第65話 鍵の鳴る夜
ギルドに戻った僕は、濡れた髪を拭きもせず、受付カウンターの端に座り込んでいた。
開いたままの帳簿の数字が、ただのインクの染みにしか見えない。
頭の中では、重く閉ざされた倉庫の扉の音と、セラフィナの拒絶の言葉が、何度も何度もリフレインしていた。
「……アラタさん、本当にどうしたんですか? まるで幽霊みたいですよ」
ミーナが心配そうに紅茶を出してくれた。
温かい湯気が立つカップを受け取っても、指先の冷たさは消えない。
「……喧嘩、しちゃいまして。セラフィナと」
「えっ!?」
ミーナが目を丸くする。
ロアンが奥から出てきて、呆れたようにため息をついた。
「どうせ、お前のことだ。また数字の話で融通の利かねぇことでも言ったんだろ?」
「……図星です」
僕は力なく頷いた。
「在庫が多すぎる、と指摘しました。……多すぎる在庫は“罪”だと言ってしまって」
「ぶふっ!」
ロアンが飲んでいた水を噴き出しそうになった。
「お前なぁ……。この時期にそのセリフは、さすがに地雷だろ。
俺だって冒険者だ。冬場、ポーションが倉庫にねぇほうがよっぽど怖ぇぞ。命がかかってんだからな」
「……そうですよね」
(まるで、元の世界にいたときの“悪い癖”そのままだ)
監査法人にいた頃も、現場を知らずに「数字がおかしい」と一方的に指摘して、何度も経理担当者を怒らせた。成長していない。
「でも……」
ミーナが、紅茶のカップを両手で包んだまま、少し言い淀んだ。
「全部が“守り”になる在庫ってわけじゃ……ないと思います。
この前の棚卸しのときも、奥の方に埃をかぶったままの品がありましたよね。
持ち主が帰ってこない預かり武具とか……勝手に動かせないのに、そこに“ある”だけで場所も手間も食ってて……」
ミーナは一拍置いて、続けた。
「それに、虫が入ってて『タダでも引き取ってくれりゃ御の字』って言われた毛皮も……。
“あるのに、助けにならないもの”って、確かにあるんだと思います」
ミーナの素朴な言葉に、はっとした。
そうだ。僕は「全部悪い」と言ったように聞こえてしまったけれど、本当に伝えたかったのはそこじゃない。
ロアンが顎を撫でて、ぶっきらぼうに言う。
「“在庫が悪い”んじゃねぇ。……混ぜるな、って話だろ」
その一言が、胸の奥の霧を払った。
「……ありがとう、ミーナさん。ロアンさんも。少し、目が覚めました」
僕は立ち上がった。
落ち込んでいる場合じゃない。謝りに行く前に、やるべきことがある。
“盾”を否定するんじゃない。
盾として役に立たない箱を――見分けて、隔離する。
* * *
その日の夜。
僕はエルドレッサ商会の裏口で、レオニスとルカを待っていた。
日が落ちる前に二人へ頼んでおいたのだ。
「閉店後で構わないので、もう一度だけ倉庫を見せてほしい」と。
もちろん、勝手に倉庫へ入るつもりはない。あれは商会の心臓部だ。手順を踏まなければ、僕の正しさはただの暴力になる。
ほどなくして、闇の向こうにカンテラの光が揺れた。
「……アラタさん」
現れたレオニスの声は低かった。
後ろには、帳簿と小さな革袋を抱えたルカがいる。
「姉さん、執務室に一人で籠って、ずっと難しい顔してる。今は誰も近寄れない」
僕は喉が詰まって、すぐに言葉が出なかった。
「ごめん。僕のせいだ」
深く頭を下げると、レオニスは一拍置いて、短く言った。
「……で、今度は何を言ったんだ?」
「在庫の話を。――言い方を、間違えた」
レオニスの眉がわずかに動く。
「姉さんは、簡単には折れない。……父のことが絡むと特にな」
その言葉が、胸に重く落ちた。
「だからこそ、謝りに行く前に、ちゃんとこの商会の現状を知りたいんだ。
“在庫は罪”なんて極端な言い方じゃなくて……どれが“守り”で、どれが“本当に危ない箱”なのかを、数字と現物で確かめたい」
レオニスは一瞬だけ僕を見つめ、それから小さく頷いた。
「……商会を守るためなら、協力する」
ルカも静かに頷き、帳簿を抱え直した。
レオニスが腰の鍵束を鳴らした。金属の音が夜気に乾いて響く。
「俺の名前で夜番に話は通してある。行くぞ。……静かにな」




