第75話 作り置きできない薬
工房の扉を開けた瞬間、鼻を刺す濃い薬草の匂いと、熱い蒸気が押し寄せた。
「――お邪魔します!」
工房の中は戦場だった。職人が桶を運び、火を守り、瓶を並べる。
その中心で、岩みたいな背中の男が大釜をかき混ぜている。白髪混じりの髭、薬草汁で染みた革の前掛け。
「……おお。アラタか」
トクレンが、こちらを見もせずに言った。
その横には、腕まくりをしたセラフィナがいた。いつもの“商会長”の鎧は脱ぎ捨て、現場の顔で指示を飛ばしていた。
「状況は聞いたわね、アラタ。……もう“噂”じゃない。街の中で広がり始めてる」
「診療所も混乱してます。……治療薬は?」
僕が問うと、トクレンが低く笑った。
「ある。――あるが、簡単じゃねえ」
彼は柄杓で釜の縁を叩いた。深緑の薬液が泡立つ。
「アッシュ・キュア。四十年前、俺が命懸けで王都まで走って持ち帰った処方だ。熱は下がるし、肺も持ち直す」
胸の奥が、わずかにほどけかけた。
――特効薬がある。なら、最悪の事態は避けられる。
そう思いかけた僕の前で、セラフィナの表情は硬いままだった。
「……でも?」
セラフィナが答える代わりに、トクレンが舌打ちした。
「こいつはな、ナマモノだ。主原料の灰葉草は、摘んでから二、三日で香気も魔力も抜ける。古くなった束は、ただの草だ」
「二、三日……」
「薬液にした後も同じだ。瓶に詰めて封を打っても、効き目が最大で保てるのは四、五日。――一週間も経てば、ただの苦い水に変わる」
僕の頭の中で、計算の歯車が悲鳴を上げた。
原料の猶予が、二~三日。
完成品の猶予が、四~五日。
「つまり……作り置きが、できない」
僕の呟きに、セラフィナが重々しく頷いた。
「冬の前に備蓄しておく、というやり方が通じないの。必要な分を、必要な時に、近場で集めて作るしかない」
「処方も道具も揃ってらぁ。材料がちゃんとしてりゃ、仕上げまで持ってける」
トクレンが言い切り、そして苦々しく続けた。
「だが“まとめて作って積む”って真似はできねえ。数日でゴミになる。注文が来た分を、その都度仕込むしかねぇんだよ」
――アッシュ・キュアは在庫が盾にならない。
しかも、ここで止まるのは“金”じゃない。“命”だ。
(材料が遅れたら? 釜が止まったら? 封印が間に合わなかったら?)
その瞬間、流れは止まる。
止まることは、この病にとっては――死を意味する。
「今は通常ポーションを減らして、特効薬の製造に人手を回してるわ」
セラフィナの声は冷静だった。けれど、その目の奥に焦りが見えた。
「……でも、材料が安定しないの。これ以上患者の数が増えたらどうなるか――」
僕は息を呑んだ。
需要はこれから爆発するかもしれない。供給は細い。しかも“貯める”ことで埋められない。
(これは……かなり厳しい……)
胸の奥で、言葉にならない予感が形になった。
* * *
それから数日。
街の色は、完全に変わった。
灰色の空から、ちらちらと本当の雪が舞い始めていた。
でも街を覆っていたのは、雪よりも濃い――絶望の灰色だった。
中央広場に設けられた臨時診療所の前には、長い行列ができている。
湿った咳。子どもの泣き声。毛布にくるまって震える老人。誰もが、自分の番が来るまでに倒れないかを恐れていた。
列の端に、見知った顔がいた。
グラスホークのバルグだ。大男の腕の中で、小さな子どもが熱にうなされている。
「……姪だ」
バルグは短く言って、視線を逸らした。
いつもなら豪快に笑う男の声が、かすれている。
(このままだと間に合わない)
患者の増え方が、供給の限界速度を追い越し始めている。
「アラタさん……」
横でミーナが、口元を両手で覆って立ち尽くしていた。
視線の先、診療所の奥から、医師たちが担架を運び出してくる。
白い布が、頭までかけられている。
布の隙間から垂れた腕の皮膚は、暖炉の底に残った灰みたいに、生気のない灰色だった。
広場が、水を打ったように静まり返る。
誰かのすすり泣きだけが、雪混じりの風に乗って響いた。
――最初の死者が出た。
その事実は、この“灰色の雪”がただの悪天候ではなく、街全体を飲み込もうとする災厄だと、誰の目にも分かる形で突きつけていた。




