い。混ざりもある。

 まともな材料なら弟子でも扱えるが、ここまで状態がバラバラだと、ワシが一つ一つ整えねえと、毒になる」


――整える。

その言葉が、胸に刺さった。


僕の後ろで、ハインが泣きそうな顔で囁いた。


「……親方の“確認待ち”なんです」


彼が指差した先には、仕上げ用の釜があった。火は入っているのに、中身は空だ。


「俺たちが準備しても、親方が『その材料で大丈夫か、俺が見るまで待て』って……。親方の許しが出ないと、最終工程に進めない。でも親方は、次々来る樽の確認で――」


言葉が途切れる。

言い訳じゃない。現実だ。


量を増やせば増やすほど、質が乱れる。

質が乱れれば、手直しが増える。

手直しが増えれば、仕上げが遅れる。

遅れれば、待たされている間に材料がさらに傷む。

傷めば、また手直しが必要になる。


ぐるぐると回る悪循環が、工房全体に絡みついている。

僕は、喉の奥が冷えるのを感じた。


材料は十分以上にある。

前処理も増えている。

なのに完成品が増えない――。


工程の流れのいちばん後ろで、最終的に「これは使える」と言える“判断”が、今いちばん重くなっている。


その“判断”と“手”が、薬を生むためじゃなく、荒れた材料を救うために削られている――そんな気がした。

善意で集めた緑の山が、最後の砦を押し潰しかけている。


僕は恐る恐る視線を向けた。

工房の出口付近、完成品を置くはずの出荷棚。


――そこには空の棚板と、乾いた薬瓶の輪染みだけが残っていた。


(……妙だ、じゃない)


もはや単なる違和感ではなかった。


その時、入口で怒号が上がった。


「どけ! 次の樽が入るぞ!」


新しい樽が運び込まれる。

トクレンの横に、ドン、と置かれた。


その振動で、トクレンの体がふらりと揺れた。

ハインが慌てて支える。


「親方――!」


トクレンは乱暴に振り払った。


「……大丈夫だ」


大丈夫じゃない。

背中がそう言っている気がした。


* * *


深夜。

工房の喧騒はようやく静まり、職人たちは交代で仮眠に引き上げていた。


だが、トクレンだけは残っていた。

釜の火だけが赤々と燃え、影が壁に揺れている。


トクレンは、山積みの樽の前に立ち尽くしていた。

まだ“確認待ち”が数十。壁のようにそびえ、酸っぱい匂いを吐いている。


「……くそっ」


掠れた声が漏れる。


「どいつもこいつも……腐りかけまで送りつけやがって……」


だが、突き返せない。捨てられない。

冒険者が命懸けで採ってきた。

誰かが寝ずに刻んだ。

それを自分の手元で腐らせれば、その先にある命が消える。


責任感だけが、限界を超えた老体を支えていた。


「やるしか……ねえ……」


震える手で、一本のフラスコを掴む。

中には、奇跡的に状態の良い濃縮液――灰緑色に澄んだ、重たい光が揺れていた。

これを釜に入れれば、30人分の特効薬になる。


慎重に。慎重に。

そう思った瞬間――。


ピキッ。


トクレンの視界が、一瞬だけ白く飛んだ。

指先の感覚が消える。


カシャン。


乾いた音が響いた。

手から滑り落ちたフラスコが、石畳に叩きつけられて砕け散る。


「あ……」


トクレンが呆然と見下ろす。

貴重な液体が床に広がっていく。灰緑の水たまりが、冷たく、無情に伸びていく。


「……あ、あぁ……」


膝から力が抜けた。

トクレンはその場に崩れ落ちた。


床に広がった液体に、自分の顔が歪んで映っている。

酷く老け込んだ、情けない顔だった。


最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。

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