第80話 流れてこない薬
あの方針決定から、一週間が過ぎた。
ローレンツァの街は、完全に『灰熱病』との総力戦体制に入っていた。
あの日以来、僕は工房を見て回る暇がなかった。
朝はギルドで怒鳴り声の中に立ち、昼は商会で人員と樽の手配をして、夕方は教会と診療所で「明日をどう繋ぐか」を詰める。
眠れないまま夜が明け、検品所の火種を潰して回り、目の前の現場に忙殺されているうちに、気づけば日付だけが進んでいた。
とにかく“入口”を広げることに必死だった。
冒険者ギルドには毎日、薬草の束が山のように運び込まれる。
エルドレッサ商会の傘下にある大小の薬師工房は、通常の仕事を最低限に絞り、ひたすら灰葉草の選別と洗浄と刻みに没頭している。
教会は看護と炊き出しの人手を出し、医師団は臨時診療所を拡張し、重症者の基準を毎日書き換えていた。
街の誰もが必死だった。
誰もが善意で、誰もが全力で動いていた。
――だというのに。
臨時診療所に届く『アッシュ・キュア』の本数は、一向に増えなかった。
それどころか、三日前から目に見えて減っている。
材料は十分以上にある。前処理も増えている。
なのに……どうして“完成品”が増えない?
僕はエルドレッサ商会傘下の加工場へ向かった。
* * *
加工場エリアに足を踏み入れた瞬間、僕は思わず鼻を覆った。
「……なんだ、この匂いは」
むっとする湿気と青臭さ。そこまでは分かる。
だが、その奥に、鼻の奥をツンと刺す酸っぱい刺激臭が混じっている。
植物が腐敗し、発酵し始めた時の匂いだ。
通路を見て、言葉を失った。
樽、樽、樽。
人の背丈ほどもある木樽が、廊下の両脇に壁のように積み上げられている。
通路の幅は、人が一人通れるギリギリ。職人たちはその隙間を、カニのように横歩きで抜けていた。
「おい、そっちはまだか! 次のが来たぞ!」
「置く場所がない! とりあえず中庭に出せ!」
「雪が降ってくるぞ、濡らすなよ!」
怒号の中、僕は身を縮めて奥へ進む。
樽の中身はすべて“仕掛品”――洗浄して刻み、一次抽出まで終えた薬液だ。
あとはルミナ薬工房で最終調整と封印を施せば、特効薬になるはずの半製品。
前に倉庫で見た“乾いた木箱の山”とは違う。
これは、ドロドロした液体だ。ナマモノだ。待たせれば腐る。
まるで洪水の泥水が、商会の血管を塞いでいるみたいだった。
「アラタさん!」
樽の隙間から、現場監督が顔色の悪い顔を出した。目の下に濃いクマ。声も掠れている。
「見てください、この量! みんな寝ずに頑張ってますよ。前処理のペースは初日の三倍です!」
彼は誇らしげに胸を張る。
だが、その横の樽から――白い泡が、ぷくぷくと吹きこぼれていた。
「……これ、いつ加工したものですか?」
「えっと……三日前、いや四日前か。ルミナが受け取ってくれないんで、順番待ちです」
監督は困ったもんだと言わんばかりに肩をすくめる。
「トクレン親方の手が遅くてねぇ。こっちがいくら頑張っても、あそこで詰まっちまう。もっと早く回してくれないと、こっちの苦労が水の泡ですよ」
悪気はない。
自分の工程は完璧。遅れているのは次工程のせい――現場では、そういう“正しさ”がいちばん強い。
僕は礼を言って、その場を離れた。
背中に、酸っぱい匂いがまとわりつく。
(遅い、か。……でも、それは“そう見える”ってだけだ)
僕は走った。“どこで”止まっているのかを確かめるために。




