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第72話 バルコニーの二つのグラス

エルドレッサ商会本店の最上階。

普段は商会長の私室として使われているその場所には、街を一望できる広いバルコニーが備えられていた。


重厚なガラス扉を開け放つと、ひんやりとした秋の夜風が頬を撫でた。

眼下にはローレンツァの夜景が広がり、頭上には淡く揺らめく世界光のカーテン。

今夜は空が澄んでいるせいか、薄い光の筋までもくっきり見えた。


「お疲れさま、アラタ」


背後から、衣擦れの音が近づいてきた。

振り返ると、セラフィナが二つの銀のグラスを持って立っていた。


昼間の作業着から、ゆったりとした夜着に着替えている。

そのリラックスした姿に商会長としての威厳はなく、ただ一人の年頃の女性としての素顔があった。


「ありがとう。……いただきます」


手渡されたグラスには、深い紅色のワインが注がれている。

カチン、と澄んだ音を立ててグラスを合わせる。


「乾杯。……私たちの“大掃除”の完了に」


「乾杯」


ワインを口に含むと、芳醇な香りとともに、心地よい酸味が喉を潤した。

一週間にわたる倉庫整理の疲れが、アルコールとともに溶けていくようだ。


バルコニーから見下ろすと、南の大倉庫の屋根が見える。

あの倉庫にはもう、金貨が静かに死んでいく暗がりはない。


「……今回の件、僕にとっても大きな勉強でした」


僕は夜景を見つめたまま、ぽつりと漏らした。


「ギルドの時は、とにかく現金がなくて、在庫を減らすことばかり考えていました。

 だからここでも、“在庫は悪だ”なんて理屈を振りかざしてしまった。

 ……でも、それだけじゃこの世界の現実は語れないって、セラフィナに教わりました」


冬の厳しさ。孤立する恐怖。それを乗り越えるための備蓄。

数字の向こう側にある“人の営み”を見落としてはいけない。


それは、会計士として僕が一生忘れてはいけない教訓だ。


「……ううん」


セラフィナが首を横に振った。

夜風に金色の髪がさらりと流れる。


「あなたがいなかったら、私はきっと、“腐る在庫”から目をそらし続けていたと思う。

 父の残した在庫にしがみついて、中身がダメになっていることに気づかないふりをして……いつか商会ごと共倒れになっていたかもしれない」


彼女は僕の方を向き、真っ直ぐな瞳で言った。


「ありがとう、アラタ。

 あなたが背中を押してくれたから、私は父の影から一歩、前に進めた気がするわ」


「……そう言ってもらえると、救われます」


ふと目が合い、僕たちは自然と笑い合った。

至近距離で見る彼女の笑顔に、心臓がトクンと跳ねる。


仕事のパートナーとしての信頼。

それ以上の何かが、このバルコニーの静寂の中で育っているのを肌で感じてしまう。


酔いのせいだろうか。

いつもなら飲み込む言葉が、ふと口をついて出た。


「僕のいた国でも……昔は、在庫の山を“富”だと思っていた時代があったんです」


セラフィナは、驚くでも笑うでもなく、ただ静かに頷いた。


「作れば売れる、持っていれば安心。……でも、ある時代から、物が思うように売れなくなって、初めて身軽さの価値を知ったんです」


この街で彼女にそれを語っていることが、どこか不思議だった。

同じ“在庫”という言葉でも、背負っている現実が違いすぎる。


言いかけたところで、左腕にかすかな重みを感じる。

セラフィナがいつの間にか、僕のシャツの袖の端を指先でつまんでいた。

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