第74話 灰色の雪、ふたたび
冬が来た。
ローレンツァの空は朝から鉛色で、冷えた空気が肺に刺さる。
街全体が、巨大な獣が身を縮めるみたいに息を潜めていた。
受付カウンター裏の備品室。ここは僕の、いまの“戦場”だ。
帳簿の整備が一段落して、ようやく日々の記録が、きちんと“追える”形になってきた。
「……合ってる」
羊皮紙の束をめくり、先週の入出庫の記録と、倉庫番が付け始めた札の一覧を照合する。
数ヶ月前まで、この倉庫は魔窟だった。木箱の山に埋もれて、何がどこにあるか分からず、勝手に抜かれても気づけない。
でも今は、少なくとも――“何が動いていないか”は、数字の上に影として映る。
滞留したまま動かない品は減り、期限切れで捨てる薬草やポーションも減った。
エルドレッサ商会からの納品が以前より安定して、“念のため少し多めに発注する”無駄も減っている。
あれだけ揉めた商会の倉庫の件も、“盾”と“腐る箱”を分けるところから始めて、少しずつ形になった。
(……やっと、整ってきた)
本当なら、温かいお茶でも飲んで一息ついていいはずだった。
――ガタガタガタッ。
不意に窓枠が風に叩かれて、大きな音を立てる。
顔を上げると、ガラスの向こうの空は、昼間なのに薄暗い。雲が低く垂れ込め、まるで街の上に重い蓋を落としたみたいだ。
(嫌な空だ)
数字はきれいだ。帳簿の上には、危機の予兆はない。
なのに胸の奥で、警報みたいなものが小さく鳴った。
この世界の冬は、僕が知っている日本の冬よりずっと“閉ざされる”。街道が止まり、人が孤立し、助けが来ない――そういう怖さが、空の色に混じっている気がした。
* * *
受付ホールに出ると、冬特有の気だるい空気が漂っていた。
魔物の動きが鈍る季節で、クエストの数自体が減る。暖炉の近くには冒険者が固まり、酒と賭け事で時間を潰している。
「あ、アラタさん。お疲れさまです」
カウンターの向こうで、ミーナが頬杖をついていた。
いつもの柔らかな笑みはあるのに、目だけが落ち着かない。視線が、何度も入口の扉――その向こうの空へ吸い寄せられている。
「冷えますねえ……。なんだか、嫌な空の色」
「雪になりそう?」
「ただの雪ならいいんですけど……」
ミーナは肩をすくめた。けれど指先が、カウンターの縁を小さく掴んで離さない。
「お婆ちゃんの昔話、思い出しちゃって。『灰色の雪』の日は外に出るな、って」
「灰色の雪?」
「ええ。もちろん、雪そのものが灰色になるわけじゃないんですけど。
四十年くらい前……この辺りがまだ今ほど大きな街じゃなかった頃、今日みたいに空が灰色に澱んで……そのあと、子どもや年寄りが、火がついたみたいに熱を出して倒れたんですって」
暖炉の薪が爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。
「咳が止まらなくなって、皮膚が……灰みたいに、くすんでいって。最後は、冷たくなって……」
ミーナはそこで、無理に笑ってみせた。
「ま、昔話ですけどね! 怖がらせて言うことを聞かせるやつっていうか……」
でも、その笑顔はぎこちない。
僕が何か言おうとした瞬間――。
バンッ!
ギルドの扉が乱暴に開かれ、冷たい風が吹き込んだ。暖炉の火が大きく揺れる。
飛び込んできたのは、顔色の悪い中年の男だった。見覚えがある。
D級の冒険者で、普段は護衛や採取クエストを細々と受けている。
「おい、誰か! 治癒術師はいねえか!?」
酒杯が止まり、賭け札が止まる。ロビーの空気が一変した。
「どうした、そんなに慌てて」
「う、うちの娘が……朝から熱が下がらねえ! ただの風邪だと思ってたのに、急にひきつけを起こして……肌が、土みたいな色になってきやがって……!」
その言葉に、ミーナが息を呑んだ。
僕も、背中がひやりとした。
(灰色の雪――)
冗談めかした昔話が、いきなり現実の重さを持って胸に落ちてくる。
カウンター脇にいたロアンが、椅子を蹴って立ち上がった。
「治癒魔法は病気には効かねぇ! 診療所だ。今すぐ運べ!」
ロアンの怒鳴り声が飛び、冒険者が男を押し出すようにして外へ走る。
扉の向こう、灰色の空が、じっとこちらを見返している気がした。
* * *
予感は、最悪の形で当たった。
翌日には診療所へ運び込まれる患者が十人を超えた。
高熱、激しい咳、そして皮膚の変色。医師たちの表情から、深刻さが伝わってくる。
そして三日目、診療所から正式に告げられた病名は――灰熱病。
かつてこの国で流行し、多くの人の命を奪った伝染病だ。
(……四十年前の、あれ)
セラフィナが語っていた。父の代、倉庫の備蓄を開け放って“持たせた”冬の話を。
その時、特効薬の処方を求めて王都へ走ったのが、ルミナ薬工房のトクレンだとも。
僕は迷わず、ルミナ薬工房へ向かった。




