第66話 腐りゆく金貨の気配
夜の倉庫は、昼間よりもさらに静まり返っていた。
カンテラの揺れる光が、積み上がった木箱の影を長く伸ばす。
僕たちは、以前作成した在庫リストと、ルカがまとめている最近の売価メモを記した帳面を片手に、棚の奥へと進んだ。
目指すのは、セラフィナが「昔からの備蓄」と言っていたエリアだ。
「……これはどうでしょう?」
ルカが指差した棚には、『高級ポーション用魔石(A級)』と書かれたラベルの貼られた箱が並んでいた。
帳簿上では、ひと箱あたり仕入れ値である“金貨10枚”の価値がある資産として計上されている。
僕は一番手前の箱ではなく、奥に埋もれていた箱の一つを引き出した。
埃が舞う。木箱の蓋は、湿気で少し歪んでいた。
――箱の角に、かすれた封印紋が見える。
だが、ポーション瓶の口を覆うあの封印に比べると、弱々しく、ところどころ擦れていた。
(コストをかけた封印じゃない。……これじゃ、年を越すうちに“ほどけ”ても不思議じゃない)
非常用の高級備蓄は、出番がない限り箱ごと開けない。
封印の劣化も、外からでは気づきにくい。
「開けるぞ」
レオニスが道具を取り出した。木と革で作られた簡易のこじ開け具だ。
金属で叩けば火花が散る。魔石の前では、そういう雑な真似はしない。
ギィ、と乾いた音がして、蓋が持ち上がる。中身が露わになった。
そこには、ほのかな光を帯びた魔石がぎっしりと詰まっていた――はずだった。
「……あれ?」
ルカが声を上げた。
手前の何個かは、確かに澄んだ光を放っている。
だが、箱の底の方にある石を取り出そうとしたレオニスの手が、びくりと止まった。
「っ……!」
指先に、嫌な感触が走ったらしい。
彼がつまみ上げた魔石は、表面が白くくすんでひび割れ、光もどこか濁っていた。
そのうえ、手のひらの上で、ぴち、と青白い火花のようなものが散った。
「ちょ、待て、それ――」
レオニスは反射的に魔石を布で包み、腰の隔離袋――魔力を遮断する布で作られた袋に押し込んだ。
袋の上からでも、ぴち、ぴち、と不吉な熱が伝わってくる。やがて中の光が、すっと消えた。
「……魔力漏れだ」
レオニスの顔色が青ざめる。
「こういうのを元の箱に突っ込んだままにしておくと、周りの石と共鳴して、魔力が抜けるのが早まるんだ。
……“腐りミカン”ってやつだよ。腐ったのを一個混ぜておくと、箱全体が腐っちまう」
よく見ると、さっきまで“良品”だと思っていた手前の魔石のいくつかも、端の方からじわじわと色が曇り始めていた。
「これ、もうA級品としては売れませんね……」
ルカが、悲痛な声で言った。
「魔力が抜けた石は、加工して『着火石』くらいにはなりますけど……値段は十分の一以下です。
買い取り相場も、ほとんど小銭ですよ」
帳簿では金貨10枚。
でも現実は、金貨1枚の価値もない。
僕たちは、他の箱もいくつか開けてみた。
旧式の道具用パーツ。仕入れ値のまま残っているが、今の市場では新型が出回っていて、半値でも買い手がつかないもの。
湿気を吸って変色してしまった高級布地。
封印が薄れ、薬草の香りが抜けかけた材料箱。
「……この前の棚卸しで、“とりあえず仕入れ値で”載せた箱たちです」
ルカが埃まみれの箱を見つめて言った。
「あの時は、あまりに数が多いので、いちいち箱を開ける手間をかけずに、ラベルを見て、数だけを数えて帳簿に載せました。
でも今見ると……これを“仕入れた時と同じ値打ち”だとみなすのは、無理があります」
レオニスが、悔しそうに唇を噛んだ。
「……たしかに、これを“高級品の箱”として放っておくのは嘘だな。
姉さんは『備蓄だ』って言ってたけど……これはもう、備蓄としての役目も果たせない“危ない箱”だ」
これは、「最初の棚卸しが間違っていた」わけじゃない。
第1段階では量と原価を揃えるのが精一杯だった。
そして今、ようやく第2段階――「正しく評価する」というステップに手を付けられるようになったのだ。
「……ギルドの時とは、逆だ」
思わず声に出ていた。
「ギルドでは帳簿の値段より中身の方が価値を持っていました。ここは逆です。
帳簿に立派な金額が並んでいても、箱の中身が朽ちていたら――それは嘘になる」
「……逆、か」
レオニスが短く唸った。
「……ざっと見た範囲だけでも、仕入れ値の合計は金貨200枚を超えそうです」
ルカが帳面を指でなぞりながら、震える声で言った。
金貨200枚のはずの在庫が、実は20枚の価値もないかもしれない。
差額は、帳面の上にだけ存在する“幽霊”だ。
「……アラタさん」
ルカが、不安そうに僕を見た。
「これ、商会長に報告しますか?
……きっと、ショックを受けますよ。お父様が残した財産が、価値を失っているなんて」
「ああ、そうだね」
僕は、隔離袋の上から、冷えた魔石の感触を確かめるように手を置いた。
かつては輝いていたはずの石。けれど今は、冷たくて、重い。
(これは“命綱”なんかじゃない)
このまま放っておけば、帳簿の上だけの数字を信じて、本当の危機が来た時に“あるはずのものがない”という絶望を生む。
エルドレッサから静かに体力と信用を奪い尽くす……商会そのものを殺しかねない病巣だ。
「でも、伝えなきゃいけない。
セラフィナを論破するためじゃなく……彼女と、この商会を守るために」
僕は顔を上げ、レオニスを見た。
「レオニス。明日、もう一度セラフィナに会いに行く。
これを一緒に見てもらいたいんだ」
レオニスは、しばらく黙って隔離袋を見つめていたが、やがて力強く頷いた。
「……分かった。俺も一緒に行く。
姉さんを責めるためじゃない。商会を守るために」
倉庫の暗闇の中で、僕たちの覚悟は固まった。
明日、この石をセラフィナの前に置く。
そこから先は――正面からぶつかるしかない。




