第73話 地図にない国、帰りたい場所
――この前、市場で。
人波の中で「行くわよ」と僕を引いた、あの仕草だ。
「……ねえ、アラタ」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「前から聞いてみたかったのだけれど……。
あなたの言うその“国”って、この世界の地図の、どこにあるのかしら?」
ドキリとした。
心臓の音が、耳元で大きく鳴り響く。
いつか聞かれると思っていた。
そして、いつものように適当にはぐらかす準備もしていた――はずだった。
「それは……」
東の島国、と言うべきか。
西の大陸の果て、と言うべきか。
僕の脳内で、いくつかの嘘が浮かんでは消える。
けれど、袖をつまむ彼女の指先が、ほんの少し震えているのを感じて、僕は言葉を失った。
彼女は、気づいている。
僕が語る知識、僕が持っている価値観、そして僕という存在そのものが、この世界の理から外れていることに。
「……東の、ずっと東の島国かしら? それとも、砂漠を越えた南の国?」
セラフィナが僕の顔色を窺うように、試すような地名を口にする。
けれど、その瞳は答えを求めていなかった。
僕は観念して、小さく息を吐いた。
「……いいえ。違います」
僕は夜空を見上げた。
淡く揺らめく世界光の彼方。ここではないどこか。
「きっと、この世界の地図には……載っていない場所です」
言ってしまった。
明確な言葉にはしていない。けれど、それは決定的な告白だった。
バルコニーに沈黙が落ちる。
遠くで馬車の車輪が石畳を転がる音だけが、微かに響いている。
僕は、彼女の反応を待つのが怖かった。
気味悪がられるだろうか。
それとも、頭がおかしくなったと思われるだろうか。
意を決して、言葉を継ぐ。
「……ごまかすのは、やめます。
僕のいた国は、この世界のどこにもありません。
気がついたら、この街の路地裏にいて……。
どうやって来たのかも、どうすれば帰れるのかも、分からないままなんです」
嘘偽りのない、僕の真実。
根なし草の異邦人。それが僕の正体だ。
セラフィナは、驚いた様子を見せなかった。
あるいは、ずっと前から予感していた答え合わせが、今終わっただけなのかもしれない。
彼女は、袖をつまんでいた手を離し、そっと僕の手に重ねた。
温かい。
「……そう」
彼女は静かに、それだけ言った。
「どういうこと?」とも、「魔法なの?」とも聞かなかった。
ただ、事実として受け入れた。
「教えてくれて、ありがとう、アラタ」
その声の優しさに、胸が締め付けられるようだった。
拒絶されなかった安堵と同時に、言いようのない罪悪感が湧き上がってくる。
僕は彼女の横顔を見つめながら、心の中で自問した。
(……僕は、何をしているんだろう)
セラフィナのことは尊敬している。信頼している。
一緒にいると安心するし、彼女の笑顔を見ると嬉しくなる。
でも。
僕たちは違いすぎる。
街一番の大商会の当主と、ギルドのいち雇われ雑用係という身分差だけじゃない。
僕は、いつか消えるかもしれない存在なのだ。
もし明日、ふとした拍子に元の世界に戻ってしまったら?
あるいは、元の世界に戻る方法が見つかった時、僕はここでの生活を捨てられるのか?
(これ以上踏み込んだら……もう元の世界に“帰る”って選択肢を、自分で壊してしまう気がする)
迷いの中で黙り込む僕に、セラフィナがふと、夜空を見上げながら言った。
「ねえ、アラタ」
「……はい」
「あなたがいつか、その“地図にない場所”に帰る日が来るのかどうか、私には分からないけれど」
彼女は冬を待つ澄んだ夜空から、ゆっくりと視線を落とし、まっすぐに僕を見た。
その瞳には、強い意志が宿っていた。
「この街が、あなたにとって……」
彼女は少し言葉を探し、そして祈るように微笑んだ。
「“また帰ってきたい”って、そう思える場所であればいいのだけれど」
ドクン、と。
その瞬間、頭上の世界光がひときわ強く瞬いた気がした。
帰りたい場所。
それは、どんな引き止めの言葉よりも深く、僕の心に突き刺さった。
胸の奥で、何かがカチリと音を立てて嵌まる。固く閉ざしていた錠前が、彼女の言葉という鍵で開かれたような――不思議な感覚だった。
「……セラフィナ」
言葉にならなかった。
ただ、胸の奥がふっと軽くなるのを感じて、僕は小さく笑った。
今、この瞬間だけは、先の見えない不安よりも、彼女と共にいる温もりを信じてもいい気がした。
夜風が、二人のあいだを優しく通り抜けていく。
いつか本当に、元の世界に戻れる日が来るとして――。
そのとき、「もう一度ここに帰りたい」と願う自分がいるかもしれないと、僕は初めて想像してしまった。
(帰りたい場所、か)
目の前の倉庫の在庫の山は減った。
けれど、胸の中に静かに積もっていくこの感情は、どんな帳簿にも書き込めないまま、ただ増え続けていく一方だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
第6章「積み上がる木箱と、静かに死んでいくお金」はここまでです。
“守りの在庫”と“腐る在庫”――その区別が、商会の倉庫にようやく光を入れました。
そしてアラタとセラフィナの関係にも、小さいけれど確かな変化が。
次話から、第7章「詰まったパイプと、流れる命」が始まります。
――灰色の雪が降り、街が“病”に飲み込まれる。
特効薬はある。だが、貯められない――“最悪の冬”が、いま始まる。
いよいよ第1部最終章、怒涛のクライマックスまで是非お付き合いください!
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